21.遠い日の記憶
気がつくと、私はホウキに乗って空の上にいた。足元には大きな湖と森、素朴な町並みが広がっている。
それは私の故郷……ミラヴォーの町だ。背後には赤い髪の魔法使いがいる。今見ると、少し幼い顔立ちに見えた。
あれ? 待って? 私は今、井戸の底にいるはず……しかし、ホウキの柄を握る自分の手が小さい。昔の夢を見ているのだとすぐに気がついた。
空から舞い降りた私たちを、町の人たちは拍手で出迎えた。
「大丈夫か!?」
青い顔をした両親が足元に駆け寄ってくる。赤い髪の魔法使いは、何も言わずに私を地面に降ろすやいなや、激しく咳き込んで地面に転がってしまった。確かに、ずっと咳を耐えているような気はしていた。
町の人たちは一斉に引き下がった。
父はホウキから降りた私を抱き寄せ、母が魔法使いの傍に寄ると膝を折った。母は地面に丸まる彼に耳を近づけ、それから背中をさすりながら言った。
「熱があるな」
母がさらに何かを呟くと、ずるずると身を起こした魔法使いがかすかに頷き、また強く咳き込んだ。母は背中をさする手を休めることなく質問を重ねる。
「発作止めの薬は?」
「……持っていないけど、少し休めば落ち着くはず」
魔法使いは立ちあがろうとした。しかし、そんな彼の腕を母がすかさず捕まえる。魔法使いは抵抗しなかった。いや、できなかったのかもしれない。細い肩が呼吸をするのに揺れるたび、微かに笛のような音が聞こえた。
「だめだ。いま無理をしたら命に関わる」
医術の心得のある母の低い声に、動揺したのを覚えている。
「娘を助けてもらった恩もある。うちで休んでいきなさい」
母はさらに続けたけれど、魔法使いは首を頑なに横に振りつづけた。しかし彼の咳は止まず、さらに激しさを増すばかり。さらに、ポツポツと降り出した雨がすっかり本降りになってしまっていた。
「もう君の気持ちは聞かない。このまま見捨てるわけにはいかないから」
母は父に指示をして、動けなくなってしまった魔法使いを家まで運ばせた。
本当にひどい雨だった。雨粒が激しく屋根を叩く音と、魔法使いの咳の音が混ざる。私はいつもの時間に布団に入ったものの、魔法使いのことが心配で全く眠れなかった。『命に関わる』という言葉の意味は、幼いながらに理解していた。
「大丈夫、エルシェ。ちゃんと薬は飲んでくれたから、少し休めば良くなるよ」
「ほんと?」
「ああ。だからいい子は早く寝るんだ」
母はそう言って私の頭をくしゃくしゃと撫でて、胸の中へと抱き寄せた。雨の弱まりと共に、咳の音も聞こえなくなっていった。
翌朝。雨はすっかり上がっていた。いつもよりずっと早く目覚めた私は、寝衣のままで外に出ると、庭の片隅に咲く白い花をプチプチと摘んだ。
まだ薄暗い台所からコップを拝借して摘んだ花を生けると、今度は両親の寝室へ。両親が寝息を立てているのを確認してからこっそり客間に忍び込み、ベッドのそばに立った。
布団から、燃えるように赤い髪がはみ出している。荒かった呼吸はすっかり落ち着いていた。
「おくすり、どうぞ……」
ドキドキしながらサイドテーブルに花入りのコップをそっと置き、祈るように彼の髪の先に触れる。
「はやく、良くなってね」
その言葉は、寝ている彼を起こさないように、小さく小さく呟いたつもりだった。しかし、どういうわけか魔法使いの薄いまぶたは私の声に応えるようにぴくっと動き……金色の目が開く。
「今の……なんだ……?」
見つかっちゃった!!
頭が真っ白になり、両手で口を塞いだまま固まった私。ゆっくりと起き上がった彼は私をぼんやりと見て、それから、ぎこちなく笑った。
「……そうか。君も、魔法使いだったのか」
どこか確信めいた顔で、彼はつぶやいた。暖かな手が頬にそっと触れ、髪を撫でられる。
「えっ? わたしが?」
「うん。間違いなく、君は魔法使いだ」
大きいけど華奢で温かい手が、おいでと手招きしてくるようだった。
……そうか、だから私は、この道を目指したんだっけ。
◆
目の前の風景が、実家のリビングルームに切り替わる。
私は少し大きくなって、中等学校の制服を着ていた。目の前には両親が並んで座っている。記憶にはっきりとあるシーンだった。
「魔法師になりたいだって?」
私に医師になってほしいと願っていた両親への、かなり思い切った告白だった。両親は目を丸くして顔を見合わせている。
「魔法学校ってどこにあったっけ……?」
母が父に尋ねた。父は椅子にもたれ、顎の下をさすりながら答える。
「えっと、一番近いのがヴェロン……かな? 列車で丸一日かかるね……あとは王都か学術都市なんじゃないか」
「……学術都市ってベルカンティアか」
母が言うと、父が頷く。
「だねえ。隣国よりずっと遠い場所だ」
魔法師になるには、このとおり遠くの学校に行かなければならない。南部地方には魔法学校がないからだ。
両親はそのまま黙ってしまった。あまりにも気まずくて、私はきゅっと小さくなる。
女子に学は必要ないという人も少なくないとはいえ、両親はまるっきり逆の立場だ。母も父と結婚するために医師の道を諦めたとはいえ、実は医学校を出ているくらいなので。
だけど、これが魔法師となると話がガラッと変わってくる。
まずはお金の問題。実家は貧しくはないとはいえ、裕福でもないといった具合。しかも、私の下には弟が三人いる。
初等学校の時、私は町の有力者の目に留まって奨学生になれた。隣町の中等学校へはそれで通っていた。わざわざ隣町の学校を選んだのは、手に職をつけるためではなくて進学を視野に入れていたから。
その中等学校でも成績優秀として、進学後も引き続き奨学生でいられることは決まっているけれど、それだけでは残念ながら学費や寮費の全ては賄えない。入学試験を受けるにもお金はかかる。
そもそも試験の出願に必要な……魔力があるかどうかの鑑定を受けて書類を出してもらうにも、列車で丸一日かけて遠くの街まで行かなければならない。鑑定費用も高額だと言われている。
それはもし魔力がないと言われたら、無駄になってしまうお金だ。南部の生まれの人間は、魔法使いになるための素質……魔力を持っている可能性がとても低い。私は両親に深く頭を下げた。
「鑑定してもらうためのお金と、試験を受けるためのお金を……貸してください。それと、その、もし学校に行けることになったら、奨学金で足りない分も……」
両親は考え込んだ様子で黙っている。私はすがるように続けた。
「働けるようになったら、必ずお返しします……だから」
重い沈黙。それを破ったのは、母のからりとした笑い声だった。
「おいおい、この子はいったい何を言いだすんだ」
こうして笑い飛ばされてしまうのは想定の範囲内ではあったけれど、私は奥歯をギュッと噛む。
「そう……だよね、駄目だよね……」
現実はこんなものだとはわかっていても、苦しかった。だけど、なぜか母は私の横に席を変え、肩を抱いてきた。
「ごめん! そうじゃなくて。申し訳なさそうな顔をして頭を下げることはないってこと」
「お母さん……」
「大丈夫。ちゃんと支えるから、目指してみろ。だって、そのために私たちはきりきり働いてるんだ。なあ?」
母はにやりと笑いながら、父にウインクしてみせる。
「まあ、引き続き奨学金をもらえるように頑張ってくれたら助かるけどね」
父の笑顔を最後にして、蝋燭の火を吹き消したように目の前が再び暗闇に染まる。
無謀な夢を見た私を信じてくれる人も、支えてくれる人もいた。
すべて奪われそうになった時に、手を差し伸べてくれた人も。
「先生……」
両親にも、見ず知らずの野ねずみを拾ってくれた先生にも、恩を返せないまま終わってしまうのか。
『エルシェ!!』
名前を呼ばれた。暗闇の中に、まるで木漏れ日のように光が差し込んでくる。光は金色や青色に色を変えながら、どんどん強くなる。
視覚も聴覚もとっくになくしていたはずなのに、なぜか幻にしてはあまりにもはっきりとしていた。
冷え切って固まった体を温かいものが包み、真っ暗な水の底に溶けて消えたはずの私の輪郭が、ほんのわずかに形を取り戻す。
私はそのぬくもりに身を委ねた。
……ああ、この感じ、懐かしいな。
浮遊感。赤い髪の魔法使いに抱えられて空を飛んだときと、よく似ていた。




