13.ある一日〈2〉
十二時過ぎ。先生が外での仕事を終えて帰宅され、いっしょに昼食を摂る。十五時にはお茶と一緒におやつを召し上がるので、お昼はサンドイッチとスープと軽めだ。食後は自室で少し休憩をしてから、午後の仕事を始める。
「では、最初にこの計算を頼めるだろうか。それから魔法陣を……」
「わかりました」
私が受け持つのは、様々な計算、魔法陣の作図、資料の検索、論文の清書、手紙の代筆など。頼まれた雑用は何でも、といった感じだ。残念ながらというか幸いというべきか、魔法の出番はない。
黙ってそろばんを弾き、出てきた数値を表に書き込んでいく。
先生は、野ねずみの私に魔法を使うことを求めない。仕事道具として与えられた時計も、自室の照明も、魔力を必要とする魔道具ではなく、普通のもの。
そりゃ魔力量の計算や、魔法陣の作図は魔法師でないとできないけれど。
当然のようにひとりで依頼に出向いて帰ってくる先生を見るたび、なんだか思っていたのと違う……という思いが胸をよぎる。
「……終わりました。ご確認ください」
出来上がった仕事を受け取った先生は、眉を動かさないまま言った。
「ありがとう」
温度のない謝辞に、また心がぐらつく。
あっという間におやつの時間。マルタさんのお手製のお菓子とお茶が振る舞われる。先生は甘いものが好きらしく、クッキーを口に含んだ瞬間、表情を少しだけ柔らかくする。
おやつを食べたら、私はまた先生に頼まれた資料を作り、お渡しする。
マルタさんは夕飯を作り終えた十六時ごろに帰宅している。私たちの夕飯と一緒に自分の分の夕飯も作り、持って帰って食べるらしい。帰りはご主人が迎えに来られたり、天気が悪い時は先生が家まで送ったり。
ああ、私がここに来た初日に馬車に乗せてくれた方、お名前はフリッツさんと言うんだけど、彼がマルタさんの夫だ。ご夫婦で、私にもとってもよくしてくださる。
十八時に終業。窓から焼けるような赤い夕陽が差し込む中、仕事部屋を片付ける。進捗によって十数分ほど押すこともあるけど、基本的には学校の授業のようにきっちりしている。
最初に時計を支給された理由がよくわかる。規則正しい生活を好まれていて、私にもそれを求められているのだ。
マルタさんが作ってくださった夕食を温め直し、先生とふたりで静かに食べる。夕食の献立はパンかお芋と、お肉料理、具だくさんのスープという組み合わせ。
今日のスープはお豆がたくさん入っていた。色は黒に白に赤に緑、大きさも色々。今まで見たことのないものもある。おるおそる口に入れてみる。
「わっ、美味しい!」
食感はホクホクしていたり、ぷちぷちしていたり。おもしろくて目を白黒させていると、先生がわたしをじっと見ていた。
「美味しいのか」
「はい! とっても! 先生はどうですか?」
先生は私に一瞬だけ視線を合わせ、スープのお皿に静かに視線を落とした。
「なるほど。また同じものを作ってもらえるように頼もう」
「ありがとうございます……」
「マルタも、君が喜んでいると知ったら嬉しいはずだ」
先生は小さく呟くと、再び黙って食べ始めた。私は、先生がどう思っているのか知りたかったのに。
夕食を終えると先生は勝手口から外に出る。お風呂のお湯の準備をするためだ。このおうちの台所は普通の家庭と同じ仕様だけど、お風呂には魔法使いの家にはよくある魔動機関を使う。炎か熱魔法でお湯を効率的に沸かす仕組みだ。
残念ながら野ねずみの私には扱えないので先生がお風呂の準備をしてくださっている間、私はまたお皿を洗う。
先生の後にお風呂をいただく。私のために新しく張ってくれたお湯にはいつも、庭で摘まれたハーブがひと枝、香り付けに浮かべられている。先生の趣味か、はたまたこの土地の風習なのか。
「はあー……」
体と髪を洗ってあたたかいお湯につかると、つい声が出てしまう。実家でも寮でもお風呂は掛け湯だったから、最初はおっかなびっくりだった。けど今は、これがなくては生きていけない気がする。
「どこの貴族様なのよ、ほんと」
天井から涙のように水滴が落ちて、ぽちゃんと音を立てた。ゆらゆらと波打つ水面を見て、大きく息を吐く。
ここにあるのは私にはもったいないくらいの、至れり尽くせりの暮らし。そのうえ、お給金だってちゃんといただけるのだ。
……不満なんてない。ないんだけれど。
お風呂から上がった後は、リビングのソファーでくつろがれている先生の背中に向かってご挨拶をする。
「先生、お疲れ様でした。部屋に上がらせてもらいます」
「おやすみ」
先生は決してこちらを向かずに、本に目線を落としたままで言う。うんと背伸びをして、先生の肩越しに何を読んでいるのかを覗き見ようとする。なんだか分厚くて難しそうだけど、何の本かまではここからではわからない。諦めた。
「おやすみなさい」
初めこそ礼儀と思ってきちんと前に回っていたけれど、今は背中に話しかけるだけにしている。なぜなら目のやり場に困ったように、顔をそらされてしまうから。
その態度は、私の湯上がりの姿を見ないようにしてくださっているからだと気がついた。
本当に、気遣いの人だと思う。
先生は別に冷血でもなんでもない。確かに笑顔は出てこないし言葉も足りないけど、不機嫌や怒りを露わにすることもない。こちら側に土足で踏み込んでくるわけでもない。
凪いだ夜の湖のように、ひたすらに静かな人。
先生のことはちゃんと信頼しているから、身を預けることに不安はない。それなのに、私の心は居場所を求めて揺らいでいる。
……たまには、笑ってくださらないかな。
今夜は久しぶりに冷える。この辺りではサクラの花の時期に気温が下がる日のことを『花冷え』と呼ぶそうだ。
階段を上がろうとしたところで、大きなくしゃみが出てしまった。おじさんもびっくりの大音量を放ってしまって、自分でもびっくりする。
リビングの扉が音を立てて開いた。先生がこちらを見ている。逆光で表情はわからない。
「大丈夫か」
「大丈夫です」
久々に寝衣姿を見られたのが恥ずかしくなって、体がカッと熱くなる。先生はすぐに身体ごと目を逸らし、そして、腕を組んで固まった。
月明かりに照らされた廊下に、沈黙がごろんと横たわる。すっかり逃げそこねて思いっきり鼻をすすり上げてしまった私を、先生はキッと睨みつけてきた。
「……君、そこを絶対に動くな」
青い目が鋭く光っている。
「は、はい……」
まるで雷雲がやって来たような、いちだんと低い声に心臓が縮み上がる。先生から明らかな感情の揺れ……たぶん怒り……を感じた。
ああ、きっと『体調管理がなってない』とか言われて叱られるんだ。
『来よ、夏の日向の風』
しかし、先生の口から出てきたのは叱責の言葉ではなく、柔らかな詠唱。
予想が外れて目を瞬かせた私の身体を、熱い風が包む。そして異変を感じた。濡れていた髪がぱりぱりに乾いている。
先生が魔法を使ったのだと気付いた頃には、もう何事もなかったかのように背を向けられている。
「あ、ありがとうございます!」
先生の肩がわずかに揺れた。
「……風邪を引かれたら困るので」
先生は、こちらを振り返ることなく小さく小さく言って、またリビングのソファーに戻って行った。




