09.北の町、シュネハイム
「次はシュネハイム! シュネハイム!! お降りのお客様はお忘れ物のないよう!!」
車掌さんのはきはきした声が響き渡ってまもなく、汽車はレールを引っ掻いて、車体をガタガタと揺らしながら止まった。二等車の乗客たちはほとんど動かない中、先生はすっと立ち上がった。
その手には私のトランクを当たり前のように持っている。私もすかさず立ち上がった。
「あの、自分で持ちます」
「いや。ここは雪で足元が良くないので」
先生はこちらを見もせずにそう答えると、黒いマントをひらりと翻した。
通路を進み、デッキを抜けて汽車を降り、プラットホームを早足で進む。白い息が視界を霞ませる。初めての駅を観察する余裕もないままに改札を通り過ぎる。石造りの駅舎を出たところで、先生はぴたりと足を止めた。
「うわ、寒い……」
遮るものがなくなったからか、急に風を冷たく感じて身を縮める。見上げた空は薄く曇り、陽の光は淡くぼやけていた。
暦の上では春になっているというのに、シュネハイムはまだ冬の中にあるようだ。
そこここに薄茶けた雪がこんもりと残っていた。雪がこんな風に積もっているのは、実はほとんど見たことがない。実家のある地方では雪は降らないし、魔法学校のあった学術都市にも雪は降るけど、積もることはなかったからだ。
今着ている上着では歯が立たない、と思った。北部と言われて覚悟はしていたけれど、まさかここまでの寒さとは。
背中を丸め、上着の前をかき合わせた私の鼻先を、焼き菓子の甘い香りがかすめた。どこからだろうと思うがわからない。駅前には小さいながらも様々な商店が並んでいる。
雪をものともせず、人や馬車が盛んに行きかっている。学校帰りとおぼしき子供たちが建物の陰に集められた雪の山ではしゃいでいたり、買い物カゴを下げたご婦人たちが道ばたで楽しそうにおしゃべりしている。故郷にどこか似ている光景に、不安が少し薄れた。
「いた。行くぞ」
先生は短く言うと、スタスタと歩き出した。私はその後を慌てて追う。先生は道端に止まった簡素な荷馬車の横で足を止めた。
「おお、おかえり」
馭者の言葉に先生は会釈を返す。私も、それにならう。
髪がほぼ真っ白のおじいさん。だけど体格は先生よりしっかりしていて背筋もピンとまっすぐだ。お馬さんは鼻先に白斑の入った栗毛。若い馬ではなさそうだけど、目はしっかりと輝いていた。
「悪いな、あんま乗り心地は良くないだろうが」
「いいえ。迎えに来ていただけて助かります」
おじいさんの言葉に先生は丁寧に答えると、荷台に私のトランクを乗せ、自分が乗って、私をじっと見る。
「手を」
先生は伸ばしかけた私の手を取り、荷台に引っ張り上げてくれた。先生の大きな手は温かった。すらっと細い指には立派なペンだこがある。
「ごめんなあ、こんな綺麗なお嬢さんを荷台に載せて」
おじいさんがカッカと笑う。ずっと緊張でこわばっていた肩から力が抜けた。とたんに息がしやすくなる。助かった。
「大丈夫です! わくわくします!」
「元気があっていいなあ! よし、じゃあ行くぞ」
お馬さんがおじいさんの言葉を受け取ったのか、小さな荷馬車がゆっくりと進みだす。先生とは肩が触れ合いそうな距離。
「ご自宅はここから遠いのですか?」
「いいや、そこまででも。しかし、大きな荷物を持って歩くには少し遠いかもしれない」
馬車はしばらく走って止まった。確かに難なく歩いて行けそうな距離ではある。
植え込みの向こうに、二階建ての石造りの家が見えた。先生の手を借りて、降車する。
「ありがとうございました」
「おう! またいつでも呼んでくれな」
先生は馬車を見送ると、木製の門を押した。細い音を立てて開いた。冬枯れの広い庭にも、雪が所々残っている。物置らしき小さな小屋が二つと、薪棚、石組みの井戸と屋根の付いた洗濯場が見える。
先生のお宅は、二階建ての一軒家だった。雪よりも少し色の濃いグレーの石壁に、勾配の急な赤茶の屋根。建物にはやや年季が入っている。屋根から伸びた煙突からは白い煙が立って、曇り空へと細くつながっている。
先生が玄関ドアを開くと、奥の方から小柄な女の人が出てきた。若草色のワンピースの上に生成り色のエプロンを着け、白髪が半分以上交ざった栗色の毛を綺麗にまとめている。奥様……にしては少し年が離れているような。
「おかえりなさいませ」
「ああ。ただいま……マルタ、彼女です」
先生にマルタと呼ばれた女性は、私に向かって恭しく頭を下げた。私も同じ格好で答える。
「エルシェ・リヴェールです。これからお世話になります」
「家政婦のマルタ・ハーゲンです。遠いところをよくお越しになりました。さあさ、お部屋にご案内しましょうね」
そうか、家政婦さんか。優しそうな人だ。ちなみにマルタさんとのやりとりの間に、先生は私の荷物ごといなくなってしまった。
行方を気にしつつ、私はマルタさんの後ろについて階段を上がった。二階にはドアが三つ。階段を上がってすぐのドアが先生の寝室、その隣は、今は物置にしているらしい。そして一番奥の部屋は。
「エルシェさんのお部屋はこちらですよ」
マルタさんがドアを開く。薄暗い屋根裏部屋だと思っていた私は、目の前の光景に度肝を抜かれてしまった。
大きな窓のある部屋は、しっかりと温められていた。ふかふかの布団が掛けられたベッドと広いデスク、本棚、姿見、立派なワードローブ。おまけに柔らかそうなソファまで置いてある。家具はすべてが真新しく、木の匂いが心地いい。私のためにわざわざ新品を揃えてくださったのか。
いやもう、住み込みの弟子どころかどこのご令嬢かというお部屋だ。今まではベッドとデスクと物入れでいっぱいの狭い学生寮暮らしだったので、どこに身を置けばいいかわからない。心がふわふわとして落ち着かない。
「素敵……こんな贅沢なお部屋をいただいていいんでしょうか」
小さな暖炉の前で呆然と呟いたら、マルタさんが手を叩いて声を弾ませた。
「よかった!『趣味に合わなかったらどうしよう』と坊ちゃんがとっても心配してらしたので」
……んん、色々と謎や突っ込みどころがある。
「坊ちゃん……? 先生にはお子さんがいらっしゃるのですか?」
それなのに子供部屋がないってことは……? ああ、ここは別邸なのか、と結論しかけた私にマルタさんは笑いながら答える。
「あらやだ、ごめんなさい。ヴィクトール坊ちゃんのことです」
「ヴィクトール坊ちゃん……」
なんだか体に合わない服を着たような、変な味がする料理を食べたような気持ちになる。
「どうしても昔からの癖が抜けなくて……別に何と呼ぼうが構わないとおっしゃるので、そのままなんです」
「お、おおらかな方なんですね」
「ええ、とっても」
マルタさんは自分が褒められたみたいに笑いながら、何度も頷いた。
先生はやっぱり変わり者だ。
家政婦さんから『坊ちゃん』って呼ばれるのをおとなしく受け入れているなんて。あのしかめっ面からは想像できないんですけども。




