第94話 愛するあなたへ
食後。片付けと眠るための準備をしながら、メイランはシルリネアに、ザフィルと話し合ったことを伝えた。
「こっちに連れて来るのも何だし、明日にでもそいつを迎えに行こうと思ってさ。シルリネアはどうする?」
「どうするって……」
戸惑うシルリネアを見て、ザフィルが口を開いた。
「胸の傷があるし、血も失っている。休んでいてもいいと思うけど」
シルリネアは、首を大きく横に振った。
「行きたい。私の力が役に立つかもしれないし、それに……」
言い淀む。だが、意を決した。
「虚無の信奉者なんでしょ。最後は、私が引き受ける」
「……どうやって」
ザフィルが問う。褪紅色の瞳が、薄荷色をじっと見据える。
「私は、ナスラルの娘だから」
シルリネアが微笑んだ。ザフィルの瞳に、明確な怒りが灯る。
「あなたがそれを言うのか……!」
低い声で唸った。
「僕にメイランを悲しませるなと言った人が、メイランを悲しませるのか。僕に自分を大事にしろと言った人が、自分を蔑ろにするのか」
シルリネアは何も言わない。ただ、ザフィルの怒りを受け止めている。
ザフィルの怒りと呼応するように、炉の炎が舞い上がった。水は波打ち、あらゆるものがカタカタと音を立てて震える。
「待て待て待て」
メイランがザフィルを包むように抱きしめた。メイランによってザフィルの魔力が遮断され、家中の騒ぎが収まる。
メイランはほっとため息をついてから、苦笑した。
「お前らだけで話を進めねぇで、俺にもわかるように説明してくんない?」
******
ヴェンツェルの強く輝く瞳と、大司祭の疲れ切った瞳が交錯した。
大司祭が、重々しく頷く。
「魔法王国の同朋の言葉は道理である。神託を頂戴することにしよう」
大聖堂全体が、震えるようにざわめいた。
すぐに儀式の準備が始まった。待つ間、ロランド高司祭と目礼を交わし合う。急進派に属する人物だが、今はザフィルの傀儡だ。
ヴェンツェルが不利にならないよう、立ち働いてくれるだろう。
「ゲルハルト卿」
傍らにいるゲルハルトに、ヴェンツェルは声をかけた。ゲルハルトの目が、こちらを向く。
「あなたは大司祭を、どうご覧になりますか」
彼は少し考えていたが、やがて口を開いた。
「組織の維持に疲れ切った老人だ。引退すべきだが……大司祭自身が、それを望まないのだろう」
「なるほど。参考になります」
ヴェンツェルは微笑み、礼を言った。概ね自分の意見と一致する。
大司祭は、組織の維持を最優先にしているように見える。神意を歪めて伝える理由も、きっとそこにあるのだろう。
——ザフィル打倒のお題目を下げるなら、私が口実を差し上げますよ。親愛なる大司祭猊下。
ヴェンツェルは、心の中でそう呼びかけた。
******
「でさ、まずシルリネアに聞きたいんだけど」
メイランはザフィルを抱え込んだまま、シルリネアに笑いかける。
ザフィルはしばらくの間、抑え込んでおこうと思っている。彼の感情に引っ張られた魔力が、破壊を呼ばないように。
ここをルハサーンにはできない。
「さっき、ナスラルの娘って言ったけど。それってどういう意味? 創生神と血縁関係があるってことじゃないだろ?」
おそらく血筋ではなく、契約としての娘だろう。そもそも神が子を成せるものなのか、メイランは知らない。
シルリネアが穏やかに微笑んだ。
「実の娘じゃない。私は神の娘として捧げられている。それだけ」
やはりそうだ。神との契約関係を、シルリネアは「娘」と表現している。
「じゃあさ、シルリネアがナスラルの娘だと、どうして虚無の信徒を引き受けられるんだ?」
「ナスラルは、ムズナと対を成すから」
「ムズナ?」
「ザフィルの触媒で呼ばれようとしていた神。ナスラルが創生、ムズナは終端」
メイランに抱え込まれているザフィルが、不快そうに顔を歪めた。
「メイランにわかりやすいように、教えてあげるよ」
低く沈んだ声だ。メイランが、腕の中の弟を覗き込む。
シルリネアが何も言わないので、ザフィルは話していいのだと解釈して、口を開いた。
「アザルファの転移門を知っているのだから、そいつはアザルファと強い繋がりがある。そしてアザルファはムズナを信仰していたのだから、同じように信仰している可能性が高い」
一度言葉を切り、メイランの様子を見た。
理解していそうなので、次に進む。
「普通の神官ならどうでもいいけど、ここまで来る奴が普通だとは思えない。だから、普通以上——シルリネアみたいに『神の子』のような存在かもしれない」
シルリネアの名前が出た時、メイランは少し動揺したようだった。
ザフィルは小さく嘆息する。
「もしそいつがムズナの力を使えるとしても、彼女はナスラルの娘として、同等以上に渡り合える。神の力は、普通の神官たちが使うような、ちっぽけな魔法とは比べ物にならない。ただしそうなった時——」
感情の温度を乗せない褪紅色の瞳が、シルリネアを見る。彼女の表情は変わらない。
シルリネアが何もかも知っていることを、ザフィルは理解した。
「——彼女は死ぬか、運が良くても瀕死になるよ。生き残っても、元通りに回復できる保証はない」
ザフィルを抱き込んでいるメイランの力が、強まった。かすかに震えている。ザフィルは兄の表情を確認したくて見上げたが、この角度では判然としない。
だから、結論を言う。
「僕は、彼女を連れて行くべきじゃないと思う。神の力は、人の体には負担が強すぎるから」
シルリネアが、わずかに表情を曇らせた。どういう感情でその表情になるのか、ザフィルには理解できない。だからメイランに尋ねる。
「これで全部。メイランは、どう思う——?」
******
シルリネアもザフィルも、どうしてこんなに簡単に、死に向かおうとするのだろう。
メイランにはわからない。
怖い。
「シルリネアはさ」
声が震えた。シルリネアは穏やかな表情でメイランを見ている。
「どうしたいんだ……?」
恐怖を飲み下しながら、どうにか声を絞り出す。
「行かなくちゃとか、やらなくちゃとかじゃなくて、シルリネアがどうしたいのか、教えてほしい」
シルリネアが愛おしそうに、メイランを見つめる。
「そうね……ごめんなさい、神の話は卑怯だった。ザフィル、あなたも不安にさせてしまった。ごめんなさい」
彼女はふたりに謝罪した。ややあって、口を開く。
「メイラン、私、一緒に行きたい。神なんて関係なくて、私は、あなたと離れたくない」
シルリネアは微笑んだ。メイランもその笑顔に引き込まれるように微笑む。
「じゃあ、一緒に行こう」
「うん」
メイランの腕の力が緩んだことを感じたザフィルは、兄の腕の中から抜け出した。
ひとつ嘆息し、立ち上がってシルリネアを見る。
「あなたは僕に、メイランに酷いことをするなと言ったね。あなたがメイランからシルリネアを奪うなら、あなたも僕と同じぐらい、メイランに酷いことをすることになるよ」
感情の薄い平板な表情だ。しかし、うっすらと口角が上がっている——皮肉げに。
「僕と同程度になるのは、嫌でしょう?」
シルリネアも苦笑した。
「そうね。絶対嫌」
「じゃああなたも、メイランからシルリネアを奪わない方法を考えて」
そう言って、ザフィルは家の外に出て行った。丁寧に扉を閉めて。
残されたふたりは、顔を見合わせて笑う。
「あいつ、外で寝る気かな」
「かもね」
メイランは声をあげて笑い、毛布を取って立ち上がる。
「これ渡してくる」
シルリネアの頬に接吻をして、メイランは家の外に出た。
幸せな気持ちでメイランを見送ってから、シルリネアはため息をついた。
メイランと離れたくない。その気持ちに偽りはない。神など何の関係もない。
だがムズナに対抗しうるのが、ナスラルの力だということも、同じぐらい偽りのない事実だ。ザフィルさえ、その点については否定しなかった。
だから必要になったら、シルリネアはナスラルの力を使うだろう。
たとえ、メイランを悲しませるとしても。
「やだなぁ……」
シルリネアは小さく呟いた。胸が締め付けられるように苦しい。
本当は、メイランを悲しませたくない。ほんの一欠片の悲しみも、与えたくなかった。
程なくして、メイランが戻ってきた。
「おかえりなさい」
シルリネアは微笑み、抱きついた。メイランも優しく抱き返してくれる。
「ずっと、こうしていたい」
そうできたら、どんなに幸せだろう。シルリネアの言葉に、メイランが笑う。
「そうしてやりたいけど……俺が手放せなくなりそう」
彼は優しく、それでいて決然と、シルリネアを離した。
「もう寝よう。これが終わったら……シルリネアの思い通りにしてやるからさ」
シルリネアは微笑む。
「本当に?」
「本当に」
「どんなことでも?」
「できることなら、何でも」
あまりの即答に、シルリネアは苦笑した。
「そんなに安請け合いしていいの?」
「いいんだよ、シルリネアだから」
メイランはそう言って笑い、床に寝転んで毛布をかぶった。
「おやすみ。また明日」
それきり、彼は眠ってしまった。シルリネアも仕方なく、寝台で横になる。
慣れ親しんだ懐かしい寝台は、すぐに眠気を運んでくれた。メイランにしてほしいことを考えながら、夢の中へ。
村でしばらく暮らして、安洛城にもう一度行って、それから——。




