第91話 そこにある
バチンと頭の中で強い破裂音がした。
シドゥは、思わず頭を押さえてうずくまる。
繋がりが途絶えた。ザフィルとの、いや、神の触媒との繋がりが。
ザフィルが心臓に蒔かれた種に気付き、自身で除去したのだろうか。
間もなく花を咲かせ、その芳しき虚無の香りで、神を寄せるはずだったのに。
あのカルブとかいう魔法生物に騙されたのだろうか。
いや、それはない。シドゥはすぐに否定した。
あの魔法生物は、ザフィルが死ぬと確信を持っていた。
では何が起きたのだろう。心当たりがあるのは——。
「ルザ……」
ザフィルの兄。弟と対を成し、完璧な円環を描くはずだった。壊れ、奪われた昼。
彼らはルハサーンでその円環を開かれ、崩れ去った。
それなのに。
奪い、壊された夜と、未だに対を成している。
まるで、そうあらねばならないと言わんばかりに。
神の触媒との繋がりは、遥か北で断たれた。
「北大陸か……」
遠い地だ。だが、アザルファ様の転移門がある。
北大陸にもひとつあったはずだ。
それを使えば、何が起きているのかわかるかもしれない。
******
シルリネアは服を脱ぎ、胸の傷の状態を確かめた。
皮膚を剥がされたような傷が、胸に何本も走っている。ザフィルの心臓を癒した反動だ。
傷は浅く、血も止まっている。よく見れば、半透明の膜のようなものが、傷口を覆って出血を食い止めていた。
魔法で作るかさぶたみたい。
膜に触れてみると、皮膚のような弾力があった。
これだけ大きな傷だと、体を動かすたびに痛みが走るはずなのに、まったく痛みを感じない。きっと、ザフィルが何かをしたのだろう。
体についた血を拭い、服を着替えた。砂漠地帯で着ていた服だ。薄手でやや肌寒いが、これしかないので仕方がない。
「お待たせ」
シルリネアが声をかけると、メイランとザフィルが振り返った。
「体は平気?」
メイランが不安げに声をかけてくる。シルリネアは微笑んだ。
「傷はザフィルが塞いでくれてるから、大丈夫そう。痛みも全然ないんだけど……ザフィルあなた、何かした?」
「胸のあたりの痛覚を止めているだけ。10日ぐらいかけて、徐々に戻るようにしてある。その頃には、傷も癒えているだろうから」
ザフィルはシルリネアと視線を合わせ、ゆるく首を傾げた。
「不都合があるなら、直すけど」
シルリネアは苦笑した。彼なりの配慮や優しさのようなものを感じる。
「最善のことをしてくれてると思う。ありがとう」
ふたりのやり取りを見て、メイランが笑う。
「すっかりお前ら戦友なんだな」
心外すぎる評価に、シルリネアは嘆息した。メイランに文句を言おうとした時、ザフィルと目が合う。
メイランの視界には入らない角度で、ザフィルはメイランを示しながら口を開いた。
「口は災いの元」
シルリネアは思わず笑ってしまった。
「どうした?」
メイランが驚いてシルリネアを見る。シルリネアは大きく首を横に振った。ザフィルは視線を外し、素知らぬ顔をしている。
「なんでもない。そろそろ聖域を閉じるけど、いい? 長居しすぎるのもあまり良くないから」
神の領域に近い場所に、人が長く居るものではない。
人は人のあるべきところに、戻るべきだ。
******
シルリネアが聖域を閉じた。
景色が元に戻った。滝が消え失せ、薄荷色の湖が姿を現す。
ふわりと土と草の香りがした。聖域にはなかったものだ。
慣れ親しんだ懐かしい香りを、シルリネアは胸いっぱいに吸い込んだ。
私の家は、残っているのだろうか。ふとそんなことを考える。
村の外れ、森のほとり。ひとりで住んでいた、小さな家。
シルリネアは無意識に、足を進めていた。自分の家のある方向へ。
メイランとザフィルは、何も言わずシルリネアの後を追って歩く。彼女がどこに向かっているのか、ふたりともわかっていた。
「で、残ってんの?」
シルリネアに聞こえないぐらいの声量で、メイランが隣のザフィルに問いかける。
「わからない。どこにあるのかも、知らない」
ザフィルは小さく肩をすくめ、メイランが苦笑した。
「だろうと思った」
あの日、ザフィルは虚無の魔法で村を消し去った。
人はシルリネア以外すべて消したが、建物には関心を払っていない。
だから、残っている可能性はある。
シルリネアの足が止まった。
目の前に、小さな家がある。
丸太組みの壁、芝屋根と小さな煙突、小さな窓——。
肩が小刻みに震える。大粒の涙がとめどなくあふれてくる。
荷物を投げ捨て、家に走り寄った。
建て付けの悪い扉を、慣れた手つきで開ける。
陽光が、小さな家の内部を照らした。
あの時のままだ。
家の中央にある炉は、いつでも火をつけられるように準備されている。
机には、加工途中の薬草が置かれていた。石臼と小刀、木鉢、蜜蝋が、いつもの場所に揃っている。端には美しい白樺材の茶箱。
シルリネアは知っている。茶箱の中には、木彫りの茶碗が2客あり、茶壺と蜂蜜壺が入っている。お茶菓子として、木の実とコケモモのジャムも入れたはずだ。
あの日は、バーバ・ロゥに薬草のことを聞いてから、一緒にお茶を楽しむつもりだった。
小さな窓を開け放つ。
木製で、ひどく重苦しい、だけど懐かしい窓。
窓辺には裁縫道具と羊皮紙とペン。ここでよく、繕いものや書きものをしていた。
見上げれば、梁と垂木には、ところ狭しと薬草が干されている。どこに何を干したのか、シルリネアはまだ覚えている。目を閉じていても、目的のものを掴む自信がある。
寝台も薬草棚も、食料棚も衣類入れも、何もかも、あの日、あの時のまま——。
「これがシルリネアの家?」
シルリネアが投げ捨てた荷物と一緒に、メイランが入口から中を覗き込んだ。
メイランの声で、シルリネアが振り返った。涙でぐしゃぐしゃの顔が、メイランの瞳に飛び込んでくる。彼は優しく微笑んだ。
「入っていい?」
シルリネアは、何度も何度も頷く。泣きながら、笑いながら。
「いらっしゃい。どうぞ、入って」
メイランが敷居をまたいだ途端、シルリネアは彼に抱きついた。温かい胸の中で何度か深呼吸をして、メイランを見上げる。薄暗い家の中、光り輝くような笑顔で。
「ここが私の家。小さいけど、でも……」
「いい家だ」
メイランが笑いかける。シルリネアも笑った。
「ありがとう。大好きな家なの、本当に、大好きで、色々なことが、あって……」
炉に火を入れよう。
水をくんでお湯を沸かして、お茶を入れよう。お茶菓子も出そう。
保存食も残っていたはずだ。何か作って、食べよう。
机の薬草を片付けて、あの日できなかったことを、しよう。
******
ザフィルは外に残っていた。
シルリネアの家に入る資格はないだろうし、そうでなくとも——。
「転移門……」
アザルファの転移門が動いた。北大陸の転移門に、何者かがやってきた。
あの転移門の存在を知る者が、ザフィルにとって都合の良い者であるはずがない。
おそらくメイランとシルリネアにとっても。
今までは、転移門にさしたる関心を払っていなかった。だが今は……。
掌握下に置いていたアザルファの転移門を、すべて破壊した。
誰が来たのか調べる必要がある。
ザフィルは小鳥の魔法生物をもう1羽作り出し、北大陸の転移門付近に置いた。
ひとりの男の姿が、そこにはあった。




