第87話 背中合わせ
ザフィルの体は、以前よりもずっと傷が減っていた。
良かった。シルリネアは胸をなでおろす。
誰であろうと、傷だらけの人を視るのはつらい。
前回は、とにかく首の出血を止める必要があった。首の出血を止めても、見渡す限り傷だらけで、とにかく見つけた順にすべて癒した。
その時に比べれば、だいぶマシだ。改めて体を視る。
手の状態が酷い。癒しきれていなかった。
きっと、ザフィルに途中で切断されたからだ。シルリネアはもう一度、ザフィルの手を癒す。
正しい形を伝え、導く。ザフィルの手は頑固だったが、それでも元の形に戻りはじめた。
手の記憶が流れてくる。
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幼いザフィルは手を砕かれ、激痛に泣き叫んだ。
穏やかな声でうるさいと言われ、指を折られる。
その傷みで叫ぶと、またうるさいと言われた。穏やかに、次の指が折られる。
繰り返し、繰り返し。
ザフィルは叫ばなくなった。歯を食いしばり、耐える。
壮絶な時間の後、魔族——アザルファは優雅に立ち去った。
片手がまったく動かなくなったザフィルを残して。
彼は必死に考える。
どうしよう。明日この手が元通りになっていないと、また醜いと言われてしまう。
また壊されてしまう。
残された片手に、魔力を集める。
集まった魔力を、動かない手に移す。
魔力を使って、歪んだ手を整えてみた。残った手を参考に、見様見真似で。
骨を動かしすぎたのか、皮膚が内側から破れた。慌てて魔力をあてがってみると、出血が止まった。
これだ。
ザフィルは閃く。
これで手が直せる。きっと、全身も。
何とか手を直しきり、出血を止め、アザや腫れも消し去った。少なくとも、表面上は。
これで大丈夫。初めての作業に疲れきったザフィルは、豪奢なベッドに倒れ込んだ。
広いだけの、空虚な空間に。
「……ルザ」
もういない人、きっと自分が殺してしまった人の名前を呼ぶ。
夢の中なら会えるだろうか。
温かい、あの人に。
「にぃ、ちゃん……」
いつしか彼は、泣いていた。
目を閉じた直後、部屋の扉が開いた。
ザフィルは恐怖で目を見開き、跳ね起きる。部屋の入口には、アザルファが立っていた。
「悪い子だ、ザフィル」
穏やかに、アザルファが言う。
「眠る前に、やることがあったろう? おいで、もう忘れないように教えてあげよう」
残った手も、壊された。
繰り返される。
何度も、何度も。
何年も、何年も。
様々な口実で、ザフィルの手は壊された。
その度に、手を直す。治すのではなく「直す」。
ザフィルは手を使わなくなり、傷みを感じなくなり、感情はすり減り消えていった。
食事に不自由はしていなかったのに、体は痩せたまま。成長さえ奪われていく。
淡い胡桃色だった髪は月白色になり、銅色の瞳は褪紅色に変わった。
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ザフィルの手の記憶を、シルリネアは抱きしめた。
起きてしまったことを、戻すことはできない。
彼が村を滅ぼしたことは、今でも許せない。
それでも。
同情すべきところには、同情する。
癒すべきものは癒す。
それが、私の矜持だ。
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手の記憶をなだめ、次に向かう。
固く守られた胸の違和感。前回はそれだけしかわからなかった。
まずは、この守りを抜けないと。
守りの手前で、ゆらゆらと不気味に踊るものがいる。シルリネアは、それに手を触れた。
途端に、それは霧散した。
よかった。シルリネアは安堵のため息をもらす。ザフィルが胸の違和感に気付けなかったのは、こいつが原因だ。気を逸らし、惑わせ、あらぬ方向に導く。まるで砂漠の蜃気楼だ。
霧散したものを踏み越え、卵のような形をした、守りの前に立つ。
手を触れた。
硬い。
とにかく強固に。それだけを考えて作られている。
壊せるだろうか。
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シルリネアの癒しの魔法の動きを、ザフィルは追う。
最初に彼女は、手を癒した。温かくて気持ちがいい。同時に、手に関する記憶が引き出されていく。
だが不思議と、嫌悪感はなかった。記憶ごと包まれる感覚が、快適とさえ感じる。
シルリネアが引き出した記憶を、ザフィルも辿った。忘れて久しい感覚が、そこにある。
兄を慕って泣くだなんて。
今はもう理解できない。
シルリネアが手から離れ、胸に向かう。その後をザフィルは追う。
シルリネアは、あの隠蔽魔法をどうするのだろう。彼女の魔法の流れを観察していると——。
隠蔽魔法らしき何かが、いともたやすく霧散した。
何が起きた?
すぐに解析しきれない。この記憶を魔力に焼き付け、保管することにした。
後で時間をかけて理解するために。
隠蔽魔法が消え去ると、卵殻のようなものがあった。
これが触媒を守っているものだ。強固なようだが、壊すだけならたやすい。
そう考えて見守っていたが、シルリネアは破壊する気配を見せない。
なるほど。
ザフィルは理解した。
シルリネアの魔法は、破壊ができない。
ひどく滑稽だ。あの高度な隠蔽魔法を簡単に消せるのに、ただ硬いだけの守りを壊せない。
「どいて」
シルリネアに——彼女の意識の乗った魔法に、声をかける。
「破壊は僕の領分だ」
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シルリネアは急に声をかけられ、驚いて振り返った。
ザフィルがいた。
どうやって……。
考えかけて、シルリネアは自嘲した。癒しの魔法を追うことなど、彼にとっては簡単なことなのだろう。
ザフィルは、卵のような守りの魔法に手を伸ばした。少し骨ばっていて、細く繊細そうな指が見える。
あれだけ頑なに手を使わなかったのに。少し驚く。
彼の手が触れた瞬間、卵は砂像のように崩れて消えた。
「……ね?」
無造作に破壊を終えたザフィルは、シルリネアを見つめてから、ゆらりと煙のように消えた。
破壊のためだけに、あの姿で現れたのだろうか。
律儀で、魔法に関しては傲慢で、納得すれば素直で、少し調子はずれで——。
「ザフィルらしい」
シルリネアはクスリと微笑んだ。
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守りの魔法が消えた先には、心臓があった。
触媒は、心臓とほぼ一体化している。
きっと時間をかけて侵食し、育ち、同化したのだろう。
心臓の様子を詳しく視る。
触媒が張り付き、心臓に根を張っている。剥がせば心臓が壊れる。
なんて残酷なんだろう。
ひとつひとつ丁寧に剥がせば、あるいは……。
いや、だめだ。剥がすよりも穏やかな方法でないと、心臓が傷ついてしまう。
触媒を指で辿ると、魔力の流れを感じた。流れを追ってみる。
これは…………。
「シルリネア」
ザフィルの声が聞こえた。
「一旦戻すよ」
その言葉と同時に、シルリネアの魔法がぶつりと切断された。
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「おかえり」
シルリネアは、メイランの腕の中で目を覚ました。
「……ただいま」
気恥ずかしさはあったが、嬉しさがそれを上回る。シルリネアはくすぐったい気持ちで微笑んだ。
メイランが優しく抱きしめてくれる。気持ちよくて、幸せだった。
幸せの余韻に浸りながら、起きたことを思い出す。
そうか。ザフィルが突然魔法を切断したから。私はその衝撃で気を失ったんだ。
「たいした時間は経っていない」
少し遠くから、ザフィルの声が聞こえた。
「もう少し休むといい。君の魔法は、酷く疲れるようだから」
「どうして切断したの」
シルリネアが問いかける。
「あれを壊す方法を思いついた」
淡々としたザフィルの言葉に、シルリネアは驚いて目を見開いた。
「まず、僕が君の止血不能の呪いを消す。その次に、僕があれを壊す。心臓も一緒に壊れるから、シルリネアが僕の心臓を癒す」
シルリネアの全身に、ぞくりと悪寒が走った。荒業すぎる。
だが、ザフィルはあくまでも冷静で、いつもの調子を崩さない。
「癒すのが嫌なら、僕が死ぬだけだから。シルリネアは損しないよ。どう」
ザフィルが小首を傾げる。
首の太い血管……一度は自ら切断した部位が、露出した。




