第86話 古き神の聖域
森の奥にある湖で、シルリネアは立ち止まった。
「ここが聖域?」
シルリネアのやや後方を追っていたメイランが、尋ねる。ザフィルの小鳥は、程よい梢に止まった。
薄荷色の湖だ。メイランは真っ先にそう思った。シルリネアの瞳の色と同じだ。木漏れ日は黄金色、シルリネアの髪の色。
「そう。ここが、聖域」
シルリネアが穏やかに微笑んだ。
「ここで私が同調すれば、聖域が開く。だから、他の人には見つけられない」
「シルリネアだけが開けんの?」
メイランの問いかけに、シルリネアは寂しく笑った。
「他にもいたけど……もういないから」
あの日、村と一緒にいなくなってしまった。
「本当はね、何人かで一緒に開くものなの。でも私ひとりしかいないから……ちょっと大変だと思うけど」
嫌な予感がする。メイランは不安になって尋ねた。
「それ、怪我とかは……」
血が出たら死ぬ。ザフィルに言われたことが頭をかすめる。
「大丈夫、疲れるだけ。休めば戻る」
シルリネアが微笑んだ。
「ザフィルが来たら、始めるから」
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ザフィルは歩きながら、考えていた。
シルリネアの呪いのこと、そして、自身の胸の内にある触媒のこと。
触媒に餌を与えない方法は、ないだろうか。
触媒の周辺、探査できなくなるあたりに、魔力を阻む壁を立ててみると、魔力の流れが変わった。ほんのわずかだが、触媒に流れ込む魔力が減った気がする。
壁を広げると、その分だけ魔力の流量が減った。さらに壁を広げる。このまますべて遮断できれば——。
「……っ!」
強烈な痛みを感じ、ザフィルは胸を押さえてしゃがみこんだ。痛覚を遮断する暇さえない。
油断していた。備えておくべきだったのに。
「そういう、こと……!」
魔力を阻む壁を少し減らした。減らした分だけ、傷みがひいていく。
心臓だ。
触媒は心臓に取り付いている。あるいは絡まっている。
触媒に十分な魔力が流れなくなると、心臓に傷みを与える。それでも魔力を遮断し続ければ、ザフィルの体が彼自身の意思を離れて、勝手に魔力を流すようになるだろう。生命維持が優先される。
——あなただけで何かしようとすると、失敗する。
シルリネアがあの洞穴で言った言葉が、脳裏に響いた。
ザフィルは呼吸を整えながら、傷みを感じない程度に調整した。
魔力の流量は、半分も減らせなかった。
「アザルファ……! お前の、望みなど、叶えて、やるものか……!」
ザフィルは怨嗟の限りをこめて呟き、傲然と立ち上がった。
******
シルリネアとメイランがしばらく休んでいると、ザフィルがやってきた。
「ずいぶん遅かったのね」
シルリネアが呆れ声で言った。
「考え事を少しね」
ザフィルが淡々と答える。その口調は普段と変わらないが……。
「お前、顔色悪くねぇか」
メイランが心配そうな様子で、ザフィルに寄ってきた。
察しがいい。ザフィルは嘆息する。
この鋭さは兄の素晴らしい長所だが、今はあまり発揮してほしくない。
「光の加減でしょ」
ザフィルはそう言って、顔に触れようとしてくるメイランをあしらった。メイランだけに見えるよう、小さく首を横に振ると、メイランもこっそり頷いた。
「そうかなぁ」
メイランはそう言って、ザフィルの頭をぐしゃっとかき回してから、彼の前に立つ。シルリネアに、ザフィルの顔色を察せられないように。
シルリネアは、ふたりのじゃれ合いを呆然と見守っていたが、徐々に優しい微笑みに変わる。
「もう少し湖の近くに寄って。聖域を開くから」
メイランとザフィルは、素直に湖のごく近くまで足を進めた。
「ナスラル……」
ザフィルが呟くと、シルリネアは苦笑した。
「やっぱりわかるのね。そう、ここはナスラルの聖域」
「ナスラルって?」
メイランの問いかけに、ザフィルが答えた。
「古い神。光の神なんかよりも、ずっとね。創生の神だけど、古すぎて、もう信者も神殿もないとされてきた」
ザフィルがシルリネアを見る。
「君は、ナスラルに捧げられた娘だ。生命の源とあわせて、聖域を構成する存在。……違う?」
シルリネアが微笑んだ。
「あたり。この湖を、私がヴェルス・ゲルにする。それで、聖域が開く……」
シルリネアは意識を集中して、湖に足を踏み入れた。
湖面が淡く発光した。湖に虹がかかる。何かが始まるときの期待感が自然と湧いてきて、胸が踊る。
メイランは、シルリネアを取り巻くあらゆるものの美しさに、息を呑んだ。
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ザフィルは勝手に湧き上がってくる高揚感を、唾棄する思いで脇に押しやった。神はいつでも、何かを強制してくる。
シルリネアもそうだろう。彼女は受け入れているが、自ら望んで神に捧げられたのではあるまい。
いつの間にか、あるいは仕方なく、そうなったのだろう。
——ああ、本当に腹が立つ。
どいつもこいつも、僕たちに押し付けてくる。
もう、いい加減にしてほしい。
******
シルリネアは、湖の中央まで進んだ。
足首のあたりまで水に浸かっているが、それ以上の深さには落ち込まない。このあたりの水深は、ずっと深いはずなのに。
湖に支えられている。受け入れてもらえている。
これなら、聖域を開ける。
「ナスラル……あなたの娘が参りました。どうか聖域を開けてください。私には、あなたの力が必要です……」
天に向かって希うと、湖が変容した。
湖面がすべて地面になった。湖だった大地の奥には崖が立ち現れ、細い瀑布が幾条も流れている。
風は静まり返り、滝の音ばかりが耳を打つ。
穏やかに振り返った。
「これが……この森全体が、聖域。あの滝がヴェルス・ゲル。生命の源」
微笑む。
「ここなら安全だから。ザフィル、あなたの体を『視せて』」
ザフィルはかすかな嫌悪感で硬直したが、すぐに諦めた。
確かに安全だ。ここなら魔族さえ、気付くことはない。神の力を借りるのは業腹だが……仕方がない。
シルリネアの近くに行き、ザフィルは地面を示す。
「横になればいい?」
シルリネアは微笑んだ。
「横じゃなくてもいいけど……あまり動かないようにしてくれれば」
「わかった」
ザフィルは地面に座ることにした。
「メイラン」
メイランを呼ぶ。
「僕が痛そうだったり苦しそうだったりしたら……僕に触って。そうすれば、魔法が途切れて戻ってこられるから」
アザルファの冷たい手を、振り払ってくれた時のように。
ザフィルはシルリネアの魔法の動きを、自分の魔力で追うつもりだった。痛覚は事前に遮断する。
万一の時は、メイランに守ってもらおう。痛覚の遮断を解除すれば、表情に出るはずだ。先刻のように。
「わかった」
メイランが頷く。ザフィルはメイランを手で引き寄せ、さらに耳打ちした。
「シルリネアが出血したら、その時も止めて。対処する」
おそらくシルリネアは、自覚できないだろう。だから、こちらで何とかする。
何ができるかは、蓋が開かないとわからない。
メイランがかすかに震えた。だがすぐに、視線で了承の意を示す。
彼はザフィルの肩を軽く叩き、シルリネアの近くに寄った。
「シルリネア。俺は、お前にも無理してほしくないから……程々に……って言うのも、おかしな話だけど」
言葉にならない。その代わりにメイランは、シルリネアを抱きしめた。
シルリネアも嬉しそうに、メイランの背に手を回す。
名残惜しげにシルリネアを手放して、メイランは笑った。
「弟を、よろしく」
「任せて」
シルリネアが微笑んだ。薄荷色の瞳が輝き、黄金色の髪が揺れる。
「じゃあ、始めるわね」
シルリネアの手が、ザフィルの体に触れた。




