第80話 未来に希望を
シルリネアをヴェンツェルのもとへ送り出し、彼女を待つ間。
「シルリネアの帰りはどうすんの?」
メイランはごく単純な疑問を、ザフィルにぶつけていた。
「合図を待つ。彼女の位置はずっと追ってるから、動きがあればわかる」
「どういう合図?」
「かかとで床を2回打つ」
メイランは驚く。そこまで大きな動作ではないのに。
「そんなんでわかるのか」
「もし危険なことが起きても、それぐらいならできそうだから」
「すげぇなあ」
メイランの褐色の瞳が輝くのを見て、ザフィルは先回りすることにした。
「メイランにはできないよ。魔法が効かないから転移できないし、位置を細かく見ることもできない」
「残念」
メイランは苦笑した。その直後に気付く。
「あれ、じゃあ『細かく』なければ見られる?」
ザフィルが頷く。
「魔法がまったく効かないあたりに、メイランはいる」
「なるほど」
メイランは、納得するしかなかった。
「そういえばさ」
しばらく沈黙した後、メイランがふたたび口を開いた。ザフィルは兄の話を促すように、じっと彼を見る。
「お前、俺の元の名前、覚えてんの?」
「……覚えてる」
「自分の名前は?」
「忘れた」
メイランが声をあげて笑った。いかにも楽しそうに。
「一緒だ」
自分の名前は忘れたが、弟の名前は忘れられなかった。
メイランは弟と離れて以来、その名前を言ったことはない。生きているとあまり信じていなかったし、生きていたとしても、自分と同じように別の名前になっていると思っていたから。
ザフィルが首を傾げる。
「呼んでほしい?」
メイランは首を横に振った。
「いや。お前は?」
「どっちでもいい」
淡々とした答えに、メイランが苦笑した。
「じゃあさ、一回だけ呼ばせて。……ナザ、おいで」
呼ばれた途端、ザフィルは操られるかのように、ふらりとメイランに寄っていく。
抗いがたい力だった。意味も理由もなく、ただ、行かねばならないと感じる。
メイランは微笑み、ザフィルを抱きとめた。
「やっと、取り戻せた」
あの日、奪われたものが戻ってきた。
小さな宝物、夜を照らす灯火——。
「…………ルザ…………」
ザフィルの呟いた小さな2音は、メイランまで届かず消えた。
だがそれでいい。メイランは、過去の名前を呼ばれたくなかったのだから。昼は何にも縛られず、自由に世界を照らすべきだ。
******
シルリネアから帰還の合図があった。
ザフィルがシルリネアを戻す直前に、メイランが尋ねる。
「転移って、どんな感じでやんの?」
ザフィルは少し考えた。どう表現すれば、メイランに伝わるだろう。
「今回は、シルリネアを追うために魔力の糸をつけてある。それを引っ張る感じ」
考えた末に、そう答えた。すると。
「釣りかよ」
メイランが笑った。すれ違いを起こさずに、会話ができた。笑ってもらえた。
ザフィルは、少し心が温かくなった気がした。
それは、久しく感じていなかった感覚だった。
******
シルリネアは戻ってすぐに、ヴェンツェルと話した内容を伝えた。
「ということだから。まずは、髪の毛をヴェンツェルさんに送って」
「目玉がいらないなら、髪を皮ごと渡そうか」
ザフィルは、ゾッとすることを平然と言う。ぞわぞわ粟立つ自分の腕をさすりながら、シルリネアは顔をしかめた。
「やめて」
「僕を死んだことにするなら、剥いだように見えた方が良さそうだけど」
ザフィルの言っていることはわかる。だが、そんな話を平然としないでほしい。
シルリネアは悲鳴をあげたい気持ちで、ザフィルに訴えた。
「お願いだから、ヴェンツェルさんの気遣いを無駄にしないでくれる?」
「……そう」
ふたりのやり取りをメイランは楽しそうに見ていたが、おもむろにザフィルに近寄る。
「俺が切ってやるよ。文句の出ねぇ長さと量をさ」
メイランは短剣を取り出して、ザフィルの髪の内側、目立たない部分を切り落とした。
******
ヴェンツェルは、時間をおかずに送られてきた月白色の髪の束を、苦笑しながら眺めていた。
予想以上の長さと量だ。ヴェンツェルの想像した一房の数倍はある。
彼の髪は、肩を少し越えたぐらいの長さだったと思う。送られてきた髪は、根本からざっくりと切ったものだろう。
「仕方ない、動くか」
外出用の上衣に袖を通した。
この髪を手土産に、ザフィルは死んだと言わねばならない。その時には、ザフィル襲来時の生き残りであるルイス騎士団長も、検分役として必要だ。
シルリネアを追いかけ、メイランに撃退されてしまった討伐隊の面々も、同席してもらった方が良いだろう。
その上で、ザフィルの死を公に認定させるには、会議体の招集を要求する必要もある。
ゲルハルトは武人たちと友誼を結んでいるので、そちらからも手を回してもらおう。
早ければ早いほど、いいはずだ。
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北へと進む旅路が、どんどん消費されていく。
空を飛ぶという速さを、シルリネアとメイランは体験として理解した。
数か月はかかるはずだった道のりが、ほんの数日だ。
それでもだいぶ速度を控えているのだと、ザフィルは言う。
「これ以上速度を出すと、舟が壊れる」
速度を控える理由を聞かれて、彼はそう答えた。
「お、ヴァルグリムだ」
遠方に姿を現した港町を見て、メイランが懐かしそうに笑う。
彼はすっかり空の旅に慣れ、舟の上を自由に歩き回れるようになっていた。
シルリネアは、ようやく這って動けるようになったばかりだというのに。
「あの辺に倒れてたんだよ、シルリネアはさ」
海沿いに伸びる街道を示して、メイランは微笑む。シルリネアもメイランの横まで這ってきて、一緒に下を眺めた。
メイランの示すあたりを見てみたが、まったく見覚えがない。苦笑する。
「残念だけど、覚えてなくて。故郷で意識を失って、起きたらメイランがいて、ヴァルグリムの宿だったから。その先は、よく覚えてるんだけど」
メイランが笑った。世間知らずで向こう見ずで、しかも所持金を一切持たなかったシルリネアを、思い出して。
倒れていた彼女の服装も、質素な村娘そのものだった。ふと思いつき、ザフィルに目を向ける。
「ザフィルお前さ、俺がシルリネアを見つけるように仕組んでたりした?」
メイランの問いかけに、ザフィルは首を横に振る。
「あれはカルブがやった」
「へぇ」
メイランは何か考え事をするように黙り込み。ややあって口を開く。
「前から聞きたかったんだけど。お前がヴェンツェルとかシルリネアとか、数人生き残りを出してたのは、どうしてなんだ? ヴェンツェルは、強い意思を見せた人間を残してるんじゃないかって、言ってたけど」
わざと軽い調子で聞いた。いくらでも重くできる話題だが、あえて重くする必要はない。
ザフィルは少しの間、考えを巡らせ。
「意思がどうこうは、考えたこともなかったけど——。ヴェンツェルは、優秀だからかな。シルリネアは、僕を殺すって言ったから、カルブが反応した。誰かに僕を殺してほしかったから、カルブにも探させてはいた」
メイランは優しく苦笑して、さらに問う。
「今は?」
「そこまで死にたいとは思わない。でも……」
ザフィルがシルリネアを見た。
「シルリネアやヴェンツェルが死ねというなら、いつでも死ぬ。死に方は、もうわかったから」
シルリネアが大きなため息をついた。
「正直なところ、あなたが生きているのは、すごく悔しい。でも、死にたがりを殺しても意味ないし、ヴェンツェルさんもあなたを殺さないって言った。だから保留する。殺したら、メイランも泣いちゃいそうだしね」
シルリネアは寂しく微笑んだ。メイランはシルリネアを抱き寄せ、ため息をつく。
「どうやったら埋め合わせできるんだろうなぁ」
「埋め合わせなんてできない。だから……未来を作って。ザフィル、あなたも」
過去への復讐は、きっともう果たせないから。




