第78話 海の渡り方
シルリネアが微笑む。新緑の森を渡る風のように。
その美しさに、メイランは思わず惹き寄せられてしまった。目が離せない。
外見も綺麗だと思う。だが、それだけではない。「あるべき姿として在る」という美しさだ。
シルリネアは、彼の心を置き去りにして言葉を続ける。
「私の故郷に行ってみない?」
ザフィルに滅ぼされた村。彼女の大切な思い出が眠る土地。
シルリネアは穏やかに微笑んでいる。だがその心の内は、まったく穏やかではなかった。
平静を取り繕っているが、果たして上手くいっているだろうか。実のところ、シルリネアには自信がない。
なくなった村とそこにいた人々への思いを、彼女はまだ鮮明に覚えている。その仇を招待することを、正しいことだと言いきれない自分がいる。
もっとも安全で確実なのは疑いようもないが、シルリネアの重くて暗い感情の部分が、まだザフィルを拒否している。
だからこそ、シルリネアは自信たっぷりに振る舞うことにした。
そうすれば、自分も騙せそうな気がして。
「あそこには何もない」
ザフィルが言う。
「万象の背骨には、なにもなかった。円環の内側にも」
「アルダルって……円環……ああ、村を囲んでる山のこと?」
シルリネアの問いに、ザフィルは頷いた。
「魔族の古語で、あの山脈のこと。アザルファの書庫で読んだ」
「そう。魔族にまで知られてるなんて、光栄ね」
シルリネアは自慢げに笑い、何ということもない様子を装う。しかし、怒りが今にも外に出てしまいそうだ。
この男はやはり、聖域を探しに来ていたのだ。
「わざわざ探しに来ても、見つからないに決まってる」
「なぜ」
「そういうことになってるから」
今はまだ、理由を教えてやるつもりはない。実際にその場に立てば、ザフィルなら、説明しなくても理解してしまうだろう。
だから、この程度の意地悪は許されるべきだ。
自信満々に見えるシルリネアと、納得できなさそうなザフィル。
メイランは完全に置いてきぼりだった。
「なんの話をしてるんだ?」
怪訝そうな表情のメイランを見て、シルリネアは微笑んだ。彼であれば、装う必要もなく笑顔になれる。
「私の故郷の話。私にしか開けない聖域に招待してあげる」
メイランを招待したいと思えたことに、シルリネアの心がふわりと軽くなった。
ああ私は、まだ人間でいられている。憎しみだけに囚われた存在ではない……。
******
「……つっても、北大陸にどうやって渡ればいいんだ?」
さっぱり理解できない表情で、メイランは目の前の薮を大雑把に切り開きつつぼやいた。
シルリネアの故郷は北大陸で、今いる場所は中央大陸のさらに中央付近。
北大陸と往来できる可能性があるのは、大陸北端であるヴァルグリムのみ。
どう少なく見積もっても、移動だけで数か月はかかる。
さらにその先、北大陸に行くのなら、年単位を要するだろう。
とはいえ、行くしかないのだが……。
石哭谷の洞穴を出て数日。3人は街道を外れ、道なき道を進んでいる。
ザフィルの月白色の髪は、どうしても目立ってしまう。シルリネアの黄金色の髪と組み合わせれば、なおさらだ。
髪を隠しても、褪紅色の瞳と薄荷色の瞳が人目に立つ。
だから、できるだけ人里に寄らないことにした。ザフィルのことを考えると、厄介事は避けたい。
街道を外れているのに迷わないで済んでいるのは、ザフィルの力だ。彼は無限と思えるほど広範囲の探査の魔法で、その場に行って見てきたかのように、周囲の状況を理解することができた。
ザフィルによると、この先の川に舟があり、彼はそれが欲しいのだという。
「川舟なぁ、別にいいけど」
メイランが呟く。金銭的には問題ないのだが、なぜザフィルが舟を欲しがるのか、よくわからなかった。ザフィルも多くを語らない。
それにしても……。
メイランは息を切らせながらついてくるふたりを見て、苦笑した。
シルリネアはまだ体調が戻りきっていない。だからあまり長距離を歩けないのは理解できる。
だが、ザフィルの体力が絶望的に低いのは予想外だった。今のシルリネアの方が、まだ体力がある。
いよいよ本格的に、この弟は魔法以外のことが何もできなさそうだ。あまりにも「生きる能力」に欠けすぎている。
とはいえ、長い目で見ればいずれ何とかなるだろう。メイランは、気楽に見守ることにしている。
「お前らまとめて、おぶってやろうか?」
からかうように、メイランが言う。
「いらない」
ムッとした顔で即座に拒否するシルリネア。その気の強さと頑固さが、愛らしくて好ましい。
一方のザフィルは、少し検討する様子を見せてから。
「遠慮する」
と静かに言った。実は甘えたいのに躊躇しているのかと思い、もう一度言ってみようかと思ったら。
「メイランの近くは魔力が遮断されるから」
と理由を足してきた。
ああそっちね、とメイランは苦笑した。
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しばらく歩いて、ようやく舟のあるところに辿り着いた。
ザフィルの言った通り、河岸には川舟が静かに係留されており、その近くに小屋がある。どうやら舟の主人の家のようだ。
「俺が交渉するから、お前らは休んでな」
メイランはふたりを残して、小屋の扉を叩いた。扉からは老人が現れ、メイランと一緒に小屋の中に消える。
シルリネアは木陰で水を飲みながら、ぐったりと座り込んでしまったザフィルを見た。
彼が足を使って、何日も歩くなんて。
好奇心で尋ねてみる。
「魔法使わないの?」
ザフィルはチラリとシルリネアを見てから、ふいと視線を逸らした。
「魔族が、いるから」
おそらく彼の視線の先に、魔族がいるのだろう。
魔法でものを見るのであれば、目を使う必要はない。なのに、遠くを見るような仕草をしている。
それは、欠けすぎている人間性のなかで、かろうじて残った部分なのかもしれないと、ふと思った。
いずれにせよ、彼なりに気を使い、尽くそうとしていることは理解できた。
「えっと、魔法を使うと魔族に探知されるかもしれないから、できるだけ使わない、ってことでいい?」
「そう」
「探査の魔法は大丈夫なの?」
「気付かれたことがない」
「魔族にも?」
「当然」
「わかった。ありがと」
ザフィルの言葉は足りないことが多くて、理解するのに苦労する。これでも、だいぶ会話が円滑になってきている。
今回、メイランの通訳なしで会話の往復が成立したのは、大きな進歩と言っていい。
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やがて、メイランが戻ってきた。満面の笑顔から察するに、どうやら交渉は成功したらしい。
「お疲れ様、メイラン」
シルリネアが出迎える。ザフィルもどうにか立ち上がった。
「売ってもらえた。で、この舟でどうすんの」
まさか川下りをしたいのではないだろうが、メイランには想像もつかなかった。
こんな小さな舟では海なんて渡れるはずもないし、そもそも海までたどり着けるのかさえ怪しい。
シルリネアも不思議そうな表情をしているが、彼女はどこか確信を持っているのか、メイランほど疑問視していないように見える。
シルリネアとザフィルは、いつの間にか少し距離を縮めた様子だ。メイランは嬉しく感じると同時に、心配でもあった。
特にシルリネアだ。過度な負担を強いていないだろうか。
彼女は、大切なことであればある程、口をつぐむ傾向がある。そうなると、どうなっても話してくれない。
日常の文句は、いくらでも言ってくれるのになぁ。
メイランは軽く嘆息し、彼女への目配りを増やすことに決めた。
ザフィルは舟をどう使うか、なぜ舟なのかという説明の方法と順番を、いくつか考えてみた。しかしどうしても、メイランと話が合わなくなる未来しか見えない。だから、結論を先に話すことにした。
「メイランが、空を飛びたいみたいだったから」
そんなこと言ったかな、とメイランが首をひねる。
「もう一度、飛んでもらおうと思った」
言い終わるや否や、暴風が周囲を襲った。暴風はあたり一帯をひと撫でした後、ザフィルにまとわりつくように集まり、消えた。
「メイランを魔法で直接飛ばすことはできないから……。舟を風で空に飛ばして、北大陸まで行く。どう?」
ザフィルの足元で風が踊り、彼の体がふわりと浮いた。




