第75話 不快
「私のことは、アザルファと呼ぶように」
僕を拾った魔族は、冷たい笑顔でそう言った。
拾われてすぐに全身を洗われ、髪や爪を整えられ、立派な服を着せられ、見たこともない豪華な食事を与えられた。
どれもこれも、温度を感じないものばかりだった。
あの温かい人と食べた、汚らしい残飯の寄せ集めの方が、ずっと美味しかったと思う。どんなに豪華な食事よりも、あれが食べたかった。
「アザル、ファ……」
あの時の僕が、おずおずと口を開く。アザルファは顎を引くような仕草で優雅に頷き。
「よろしい。では君の名前はザフィルだ」
と言った。その瞬間、過去の僕はいなくなり、ザフィルだけが残った。
アザルファは、魔力の扱い方をそれは丁寧に教えてくれた。
優しく紳士的で、穏やかに、根気強く。
僕が何かを失敗すると、折檻された。
優しく紳士的かつ穏やかな声音で、執拗に。
特に手を酷く嬲られた。君の手は品がなくて不快だ。そう言いながら手を潰され、指を折られ、爪を剥がされた。
確かに僕の手はアザルファに比べると、骨っぽくて形が悪い。アザルファの手は、細くまっすぐで優美に動いた。僕の手を壊すときでさえ、その美しさは変わらなかった。
いつしか僕は、手を使わなくなっていた。
その頃から、痛みを意識から外すことができるようになった。痛みを感じても、どこか他人事にしか思えない。全身ボロ布のように穴があいたところで、直さないとまたアザルファに折檻されてしまうな、と考えるだけだった。
直す方法は勝手に考えた。魔力で体の穴を塞ぎ、外れたところを繋ぎ合わせれば、ひとまず動くことができると理解した。一時的であれば、魔力は血や肉、骨などの代用にすることもできる。思いついてしまえば、造作もないことだった。
その頃には心の痛みなど、とっくに忘れていた。
多分この時期に、何かをされたのだろう。
曖昧な痛覚、いつ終わるとも知れない折檻。その中に「何か」を紛れ込ませるのは、とても容易だったはずだ。
では僕は、何をされたのだろう。
胸に埋め込むものとは、何なのだろう。
あれだけ手を執拗に壊されたのは、何か意味があったのだろうか。
僕が手で何かを掴むことを、忌避したのか?
それとも、胸の異物に気付いたとしても、手で抉り出さないようにするためか?
…………わからない。
何も思いつかなくなって、顔をあげた。
メイランとシルリネアはまだ眠っている。いつの間にか弱くなっていた火を、もう一度強くした。火の粉が舞い上がり、緩い熱風が頬をかすめる。
——舞い上がる、上昇気流——。
ふと、僕が最初に魔力を手に入れた「あの日」のことを思い出した。
メイランは何と言っていた? 「暴風で空を飛んだ」…………。
破壊ではあるけれど、虚無に関係する力じゃない。今の僕が一番無意識に使うのは、虚無の力、存在を消去する魔法なのに。
もしこの虚無の力が生まれつきではなく、アザルファが仕込んだものだとしたら。
「神の触媒」
暗闇の恐怖と支配、この世界を無に帰し、新たな世界を作る神。
アザルファは、神を崇拝していたような気がする。他の魔族たちよりも、少しばかり熱心に。
見えてきた。
虚無の魔力は後天的なもので、アザルファが埋め込んだ触媒が原因だろう。
胸にわざわざ触媒を埋め込んだのは、僕に神を降ろすためか。
神を降ろした後は、この世界を魔族のものにしたかったのだろうか。
それとも、世界を神に捧げたかったのだろうか。
突如として、脳裏に声が響く。
「人は、卑俗で愚かだ」
アザルファが、僕の指を折る音。
「君はその愚かさにまみれないでおくれ、かわいいザフィル」
爪が剥がれて落ちた。
「手を使うなどという汚いことは、しなくていいんだよ……ほら、手伝ってあげる」
過去の僕は震えている。怖いのではなく、痛いのでもなく、表面だけを優雅に取り繕った、アザルファの底冷えのする姿のために。
記憶の蓋が唐突に閉じた。
ざわりと悪寒が走った。アザルファの冷たい手で撫でられたような感触。
気持ちが悪い。
警戒の網に、魔族の反応が複数あった。
奴らは人間よりも、はるかに魔法に長けている。果たして全員の意識を逸せるだろうか。
これだけの数がいると、誰かに気付かれてしまうかもしれない。
メイランとシルリネアが眠っている姿が目に入った。
暖かい焚き火の炎と、穏やかな睡眠がそこにある。
「俺、今、本当に幸せでさ」メイランの声が頭をかすめた。
「すごく気分が悪いの」シルリネアの声に、心から同意する。
パチ、と焚き火がはぜ、メイランが緩やかに寝返りをうった。
今だけは、見つかるわけにはいかない。




