第73話 温もりが世界を塗り替える
雨が穏やかに外の世界を濡らしている。
「あの時はさ」
メイランが焚き火に小枝を加えながら言う。シルリネアはまだ目を覚ましていない。
ザフィルにはひとまず湯を与えた。鍋に水を足して、もう一度温める。
「うん」
ザフィルがぽつりと応じた。
湯の入ったカップは優しい湯気がたちのぼり、じんわり温かくて快適だ。
手の内から温かさが失われるのが怖い気がして、飲むのが躊躇われる。
「お前の力で俺は怪我してねぇから。……それだけは、言っておきたくて」
どうやらメイランは、離れ離れになったあの日のことを言っているようだ。実際、ふたりの共通する話題なんて、それぐらいしかない。
「そう」
ザフィルはほっと一息ついた。カップを握りしめると、手に熱さが伝わってくる。
「傷つけていなくてよかった」
淡々とした声だった。感情は乗っていない。
だから、ザフィルなりの社交辞令かもしれない。
しかしメイランにはなんとなく、心からの声のように思えた。
長い間背負っていたふたりの重荷が、柔らかくほどけていく。
「あの時は俺、暴風に吹き飛ばされて空を飛んだんだ。高い塔よりも、ずっとずっと高かった」
楽しそうにメイランが笑った。当時はそれどころではなかったが、今になって思い出すと、少し愉快な気持ちになる。
「空から見たあそこは……すごく小さかったよ。俺たちには『世界』そのものだったのにな」
メイランは、懐かしさとつらさを混ぜ合わせた瞳で語る。ザフィルは彼をじっと見つめてから、小さく頷いた。
「その後、水場に落とされてさ。どうにか這い上がって、拾われて……。あれ、水場に落ちたやつ、お前がやったの?」
ザフィルはゆっくり首を横に振った。
「違う。それはメイランの運」
魔力の制御方法なぞ、一切知らなかった頃だ。そんなはずはない。
メイランは首を傾げ、頷いた。華嵐から受け取った麦袋の口を開ける。
「へぇ、そんなもんか。俺はさ、お前に少し感謝してんだよ。あのままだと、俺はきっと死んでたからさ。そこから離してくれたのは、感謝してる。ありがとう」
鍋に麦粒を流し入れながら笑うメイランの姿に、ザフィルは目を見開いた。
怒りや恨みをぶつけられることは、当然だ。そうなるように振る舞ってきた。
しかしまさか感謝されるとは……。一切考えになかった。
カップを持つ手が小刻みに震えている。なぜだろう、寒くも怖くもないのに。
ザフィルは不思議に思いながら、自分の震える指先に視線を移した。メイランはその様子に気付くことなく、言葉を続ける。
「あの後、俺は結構幸せだったんだ。お前が横にいてくれればもっと良かったけど、とにかく不幸じゃなかった」
穏やかなメイランの声に惹かれて顔をあげると、焚き火の炎に照らされてキラキラと輝くメイランの笑顔があった。
目を細める。
この人は、あまりにも眩しい。
「……メイラン」
ザフィルが遠慮がちに口を開いた。
「ん?」
「あのさ……僕はまた、メイランの近くにいてもいい?」
光り輝く人の横に立つのは、眩しすぎて気後れがする。でも彼になら、少し甘えても許されるかもしれない。
メイランが笑う。雨粒が、彼の背後で優しい音をたてた。
「もちろん。これからは、ずっと一緒がいい」
ザフィルがほっと小さな息を吐き出した。
「ありがとう」
カップの湯を、一口だけ飲んだ。熱い塊が喉に落ちていく感触は、慣れないけれど悪くなかった。
******
「なぁ」
麦粥が煮えるのを待ちながら、メイランがザフィルに語りかける。
ザフィルはうつむきがちな顔をあげ、メイランを見つめた。
「シルリネア、いつ頃目を覚ますんだろうな?」
不安そうな声だ。平静を保てていない。
「診てみる」
ザフィルはシルリネアを見つめた。魔力の手を伸ばして、シルリネアの体に滑り込ませる。糸状の魔力を無数に枝分かれさせて、くまなく全身に伸ばす。
至るところで傷にぶつかった——ボロボロだ。外傷は適切な手当がされ、血も完全に止まっているが、臓器に多くの綻びが見える。
体内深くを巡る血管に傷が見えないのは、ほとんど奇跡のようだ。
いずれにせよ、この状態では絶え間ない痛みに晒されているだろう。
ザフィルは、もっとも痛みを感じていそうな場所の痛覚をいくつか遮断し、破れている箇所を繋ぎ合わせた。
慣れた処置だ。
「痛みの強そうなところの感覚を鈍らせたから、多少楽になったと思う。全身傷だらけだ、内臓まで含めて」
ザフィルの言葉を聞いてメイランは絶句し、沈痛な表情になった。無理をさせすぎたという後悔の念が、全身を駆け巡る。
「そんなにか……」
「だから、魔法を使わせない方がいいと言った」
ザフィルは小さく息をついてから、うつむくメイランの顔を覗き込んだ。
「彼女の治癒が必要なら、僕がやる。その辺にいる、くだらない神の使徒ぐらいのことはできる」
「できるのか?」
メイランが驚いて顔をあげた。ザフィルはやや不快そうに鼻を鳴らす。
その様子は、自分を責めているようでもあり、ほんの少し悔しがっているようにも見える。
「苦手。彼女ほどの力は期待しないで。死にかけの重症者は助けられないし……メイランには効かないはず」
メイランは嬉しそうに、ザフィルの肩を抱き寄せた。彼の髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜる。
「よし、じゃあ怪我をしたら、まずお前に頼ってみるよ」
「なんで?」
理解できないと言いたげに、ザフィルの眉がわずかにひそめられる。
「お前にやってもらいたいから」
「効かなくても?」
「んなの今更だ、俺は元々効かないんだから。この場合、それでも効かせてくるシルリネアがとんでもねぇんだろ」
「……認める」
「よし」
メイランが自慢げに笑った。どうやら、シルリネアを認めさせたかったようだ。
もうとっくに、彼女のことは認めているんだけど。
あの村で、彼女を見た瞬間から。
鮮烈な瞳と、決意に満ちて伸ばされた手が、兄によく似ていたから。
ザフィルは心の中でそう呟いた。
******
麦粥ができあがる頃、シルリネアは目を覚ました。
ぼんやりと周囲を見渡す彼女は、まだだいぶ気怠そうだ。体をぎこちなく動かして起き上がろうとするシルリネアを、メイランが制止した。
「まだ寝てろよ。これ以上無理しないでくれ」
少し躊躇したものの、結局起きるのを諦めて横になろうとするシルリネアの目が、ザフィルを捉える。
横にあった荷物に寄りかかって上体を少しだけ起こし、ザフィルを睨みつけた。
「途中で切断したでしょ」
ザフィルは意識して眉をひそめ、呆れたような様子をことさらに作った。
彼女は、自分ごときから同情や哀れみの言葉を聞きたくないだろう。自分は彼女の憎悪の対象であった方が、都合が良いはずだ。
彼女が求めていそうな表情を整え、口を開く。
「あれ以上やったら君が死ぬ。僕の中を寝物語か何かだと思っている?」
シルリネアは、反射的に苛立ちを覚える。
あれが寝物語? 地獄巡りと間違えているんじゃないの?
言い返しかけた言葉を、ぐっと飲み込んだ。もう少し穏やかで曖昧な言葉をどうにか探し出し、口にする。
ここでメイランを不安にさせるつもりはない。
「そうじゃない。でも、あなたの気持ちが少しわかったかも」
「そう、よかったね」
淡々と無感動に答えるザフィルを見て、シルリネアはそっと首を横に振った。
彼のことを理解するのは、まだまだ難しそうだ。
大切な人たちと故郷を奪われた悲しみと怒りは、シルリネアから消えていない。
彼の所業を帳消しにすることなんて、できるはずもない。
ここで殺してやろうかと思う程度の怒りと恨みは、未だくすぶっている。
それでも、ザフィルを生かしたことを後悔していない。
メイランの願いを叶えてあげられたから。
それは、とても価値のあることだ。
ふと、シルリネアの目の前に麦粥の入った皿が出てきた。メイランの手だ。
「難しい顔してねぇで、とりあえず食えるだけ食ってくれ」
「ありがとう、メイラン」
「そうしたら、色々話そう。何でも話す。好きなだけ質問して」
皿を受け取り、入っているものを見る。じっくり時間をかけて作られた麦粥は、優しい香りがした。メイランの心尽くしが伝わってきて、笑顔がこぼれる。
麦粥はちょっと水っぽかったし、塩気も足りなかったが、それさえ彼の愛嬌だと思えた。
ゆっくり味わいながら食べ、ふと顔をあげると、メイランの笑顔がそこにあった。
彼の幸せそうな顔は、シルリネアの心も温めてくれる。
この笑顔が見られたことが、一番の収穫かもしれない。




