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第72話 半生を視る

 シルリネアは虚無の世界に立っている。

 ザフィルの中には何もない。あまりにも空虚な空間だった。

 虚空に手を滑らせると、世界が砂像のようにザラザラと崩れた。


 ******


 崩れた世界の先は立派な宮殿の中。

 偉そうに飾り立てた服装の大人たちが、周囲を囲んでいる。

 だが、彼らの顔がよく見えない。ザフィルが彼らの顔を記憶していないからだ。

 広く豪奢な部屋の隅に、若いヴェンツェルらしき姿が見えた。ということは、ここは魔法王国だ。

 ヴェンツェルの顔だけが、この世界で明確だった。彼だけが、ザフィルを意思のある個人として扱ったのだろう。

 だからザフィルは、彼の顔を覚えている。

 顔の見えない大人たちは、しきりにザフィルに語りかけている。

 それなのに、言葉が聞き取れない。彼らの声はただの雑音でしかなく、ザフィルの記憶に残らなかった。


 声は時に甲高く喚きたて、時に威嚇するように低く響く。

 鬱陶しい。ザフィルの苛立ちが、シルリネアにも流れ込んできた。

 次の瞬間、音のない爆発と共に、顔の見えない大人たちが消えた。


 雑音が消え、静寂が戻った。

 音のない世界に安堵したザフィルは、魔法を使って探査の糸を張り巡らせる。すぐに、魔法王国すべての人間の、膨大な反応が返ってきた。

 反応があまりにも多すぎて、シルリネアは目が回りそうだった。

 対して、ザフィルは平然としている。

 これに慣れるには、一体どれだけ時間がかかるのだろう。

 身体の負担もあったはずだ。きっと、想像もつかないような。


 気の遠くなりそうな数の反応から、ザフィルはヴェンツェルだけを、丁寧に糸から外した。

 その後は、探査の糸を辿って反応を消すだけだった。ただの作業として、何の感情の起伏もなく、ザフィルは魔法王国の人々を消していった。


 ******


 空間が歪む。


 ******


 次に現れたのは、豪奢で華やかな屋敷の中。

 外から冷えきった雨の音がする。

 足元には、無惨に引きちぎられ、死んでいる魔族がいた。


 魔族という存在を、シルリネアは知らない。

 しかしザフィルの記憶は、これが確かに魔族なのだと告げる。


 ザフィルは全身が傷と痣に覆われていて、日常的な暴力に晒されていたことが伺える。手の指は何本か、あらぬ方向を向いていた。

 この魔族の仕業だろうか。ザフィルのまとう衣服ばかりが立派で、いっそ空虚に思える。


 視線は床で無惨に事切れている魔族に向いているが、瞳は何も映していない。

 何を考えているのか、まったく窺い知れなかった。

 彼の折れた指が、きしみながらあるべき位置に戻っていく。魔力を使って、指を正しい位置に固定している。

 だが指の位置にあまり頓着していないのか、微妙にズレた、歪んだ形で固定されてしまった。

 こんなに荒っぽい処置では、相当な痛みを伴うはずだ。それなのに、ザフィルの表情はまったく変化しない。

 痛いという感情すら、流れてこない。


 その後、ザフィルは死体の両手を念入りに踏み潰してから、静かに去っていった。全身を覆い尽くす傷とは裏腹の、よどみない足取りで。


 シルリネアは、やるせなくため息をついた。

 ここで抱きしめてくれる誰かがいたら、何かが変わったのだろうか。

 たとえば、メイランのような。


 ******


 空間が変化する。


 ******


 温かくて大きい何かに包まれていた。ゴツゴツしているが、とても優しい温もりだ。

 しかしザフィルは震えている。飢えと渇きと恐怖に、全身が支配されている。

 ふと気づく。ザフィルを包む温かくて大きなものも、震えていることに。

 唐突に首の根を掴まれ、乱暴に引っ張られた。

 温かくて大きなものから、無理やり引き剥がされる。

 ザフィルは泣きわめき、手足をばたつかせ、無我夢中で抵抗した。

 甲高い子供の悲鳴が、喉からほとばしる。


 引き剥がされ距離を置かされたことで、温かくて大きなものの姿が見えた。

 それは、幼いメイランだった。メイランはザフィルに追いすがるが、誰かに蹴り飛ばされて阻止される。

 何度も蹴られ、頭を汚泥に突っ込まれても、メイランは必死の形相でザフィルに手を伸ばす。

 傷つき、貶められた末に残った、唯一の光を掴もうとしているかのようだ。


 メイランは薄汚れ、哀しく痩せ細っていた。

 ボロ布とも泥の塊ともつかない物が、衰えた体をかろうじて覆っている。

 おそらく、ザフィルも似たような姿に違いない。

 彼らの置かれた環境の過酷さが、すべて凝縮されているようだ。

 幼いメイランは、暴力の嵐をただ耐えている。

 反撃なんて、思いつきもしない様子で。

 今の彼なら、相手を軽々と制圧して、気持ちよく笑うだろうに。


 ああそうか。

 シルリネアは、酷い光景に胸を痛めながら、理解してしまった。

 メイランは、最初から強かったんじゃない。

 この姿、この状況から、ひとつひとつ積み上げてきたんだ。

 だから彼は、優しくて強いんだ。


 ザフィルは兄のことを、泣きわめきながら見ている。

 今すぐにでも走っていって、兄に飛びつきたい。それなのに、全身を押さえつけられていて、動くことができない。

 彼の小さな体が不規則に揺れる。殴られた時のような揺れ方だった。

 ザフィルもまた、暴行を受けているのだろう。

 だが、彼はその痛みを感じていなかった。ただ兄だけを見ている。


 やめて、いやだ、だめ、こわい、つらい…………ゆるせない…………!


 その時、ザフィルの中から凄まじい力が生まれるのを感じた。

 全てを破壊せんばかりの、圧倒的な力だ。

 ザフィルは、力をそのまま周囲に叩きつける。

 その間にも、さらに力が湧き上がり、膨れ上がる。ザフィルは、ありったけの力をすべて振り絞った。

 周囲に漂う力——魔力の残滓さえかき集め、取り込んで増幅させ、破壊の力とした。


 助けたい、助かりたい、逃げたい。

 もう嫌だ。

 全部消えてしまえ。


 感情が出口を求めて、ザフィルを翻弄する。

 激流となった感情は、純粋な力として世界に現れた。

 暴風が吹き荒れ世界が回転し……暗転。

 やがて視界が戻った時、そこには何も残っていなかった。


 瓦礫だけが虚しく積み上がっている。ザフィルはか細く頼りない声で兄を呼ぶが、どこからも返事がない。

 彼はそのまま硬直した。足が一歩も動かない。

 呆然とし、途方に暮れるザフィルの目の前に、綺麗で優雅な手が差し伸べられた。

「おいで。君の価値を私が教えてあげるよ」

 顔をあげると、豪奢で華やかな装いの魔族がいた。それは先程床で引きちぎられ、無惨に死んでいた魔族に見える。

 おずおずと取った美しい手はとても冷たくて、身も心も凍てつかせるようだ。

 繋いだ指の先から、絶望の温度を感じた。


 不意に、光景がぼやけた。シルリネアの意識が強制的に引き戻される。


 待って!

 あの子の未来を地獄にすることはできない……!

 すべての景色が遠ざかる中、シルリネアはそう叫んでいた。

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