第72話 半生を視る
シルリネアは虚無の世界に立っている。
ザフィルの中には何もない。あまりにも空虚な空間だった。
虚空に手を滑らせると、世界が砂像のようにザラザラと崩れた。
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崩れた世界の先は立派な宮殿の中。
偉そうに飾り立てた服装の大人たちが、周囲を囲んでいる。
だが、彼らの顔がよく見えない。ザフィルが彼らの顔を記憶していないからだ。
広く豪奢な部屋の隅に、若いヴェンツェルらしき姿が見えた。ということは、ここは魔法王国だ。
ヴェンツェルの顔だけが、この世界で明確だった。彼だけが、ザフィルを意思のある個人として扱ったのだろう。
だからザフィルは、彼の顔を覚えている。
顔の見えない大人たちは、しきりにザフィルに語りかけている。
それなのに、言葉が聞き取れない。彼らの声はただの雑音でしかなく、ザフィルの記憶に残らなかった。
声は時に甲高く喚きたて、時に威嚇するように低く響く。
鬱陶しい。ザフィルの苛立ちが、シルリネアにも流れ込んできた。
次の瞬間、音のない爆発と共に、顔の見えない大人たちが消えた。
雑音が消え、静寂が戻った。
音のない世界に安堵したザフィルは、魔法を使って探査の糸を張り巡らせる。すぐに、魔法王国すべての人間の、膨大な反応が返ってきた。
反応があまりにも多すぎて、シルリネアは目が回りそうだった。
対して、ザフィルは平然としている。
これに慣れるには、一体どれだけ時間がかかるのだろう。
身体の負担もあったはずだ。きっと、想像もつかないような。
気の遠くなりそうな数の反応から、ザフィルはヴェンツェルだけを、丁寧に糸から外した。
その後は、探査の糸を辿って反応を消すだけだった。ただの作業として、何の感情の起伏もなく、ザフィルは魔法王国の人々を消していった。
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空間が歪む。
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次に現れたのは、豪奢で華やかな屋敷の中。
外から冷えきった雨の音がする。
足元には、無惨に引きちぎられ、死んでいる魔族がいた。
魔族という存在を、シルリネアは知らない。
しかしザフィルの記憶は、これが確かに魔族なのだと告げる。
ザフィルは全身が傷と痣に覆われていて、日常的な暴力に晒されていたことが伺える。手の指は何本か、あらぬ方向を向いていた。
この魔族の仕業だろうか。ザフィルのまとう衣服ばかりが立派で、いっそ空虚に思える。
視線は床で無惨に事切れている魔族に向いているが、瞳は何も映していない。
何を考えているのか、まったく窺い知れなかった。
彼の折れた指が、きしみながらあるべき位置に戻っていく。魔力を使って、指を正しい位置に固定している。
だが指の位置にあまり頓着していないのか、微妙にズレた、歪んだ形で固定されてしまった。
こんなに荒っぽい処置では、相当な痛みを伴うはずだ。それなのに、ザフィルの表情はまったく変化しない。
痛いという感情すら、流れてこない。
その後、ザフィルは死体の両手を念入りに踏み潰してから、静かに去っていった。全身を覆い尽くす傷とは裏腹の、よどみない足取りで。
シルリネアは、やるせなくため息をついた。
ここで抱きしめてくれる誰かがいたら、何かが変わったのだろうか。
たとえば、メイランのような。
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空間が変化する。
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温かくて大きい何かに包まれていた。ゴツゴツしているが、とても優しい温もりだ。
しかしザフィルは震えている。飢えと渇きと恐怖に、全身が支配されている。
ふと気づく。ザフィルを包む温かくて大きなものも、震えていることに。
唐突に首の根を掴まれ、乱暴に引っ張られた。
温かくて大きなものから、無理やり引き剥がされる。
ザフィルは泣きわめき、手足をばたつかせ、無我夢中で抵抗した。
甲高い子供の悲鳴が、喉からほとばしる。
引き剥がされ距離を置かされたことで、温かくて大きなものの姿が見えた。
それは、幼いメイランだった。メイランはザフィルに追いすがるが、誰かに蹴り飛ばされて阻止される。
何度も蹴られ、頭を汚泥に突っ込まれても、メイランは必死の形相でザフィルに手を伸ばす。
傷つき、貶められた末に残った、唯一の光を掴もうとしているかのようだ。
メイランは薄汚れ、哀しく痩せ細っていた。
ボロ布とも泥の塊ともつかない物が、衰えた体をかろうじて覆っている。
おそらく、ザフィルも似たような姿に違いない。
彼らの置かれた環境の過酷さが、すべて凝縮されているようだ。
幼いメイランは、暴力の嵐をただ耐えている。
反撃なんて、思いつきもしない様子で。
今の彼なら、相手を軽々と制圧して、気持ちよく笑うだろうに。
ああそうか。
シルリネアは、酷い光景に胸を痛めながら、理解してしまった。
メイランは、最初から強かったんじゃない。
この姿、この状況から、ひとつひとつ積み上げてきたんだ。
だから彼は、優しくて強いんだ。
ザフィルは兄のことを、泣きわめきながら見ている。
今すぐにでも走っていって、兄に飛びつきたい。それなのに、全身を押さえつけられていて、動くことができない。
彼の小さな体が不規則に揺れる。殴られた時のような揺れ方だった。
ザフィルもまた、暴行を受けているのだろう。
だが、彼はその痛みを感じていなかった。ただ兄だけを見ている。
やめて、いやだ、だめ、こわい、つらい…………ゆるせない…………!
その時、ザフィルの中から凄まじい力が生まれるのを感じた。
全てを破壊せんばかりの、圧倒的な力だ。
ザフィルは、力をそのまま周囲に叩きつける。
その間にも、さらに力が湧き上がり、膨れ上がる。ザフィルは、ありったけの力をすべて振り絞った。
周囲に漂う力——魔力の残滓さえかき集め、取り込んで増幅させ、破壊の力とした。
助けたい、助かりたい、逃げたい。
もう嫌だ。
全部消えてしまえ。
感情が出口を求めて、ザフィルを翻弄する。
激流となった感情は、純粋な力として世界に現れた。
暴風が吹き荒れ世界が回転し……暗転。
やがて視界が戻った時、そこには何も残っていなかった。
瓦礫だけが虚しく積み上がっている。ザフィルはか細く頼りない声で兄を呼ぶが、どこからも返事がない。
彼はそのまま硬直した。足が一歩も動かない。
呆然とし、途方に暮れるザフィルの目の前に、綺麗で優雅な手が差し伸べられた。
「おいで。君の価値を私が教えてあげるよ」
顔をあげると、豪奢で華やかな装いの魔族がいた。それは先程床で引きちぎられ、無惨に死んでいた魔族に見える。
おずおずと取った美しい手はとても冷たくて、身も心も凍てつかせるようだ。
繋いだ指の先から、絶望の温度を感じた。
不意に、光景がぼやけた。シルリネアの意識が強制的に引き戻される。
待って!
あの子の未来を地獄にすることはできない……!
すべての景色が遠ざかる中、シルリネアはそう叫んでいた。




