第65話 欠片
朝。メイランが目を覚ますと、シルリネアは穏やかに眠っていた。
窓から薄く差し込む朝日に照らされた彼女は、やはり顔色が良くない。影嵐から聞いた通りだ。
無理をしている。
2日続けて癒しの魔法を使ったのが、良くなかったのだろうか。
「優しさも程々にしてくんねぇかなあ」
メイランはシルリネアに毛布をかけ直して、部屋を出た。
「おはようございます」
ヴェンツェルは既に起きて、食卓で書き物をしていた。
「おはよう。早いね」
メイランはヴェンツェルに笑いかけ、水瓶の水を飲んだ。ヴェンツェルにも水を差し出す。
「どうも」
軽い礼を言って、ヴェンツェルは書き物に戻った。
「何書いてんの」
「符ですよ。転移符と、他にもいくつか」
興味本位でメイランが問うと、ヴェンツェルは顔を上げずに答えた。赤褐色の髪が、彼の額から垂れ下がっている。
「じゃあ、俺は触っちゃダメだな」
メイランが苦笑した。触れれば壊してしまいそうだ。
ヴェンツェルも微笑み、顔を上げた。琥珀色の瞳が控えめに輝く。
「そうですね。魔力と魔法を無力化する体質というのは、とても興味深い。……後で、試してみても?」
「いいけど……」
ザフィルの水の魔法も効かなかったのだから、きっとヴェンツェルの魔法も効かないだろうと思う。
それよりも。
「あんたさ、ザフィルに復讐を誓うわりに穏やかだよな。それとも、シルリネアが過激すぎる?」
気になっていたことを、尋ねた。メイランとしては、シルリネアの怒りと復讐心が妥当に思える。むしろヴェンツェルが異常だ。
ヴェンツェルは苦笑した。
「もちろんザフィルは、罪の報いを受けるべきだと思いますよ。でも私は、そして我が祖国は、彼を粗略に扱いましたから。その分は差し引く必要があると、思っているだけです」
「粗略って……」
「お話ししましょうか。兄であるあなたも、知っておくべきだ。彼がどのように扱われたのか」
ヴェンツェルは慎重に、言葉を選びながら話を始めた。
******
ザフィルがどこから来たのかは、わかりません。きっと彼以外は、誰も知らないでしょう。ザフィルは口数が少なく、社交にも消極的でしたから。
彼は突然、宮廷に現れました。王家の姫君の命の恩人として。姫君の馬車が魔物に襲われていたところを、助けたのだと聞きました。
私は宮廷魔術師になったばかりでしたが、向上心だけはありました——若輩者の特権ですね。
歳の頃が私と近いように思えたので、好奇心で彼に近づき……多少は仲を深められたと思います。魔法理論について、ぽつりとぽつりと返答をしてもらえる程度には。
彼は礼儀正しい所作を心得ていましたが、たとえ国王陛下からの問いかけであろうとも、返答をしないことがありました。それに比べれば、だいぶ親しくなれたと思いませんか?
私とザフィルの関係は、こんなものでしょうか。1か月に満たない程度の、短い話です。
私は、彼の魔法使いとしての才能を尊敬していました。
ですが、私以外の宮廷の面々は違った。
常識からかけ離れたザフィルの魔力と、魔法の技術。彼らはそれを国に取り込もうとしました。あるいは、他国に渡したくなかったのかもしれません。
彼の体を調べさせろと言い募り、この国に留まれと命じました。相応の地位と、安定した生活を約束して。姫君との婚姻さえ仄めかして——。
ザフィルはそんなことを、望んでいなかったのに。
押し付けもいいところです。彼は嫌がっていました。なんでこんなにうるさいんだと私に聞く程度には、辟易していたようです。
私も何とかしたかったのですが、末席の宮廷魔術師に、出る幕はありませんでした。私はただ、その場にいただけです。
それでも宮廷を止められなかったのは、私の罪でしょう。私以外、できる者はいなかったのだから。
その頃からです。宮廷内に漂う魔素に違和感を感じはじめたのは。軋み、歪み。そんな表現が適切でしょうか。立て付けの悪い扉を、耳障りな音と共に開ける時のような。そんな不快感——気持ち悪いでしょう?
ザフィルは、魔素が歪んでいると表現しました。自分が長くひとつのところに留まると、こうなるのだと。だから外に出たいと。
それでも、宮廷は許しませんでした。魔素の歪みと不快感に、誰も気付いていなかったのです。
さらに彼が年若いので、宮廷流の手練手管で操れると思っていました。そんなことで、操れるような存在ではないのに。そうでなくとも、姫君の命の恩人に対して、失礼極まりない話です。
そして、報いを受ける日が来ました。宮廷では、懲りることなくザフィルに慰留の言葉をかけ続け……彼はついに「黙れ」と言いました。
それだけで、その場にいた人々が、音もなく消え去りました。
私を残して。
その後、ザフィルは安堵したような表情で嘆息して……立ち去りました。私に目を向けることなく。
ザフィルが去った後、国中の人々が全員、殺されていたことに気付きました。
そんな中にあって、どうして私が生き残ったのかは、今もわからないままです。できれば聞いてみたいですね、あの時の気持ちを。
******
ヴェンツェルの話をメイランは聞いた。
尋ねたいことはたくさんある。ある、が——。
「ヴェンツェル、あんた、何歳?」
「25です」
さらりと出てきた答えは——。
「……そっかぁ……」
感慨深くため息をついた。
「同い年かぁ……」
自分と同い年のヴェンツェルが、弟であるザフィルの味方をしてくれた時期がある。
それだけで——。
「ありがとう、ヴェンツェル。あんただけでも、あいつをちゃんと見てくれた」
メイランは頭を下げた。ヴェンツェルが苦笑する。
「あなたに頭を下げてもらうようなことは、していませんよ。結局私は、何もできなかった。祖国を止められず、ザフィルを止められず。ただ滅びを見ていただけです……」
「それでも俺にとっては、大切なことなんだよ」
思い出す。
ゴミ捨て場で、引き剥がされた日を。腕の中に隠していたはずの弟を、奪われた日を。
奪われ、殴られ、蹴られた。汚泥に顔を突っ込まれた気もする。詳しいことは、もう思い出せない。ただ辛いという感情だけが、残っている。
その直後、暴風に吹き飛ばされ、弟と生き別れた。ルハサーン寺院が破壊されていく様を、見下ろした。
水場に落ち、這い上がり、黄嵐に拾われ——。
その後の弟がどうやって生き延びたのか、知らなかった。弟がどうやってザフィルになったのかも、知らない。
だがその一端を、ヴェンツェルが見せてくれた。しかも、ザフィルへの同情をもって。
「だから、ありがとう」
もう一度、メイランは頭を下げた。




