第59話 原点
シルリネアと紅嵐が個室から出てくると、通路でメイランが待っていた。
メイランはふたりを見て、ぱっと笑顔になる。
「紅嵐、顔色良くなったな」
嬉しそうなメイランの様子に、シルリネアも嬉しくなった。紅嵐も笑顔で応じる。
「湖姐に癒してもらったんだ。梅兄、湖姐すごいんだから、絶対大事にしてよ」
メイランの笑顔が一瞬ひきつったのを、シルリネアは見逃さなかった。彼はそれを器用に引っ込め、紅嵐に笑いかける。
「そりゃあもちろん。黒嵐は仮眠室で寝かせたから、しばらく放っといてやれよ」
「うん。私も今日は疲れたし、もう休むね。それじゃ」
立ち去る紅嵐を見送ってから、メイランはシルリネアに目をやった。シルリネアもメイランを見上げる。
「……なによ」
何か言われるのではと警戒しつつ、シルリネアが尋ねる。だがメイランは、笑顔を向けるだけだった。
「紅嵐、癒してくれてありがとうな。シルリネアの体調は平気?」
「寝れば治るぐらいだから、大丈夫、だけど……」
笑顔の奥を読み取ろうとしたが、まったくわからない。メイランがまた笑う。
「なんだよ信用ねぇな、全部受け止めるって言ったろ」
「そうだけど……」
「気にしすぎ。さ、帰ろうぜ。話したいことあるんだ。そっちもあるだろ?」
笑顔のメイランにつられて、シルリネアの表情もほどけた。疑うことがバカらしく思えてくる。
「わかった。帰って話しましょ」
シルリネアは弾むように歩き、メイランはその背をゆっくり眺めながら帰路についた。
家に戻り、お互いに聞いたことを語り合う。シルリネアは、紅嵐について「視た」核心と、彼女の気持ちについては話さないと事前に前置きしてから、それ以外のことを説明した。特に、ザフィルのことを。
「あいつ、何考えてんだ……」
メイランは頬杖をつき、帰る途中で買った菓子をつまむ。シルリネアは、お茶を一口飲んだ。
「紅嵐たちを早く戻したかったんだと思うけど……理由がわからないのよね」
リュミエールの捕虜を早く戻したいだけなら、復路の移動手段を渡す必要はない。だから、紅嵐たちが安洛城に早く戻ることに、意味があるのだと思う。
「だよなぁ……ここで考えても答え出ねぇだろうし、次いくか。シルリネアはさ、明日とか黒嵐を癒すつもりだったりする?」
ごく自然に出てきた問いかけに、シルリネアの心臓がドキリと跳ねた。
「……そのつもり、だけど……」
メイランがシルリネアの緊張を察して、苦笑した。
「どうすれば信頼して貰えるんだろうなぁ。……ま、いいか。俺はもう、否定しねぇって決めたから」
少し寂しそうな声色だった。シルリネアは慌てて弁解する。
「あの、ごめんなさい……じゃなくて、ありがとう。こんなに認めてもらえることに、慣れてなくて……」
メイランが笑う。
「いいよ、少しずつ慣れてくれれば。そんでさ、黒嵐を癒すなら、朝にしてほしいんだけど。いいかな」
予想外の話が飛んできた。シルリネアは目を丸くする。
「いいけど……どうしたの?」
「黒嵐と紅嵐がさ、俺と影兄の手合わせ見たがってるらしくて。朝、黒嵐の体調が良くなるなら、昼過ぎからやってもいいかなって」
「そんな話があるの?」
「うん」
シルリネアは、紅嵐の記憶の中で見た影嵐の鋭い動きを思い出す。確かに彼とメイランの手合わせは、見応えがありそうだ。見てみたいと純粋に思う。好奇心がうずいた。
「どっちが強いの?」
シルリネアが問うと、メイランは勝気な笑みを浮かべた。
「もちろん俺……って言いたいけど、互角かな」
「紅嵐の記憶で少しだけ見たけど……影嵐さんの最初の踏み込み、メイランにそっくりだった」
「ああ」
メイランが笑う。
「あれは俺がマネてんの」
驚くシルリネアを見て、メイランは言葉を足す。
「影兄の戦い方、かっこいいんだよ。鋭くて、無駄がなくて。憧れたんだけど、俺はマネしきれなくてさ、できる部分だけマネしてんの」
メイランが憧れる人という存在自体が、シルリネアには意外だった。あれだけ身体能力に秀でたメイランが模倣しきれないという話も、にわかに信じがたい。
「ま、楽しみにしてて。黒嵐が元気になったらやるから」
楽しそうなメイランを見て、シルリネアは微笑んだ。
「じゃあ、早く黒嵐には治ってもらわないとね。あと、メイランは無傷で勝ってね。……私、影嵐さんの手当てはしてもいいけど……メイランが怪我をしたら、手当てじゃなくて魔法を使ってしまいそうで……そうしたら、困るでしょ?」
大胆すぎる物言いだったろうか。ヒヤヒヤしながら、メイランの様子をそっと窺う。
メイランは一瞬だけ驚いた表情になり——破顔一笑した。
「責任重大だ。気合い入れねぇと」
******
翌朝、黒嵐はまだ仮眠室で横になっていた。
動くと目眩と吐き気が出るらしく、食事もままならないようだった。若くて体力があるから耐えられているが、あと数日続けば危険だろう。
シルリネアは黒嵐に自分の魔法について説明し、使う許可を求めた。しかし。
「……なんでもいい」
彼は虚ろな顔で、小さくそう言うだけだった。考えるのも億劫なのだろう。シルリネアは彼の言葉を都合よく解釈することにして、癒しの魔法を解き放った。
黒嵐の魔力は、乱れに乱れていた。まるで渦を巻く泥濘だ。踏み込むことに、本能的な恐怖さえ感じる。
だがシルリネアは、躊躇なく足を進めた。途端に、泥のような魔力が襲ってくる。シルリネアは一切抵抗せず受け入れ、手を伸ばした。この泥濘のどこかに、乱れの中心がある。それを探さないといけない。
黒嵐の記憶が、乱れた魔力に乗って流れてきた。
リュミエールに向かう途中、青嶺関を抜けた直後。黒嵐はこれから続く荒野と砂漠の旅に、辟易としていた。胸のあたりに不快感を感じる。
黒嵐はそれを、自分の我儘だと解釈していた。水の少ない場所を1か月も移動するのは嫌だが、仕事なのだから諦めよう。さっさと終わらせて帰りたい——そんなことを考えている。
シルリネアにはわかる。これは黒嵐の精神的な問題からくる不快感ではない。黒嵐はこの時既に、ザフィルの魔力を感じ取っている。
黒嵐は、魔力の感受性が相当高いようだ。どんどん膨れ上がっていく不快感に耐えかねて水を飲もうとして……落馬した。
黒嵐は、何が起きたのかわからなかった。だが、起き上がろうとして気付く。体がまともに動かない。
「気を、つけ……! なんだ、これ……!」
今まで感じたことのない異様な重圧に、黒嵐の足が震える。それでも何とか立ち上がったが……そこで意識が途切れた。
目を覚ますと、宿の一室だった。ベッドに寝かされている。
紅嵐が心配そうにこちらを見ていた。顔色が悪い。何か言っているようだが、聞き取れない。
体を起こすと、何かが胸のあたりから落ちた。符だ。何気なく手に取り、見る。
見たことのない符だった。赤黒いインクで、複雑怪奇な図形がびっしりと書かれている。
無秩序で汚らしい符。黒嵐は最初、そう思った。自分ならもっと綺麗な符が書ける。そう考えながら、符の内容を読み取ろうと指を図形に走らせ。
世界が変容した。
凄絶な符だった。
インクは血だった。術者自身の血だと即座に理解した。血に魔力を乗せて、図形を描いている。しかも、莫大な量の魔力が込められていた。普通に考えれば、ひとりで捻出できる魔力量ではない。数十人、いや、数百人分になるかもしれない。
手のひらに収まるような、小さな符なのに。
黒嵐は混乱した。どうやったらこんなものが作れるんだ。意味がわからない。非常識すぎる。
胸の不快感がせりあがってきて、嘔吐した。
だが、そんなものに関わっている暇はない。早く、どうにかして、この符を読まないと。
そうしないと。
自分の価値がなくなってしまう。
ここにいられなくなってしまう。
記憶の扉が開かれた。
3歳ぐらいの黒嵐は、貧民街に住んでいた。ある日、親から無理やり引き剥がされて、馬車に乗せられた。黙って見送る親の手には、まるまる太った立派な財布が握られていた。
5、6歳ぐらいの黒嵐は、静かな部屋で端座して、書を読んでいた。必死で読み、必死で暗記し、「正しい」解釈を覚え、すべて諳んじる。それがすべてだと彼は感じていた。
それだけが、生きるために必要なことだった。
——ああこれが、黒嵐の原点なんだ。
シルリネアは理解した。
知識を披露しないと、彼は生きられなかったんだ。
たった1枚の「わからない」符が、その生き方を否定してしまった。
あなたの積み上げたものは、決して無駄じゃない。
乱れて壊れ、崩れかけているものを受け止める。
シルリネアの腕の中で、散り散りになっていたものが少しずつ集まりはじめた。
あなたは知識だけじゃない。
他にもたくさんの魅力がある。
あなたは生きていていい。
私は生きていてほしい。
何度も何度もそう伝えながら、ゆっくり黒嵐の心を整えていく。
心が整えば、魔力も自然な形に戻る。
焦らないで。少しずつ——。
ともすると焦燥感で暴れそうになる黒嵐を、少しずつあるべき形に誘導していった。
******
「気分はどう?」
黒嵐の目の焦点が合い、映像を結んだ。
最初に見たのは、優しく微笑むシルリネアだった。
「……湖姐?」
酷く不快で重く沈んでいた体が、なぜか軽い。
吐き気もないし、食欲も出てきたように思える。
「少しは楽になった?」
シルリネアが穏やかに問う。黒嵐は、改めて自分の状態を確認した。
「……すごく楽だ……どうやったの、湖姐」
「私の癒しの魔法を使ったの。すごいでしょ」
シルリネアは、悪戯っぽく微笑んだ。
「すごいも何も……」
つらかった体が、すっかり楽になっている。どうしたらこんなことができるのか、黒嵐にはまったくわからない。
シルリネアが笑顔で頷く。
「元気になったみたいで良かった。あのね、黒嵐が起きて食事できるぐらい元気になったら、メイランと影嵐さんが手合わせ見せてくれるんだって」
「えっ!」
黒嵐は跳ね起きた。
少しよろけたが、しっかりと立つ。
「本当に!?」
シルリネアは笑顔で頷いた。
「もちろん。私、黒嵐が起きたことをメイランに伝えてくるから。その間に食事して、あとは着替えとか、身支度をしておいてね」
そう言って、シルリネアは黒嵐と別れた。
別れてすぐ、シルリネアは物陰に隠れてしゃがみこんだ。
動悸が酷い。吐き気で脂汗が出る。体の内側、胸のあたりに強い痛みがある。反動がきている。
黒嵐は、予想以上に状態が悪かった。だから仕方がない。
幾度となく深呼吸をし、目を閉じて体が落ち着くのを待つ。
「でもこれで……」
黒嵐は、またいつもの調子に戻るだろう。そうすれば、紅嵐も安心するに違いない。
「早く、メイランのところに行かなきゃ……」
行くのが遅れると、メイランを心配させてしまう。それは嫌だ。
シルリネアは立ち上がり、自分の調子を確かめつつ、ゆっくりと歩きはじめた。




