第58話 恐怖の先にある希望
紅嵐の話で、シルリネアは彼女たちに起きたことをだいたい理解した。
つまり、ザフィルが場をかき乱したのだ。何を意図したものなのか、まったく見当がつかない。
さらにあいつは、黒嵐の魔力の流れさえ乱していった。おそらく黒嵐は、ザフィルの巨大な魔力に触れて自身の魔力が乱れ、体調に影響を及ぼしたのだろう。
あまり顔色の優れない紅嵐も、もしかしたら黒嵐と同様なのかもしれないと、ふと思い至った。黒嵐ほど強く反応しなかっただけで。
「……ねえ紅嵐、怪我してる?」
「怪我? 擦り傷ぐらいなら、あちこちあるけど……」
それぐらいが助かる。シルリネアは決意して口を開いた。
「あのね、紅嵐は魔力が乱れてるかもしれなくて、それを癒すために魔法を使いたいんだけど……いい?」
紅嵐が驚いて目を丸くする。
「え、湖姐、魔法使えるの?」
「少しだけ」
「すご。でも私、魔法使えないよ? 魔力の乱れなんて……」
「魔法が使えなくても、魔力を持ってる人はいるの。紅嵐もそういう人かもしれないし、合う魔法と出会えば、使えるようになるかも」
シルリネアが微笑んで答えると、紅嵐の瞳が輝いた。
「使えたら嬉しいなぁ。そうしたら、もっと役に立てるし」
「……それでね、私の魔法を使えば、紅嵐の体調の悪さは消えると思う。でもその時に、紅嵐の心に触れる必要があって。体調の悪さの原因に関係する記憶を、私が『視て』しまうの。それでもいい?」
「え、やば。そんな魔法あるんだね……いいよ、湖姐なら。どうせたいした記憶もないし」
言葉と裏腹に、紅嵐の表情は陰りを帯びる。秘めた感情と過去を暴かれることを好む人など、いない。それでも紅嵐は、シルリネアを信頼してくれている。その信頼に応えたいと、シルリネアは強く思った。
「ありがとう。……始めるわね」
シルリネアは紅嵐に手を触れ、癒しの魔法を解放した。
黄金色の光が、そっと紅嵐の中に入り込む。
******
まず感じたのは、紅嵐が自覚していた複数の擦り傷だ。訓練の様子と怪我をした瞬間が、シルリネアに流れてくる。紅嵐は負傷した瞬間に小さな痛みを感じているが、さほど気に留めていないようだ。流れ行く小さな傷の記憶を、シルリネアは優しく触れて浄化した。
外側の傷を癒して次の層に入ると、魔力の流れを感じた。やはり紅嵐は、魔力を持っている。それが不安定に歪んでいる。
歪みの中心を探っていくと、紅嵐の記憶が流れこんできた。
リュミエールに向かう途中の様子が見えた。捕虜を護送している馬車を挟み、紅嵐は黒嵐と共に馬で移動している。普段通り、何も変わらない。周囲の警戒をしつつ、ふたりは会話を楽しんでいる。
黒嵐がうんざりした顔で、腰の瓢箪を取ろうとして……急に落馬した。
「黒嵐!?」
紅嵐が思わず叫んだ。そのまま駆け寄ろうとして……止める。今は仕事中だ、持ち場を離れてはいけない。そう自分に言い聞かせている。視界の隅で、御者をしている影嵐が、腰に手をやるのを見た。紅嵐自身も、槍を握りしめる。
黒嵐の苦しげな警告が聞こえた直後、紅嵐も強烈な重圧を感じ取った。ザフィルの魔力だ。シルリネアは即座に理解した。紅嵐の脈が乱れ、呼吸が荒くなる。頭痛と耳鳴りも感じた。それでも紅嵐は、気丈に耐えている。
彼女が正面を見据えた瞬間、ザフィルが現れた。空間の裂け目から滲み出してくるような、異様な姿で。
ガタンと大きく馬車が揺れた。影嵐が馬車を蹴って跳び、ザフィルに攻撃を仕掛けている。凄まじい反応速度だった。影嵐の急襲の判断速度と鋭さは、メイランに勝るとも劣らない——いや、よく似ていると、シルリネアは思った。
紅嵐も体の不調に耐えつつ、驚愕と敬意で見つめている。
だが、影嵐の攻撃はザフィルに届かなかった。空中で弾かれる。
これがザフィルの防御結界。シルリネアは息を呑んだ。常軌を逸した強度だ。影嵐の鋭い攻撃をもってしても、まったく破れない。
メイランならきっと、これを無効化できるのだろう。魔法を一切受け付けない、その体で。カルブの期待した通りに。
ザフィルの口が動いたと思ったら、空間が歪んだ。耳鳴りと頭痛が酷くなる。どうにか耐え抜き、痛みが引いて目を開けると、目の前に光の神の大神殿が見えた。
映像が切り替わる。
おそらくリュミエールの宿の一室だ。目の前には、床に膝をついて激しく嘔吐している黒嵐がいる。紅嵐が不安そうに介抱していた。影嵐の姿は見えない。捕虜の見張りか、あるいは大神殿との交渉に行ったのかもしれない。
「くそっ、なんだ、これ……!」
黒嵐は悪態をつきながら、横にある机に手を伸ばし、這い上がる。
「やめなよ、もう……」
紅嵐が不安で潰されそうになりながら、黒嵐に訴えた。彼女の頭痛と耳鳴りは消えていない。だが、それ以上に黒嵐が心配だった。
机の上には、符が一枚置かれていた。一面にびっしりと図形が描かれており、重厚かつ莫大な魔力も感じる。ザフィルの書いた符だと、すぐにわかった。
黒嵐が、震える指で符の図形を辿る。符の性質と魔力を解析しているようだ。ザフィルの魔力に魅入られている。
紅嵐の不安が膨れ上がり、恐怖に育っていくのを感じた。黒嵐は嘔吐を繰り返し、青ざめているにも関わらず、ザフィルの符に食い下がっている。紅嵐は、怯えながらそれを見ている。
これだ。
シルリネアは直感した。
この怯えと恐怖が、歪みの中心だ。
黒嵐が見せるザフィルの符への異様な執着が、紅嵐の歪みを作っている。
日常の崩壊。紅嵐はそう感じている。
——大丈夫。
シルリネアは歪んで怯え、震える紅嵐に手を伸ばした。
——あなたと黒嵐は、私が守る。だからもう心配しないで。
伝えながら、そっと抱きしめる。
歪みの形を丁寧に整え、自ら元の姿に戻るための手助けをした。
やがて、歪みは自然に戻っていった。
******
「どう?」
シルリネアは、穏やかに声をかけた。
紅嵐は呆然としているが、顔色がいい。
「……スッキリした……」
驚きでうわずった声だ。暗く沈んだ声ではないし、無理に作られた明るい声でもない。
どうやら癒せたようだ。シルリネアは微笑む。
「よかった。今日はゆっくりして、動くなら明日からにしてね」
「うん……え、なにこれ、どうなって……やば……」
今まで紅嵐を包んでいた辛さが、綺麗さっぱり消えていた。
「魔力に歪みがあったから、整えたの。それだけ」
「それだけって……湖姐、すごすぎない……?」
シルリネアは紅嵐に直接答えず、もう一度微笑んだ。
「紅嵐の魔力、結構ある方だと思う。相性のいい魔法を探してみたら?」
紅嵐の瞳が嬉しそうに輝いた。
「え、ほんと? 符術はぜんぜんわからなかったから、別のもの探さなきゃ」
「それがいいと思う。多分、防御系が向いてる」
「湖姐そこまでわかるの? ほんとすごい……!」
紅嵐の敬意を柔らかく受け止めながら、シルリネアは自身の魔力の滞りを感じていた。
癒しの反動だ。きっと今日中には治るだろう。深呼吸をして体調を整えつつ、シルリネアは紅嵐の話に付き合った。
明日あたり、黒嵐も癒せるといいけれど——。




