第54話 優しい刃
日没前、ふたりと別れてシルリネアは帰路についた。家々には、ポツポツと明かりが灯され始めている。
不思議な気分だった。仮とはいえ、帰る家がある。宿ではない、地に足の付いた家。
失ったものが戻ってきたような錯覚さえ覚える。もうずっと、取り戻すことなどないと思っていたのに……。
感傷的になってしまうのは、青嵐の皆が優しいからだ。まるで旧知の仲のように、それこそ家族のように、扱ってくれるから。
いけない。
シルリネアは首を大きく横に振った。
目的を見失ってはいけない。
ザフィルを殺す。
それからでないと、何も始まらない。
帰ったら水浴びでもしよう。できればお湯がいい。
長旅の汚れを落とせば体がスッキリして、心も定まるはずだ。
シルリネアの「家」には、明かりが灯っていた。
まるで帰りを待ち侘びるかのように、軒下に提灯が下げられている。
たったそれだけなのに、シルリネアはまた泣きそうになった。
涙が遠ざかるまで時間を置き、慎重に家に入ると、メイランは既に戻ってきていた。
「お帰り、楽しかった?」
メイランの笑顔につられて、シルリネアも微笑んだ。
「ありがとう、楽しかった。髪紐買って、お茶してきた」
大丈夫、普通に振る舞えているはずだ。メイランの表情を、不自然にならない程度に窺う。
「そりゃあいい。向こうの部屋にお湯作ってあるから」
メイランは笑顔で、土間になっている続き部屋を示す。見れば、昨日はなかった衝立が置かれており、入浴の姿を隠せるようになっていた。
確かに体を綺麗にしたいと思っていた。お湯がいいとも考えた。しかしまさか、帰宅直後に叶えられるなんて。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
押し付けがましさの一切ない笑顔だった。ファランの言葉を思い出す。
——まるで、ご主人様を迎える犬みたい
メイランが犬で私が主人だとして、私は、この素晴らしい忠犬の主たる資格はあるのだろうか。
自信がない。彼の横に堂々と立つには、どうすればいいのだろう。
簡易浴室になった土間には、お湯がたっぷり入った大甕と湯桶があった。
湯を汲むために湯桶を持つと、コロリと湯桶の中の何かが転がった。
何だろう。薄暗い中を手探りすると——石鹸だ。
「メイランこれ、石鹸……!」
驚いて声を出すと、衝立の先でメイランが笑う。
「リュミエールからこのかた、ずっと買い直せなかったからさ。安洛通運で、稽古賃がわりに少しもらってきた。好きなだけ使って」
青嵐の人たちもメイランも、何でこんなに優しいんだろう。
嗚咽が出そうになるのを誤魔化すために、シルリネアは全身を石鹸の泡だらけにする。湯を汲み、派手な水音を立てて、何度も何度も洗い流した。
******
シルリネアは、ぼんやりした顔で浴室から戻ってきた。
体を洗うと、いつも気持ちよさそうな顔で戻ってくるのに……。
メイランの心に不安がよぎる。
「どうした?」
湯加減が悪かったのだろうか。そうであってほしい。そうであれば、謝るだけで解決する。
だが違う。その程度の問題であれば、彼女は直接文句を言ってくれる。怒ったり笑ったり、表情豊かに抗議してくれる。
だから違う。
シルリネアに近寄り、恐る恐る表情を確認した。
目が赤くなっている。石鹸が目に入った……のではない。
きっと泣いていた。
それを誤魔化すために、自分で石鹸液を目にかけたのかもしれない。やりかねないなと思いつつ、そっと声をかける。
「目が赤い。月嵐のとこ行く?」
診察の名目で、悩みを聞いてもらえばいい。月嵐なら、上手に聞いてくれるだろう。
だがシルリネアは、首を横に振った。
「ごめん、メイラン、ごめん……」
声がうわずっている。今にも泣きそうだ。
「なに難しいこと考えてんの。言ってみ」
メイランは苦笑しながら、シルリネアを抱き寄せた。シルリネアは大人しく収まり、両腕でメイランの背中をぎゅっと掴む。
いつもと同じ反応が返ってきて、メイランはホッとした。どうやら嫌われているのではなさそうだ。
「私、メイランに嫉妬してる……」
ぽつりと転がり落ちたシルリネアの言葉は、メイランの想像の外にあるものだった。
「えっと……ごめん、どういう意味?」
困惑しながら尋ねると、シルリネアの腕に力がこもった。
「メイランが、こんなに、素敵な人たちに、囲まれて、愛されてて、それで、私……」
ああそういうことか。
シルリネアの失ったものが、ここにあったから——。
「……気付かなかった。ごめん」
一方的な気持ちを押し付けていた。
青嵐の連中と付き合えれば、シルリネアの「未来」に、道をひとつ用意してやれると思っていた。
だが違った。
少なくとも、彼女の帰る場所はここではなかった。
シルリネアは首を横に振る。
「違う。メイラン、は、悪くない……。私が、勝手に……」
嗚咽が混じりはじめた。メイランは、抱き寄せた腕を少し緩める。彼女が自由に動けるように。
「でもさ、シルリネアも悪くないだろ。愚痴でも八つ当たりでも、何でも聞くから」
だから泣かないでほしい……違う。笑顔を見せてほしい。
「な、いつでもいいから聞かせてくれよ。シルリネアの故郷のこと。親兄弟がいなくても、大切な人たちがいたんだろ?」
泣きじゃくりながら、シルリネアは何度も頷いた。
メイランは、ひとつ大きなため息をつく。
ザフィルが、シルリネアをこうしてしまった。
彼女だけではない。もっと多くの人たちも、きっと。
やはり、許されるべきではない。たとえどんな事情があったとしても。
俺も、許すべきじゃない——。
******
泣くだけ泣いて落ち着いてきたシルリネアを、メイランは椅子に座らせた。
泣き疲れたのか、シルリネアはうわの空だ。その様子が可愛らしいと思ってしまう。我ながらどうかしていると思いながら、メイランはしゃがみこんだ。
「腹減ったろ、何か持ってくるから待ってな」
シルリネアと視線を合わせ、笑う。
立ち上がりざま、シルリネアの頬に自分の頬をこすりつけた。昨日、彼女のやってくれた仕草を真似て。
シルリネアは驚きで目を見開き——花がほころぶように笑った。
「ありがとう、メイラン」
彼女の笑顔があまりにも美しかったので、メイランは思わず、シルリネアの頬に口づけをした。
「あ」
やらかしたかもしれない。シルリネアは、ハリドが姪に向けた大量の接吻を、居心地悪そうに見ていたのに。彼女の故郷には接吻の文化がないのかもしれないと、気をつけねばならないと、思っていたのに……。
そっとシルリネアの様子を窺うと——顔をリンゴよりも真っ赤に紅潮させていた。
意図は伝わっていそうだ。ただし、だいぶ大げさに。
……まぁいいか。
大げさに捉えられても、たいした問題ではない。メイランはそう判断し、せっかくなのでもう一度頬に口づけをしてから、夕飯を探しに外へ出た。
共同の炊事場で首尾よく残り物を見つけ、帰り道でメイランは考える。
黒嵐と紅嵐の協力のおかげで、魔法が無効になる効果範囲は、ほぼ掴んだ。
手足の届く範囲。武器を持っていると、それも効果範囲になる。
武器まで効果範囲に含まれるのは、おそらくメイラン自身の認識によるものだ。メイランは武器を、自分の手足の延長だと思っている。その感覚が、効果範囲にも影響を及ぼすのではないだろうか。
効果範囲の中に収まってさえいれば、他者を魔法の影響から守れることもわかった。つまりザフィルと対峙する時、シルリネアを魔法から守ることができる。
これは大きい。
ただし、抜け穴も見つかった。
「結構でかい穴だし、きっとすぐバレるよなぁ」
メイランが独りごちる。判明した瞬間から、嬉々として攻め立ててきた黒嵐を思い出し、苦笑した。
「黒嵐に負けることはねぇけど」
ザフィルならどうだろうか。都市を、国を、一瞬で滅ぼす魔法使いだ。
抜け穴を塞ぐには、物理的な防御以外にない。だが物量で押されたら、押し負ける。
金属鎧が有効だろうが、重い鎧をメイランは好まない。堅牢さの代償に体の自由が奪われるのは、酷く不快だった。できる限り身軽でいたいから、岩嵐には革鎧を依頼している。
メイランは、魔法で起こされた風などに飛ばされたものを、無効化することができなかった。




