第50話 お前を殺す
宴がはけて、シルリネアとメイランは借りている空き家に戻る。
楽しい時間を過ごし、あとは寝るだけと思って家の扉を開けると――。
「いい夜だね」
男児の……カルブの声。
扉から差し込む月明かりに照らされ、机の上に座る子犬が見えた。子犬の横には、短刀が置かれている。優美な曲線が特徴的だ。
メイランは腰の剣を確認して、シルリネアよりも一歩前に出る。
「何の用だ」
カルブは薄く笑った。
「兄様たちが楽しそうで良かった。今日はね、お使いだよ」
首を曲げて、短刀を示す。カルブの首に食い込んだ真紅の首輪が、血のようにどろりと輝いた。
「主様からシルリネアに。この短刀なら、主様を殺せるよ」
「どういうこと」
シルリネアは、警戒心もあらわに問いかけた。おかしい。どうしてこいつは、こんなに静かなんだろう。今まではもっと、はしゃぐような声を出していたのに。
「言葉のままだよ。主様の作った、主様を殺すための短刀を、シルリネアにあげる。嬉しいでしょう?」
穏やかに揺蕩うような声が、あまりにも不気味だ。
カルブは小首を傾げ、メイランを見た。
「兄様は絶対に触らないでね。主様のかけた魔法が、消えちゃうから」
******
ヴェンツェルは船上にいた。
光の神の神殿の招聘を受け、ゲルハルトと共にかの国へ向かっている。
聖堂騎士団のルイス団長との対話を終え、部屋に戻ると。
机の上に、一冊の本が乗っていた。
見覚えのない装丁だ。少なくともヴェンツェルのものではない。
何の気なしに、本を手に取る。
「沈黙の書?」
古語で書かれた魔導書だ。魔法で明かりを灯し、本を開く。
上質な紙に書かれた内容に目を通していくと。
「何だこの本は……!」
思わず声が漏れた。本を持つ手が震え、暑くないのに汗が額に滲む。
恐怖と興奮で、ページを繰る手が止まらない。
とんでもない魔導書だ。
この本ならば、この内容ならば、もしかしたら――。
ザフィルを殺せるかもしれない。
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カルブがゆったりと机に伏せる。
空間が大きく歪んだ。空気の手触りが異様だ。
この世のものではないような重圧と圧迫を、シルリネアは感じた。
息が詰まる。
魔力を知覚できないメイランにさえ、異常な空気が伝わってくる。
「こんばんは」
唐突に、男性の声がした。月白色の痩せた少年が、机の横に佇んでいる。
「ザフィル!」
シルリネアが叫んだ。ありったけの憎悪を込めて。呪い殺さんばかりの声で。
「ザフィル、お前……」
メイランの声はかすれていた。シルリネアを背に庇う。
ザフィルは焦点を結ばない虚ろな目を、それでもメイランに向ける。
「話が、あるんでしょ。聞きに来たよ……メイラン」
******
シルリネアの目の前には、短刀がある。
あれで、ザフィルを殺せるという。
ほんの数歩だけ歩き、手を伸ばせば届く。
シルリネアにとって、それはあまりにも甘美な果実だった。
今すぐ手に取り、鞘を払い、斬りつけたい。できれば首か心臓に。そうでなくとも、こいつに傷を負わせたい。
――だめだ、今じゃない。
シルリネアは懸命に自制した。今はメイランが、ザフィルを見極める時だ。
自分の心は決まっている。あとは彼の心が決まれば、何の迷いもなく進めるようになるはずだ……良くも悪くも。
できれば良い方になってほしい。祈るような気持ちで、シルリネアはメイランの背に手を触れた。
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背中に押し当てられたシルリネアの手が熱い。その熱さを、生命を、メイランは強く意識した。
対して目の前にいるザフィル……弟は、あまりにも生命力が希薄だ。生きる意思を感じない。
褪紅色の瞳が、死のみを宿している。
「お前はなんで、死にたいんだ」
暗澹たる気持ちでメイランが問うと、ザフィルはゆらりと首を傾げた。
「さあ。わからない。どんな理由が、いいと思う……?」
生きる理由がないのだろうか。そんな考えが、ふとメイランの頭をよぎる。
「じゃあ、どうして殺す?」
「大抵は、うるさいから、かな」
混乱する。虚ろに響くザフィルの返答は、常軌を逸していた。
急かすように打ち付ける鼓動を感じながら、メイランはもっとも知りたかったことを口にする。
「お前は、俺の弟、なのか……?」
ザフィルは微かに思案するそぶりを見せてから、うっすらと口を開いた。
「僕はルハサーンを知っている。飢えと暴力、ゴミ捨て場、瞑想室、扉さえない寝床。冷たい石壁に兄が書いた血文字……どう思う?」
メイランの体が、ビクリと震えた。震えた理由はメイラン自身にもわからない。だが――。
あまりにも……あまりにも記憶が重なってしまうことを、否定できなかった。
飢えと暴力は日常だった。
ゴミ捨て場で何かに吹き飛ばされ、弟と生き別れた。
瞑想室は恐怖の象徴で、扉のない物置の隅が寝床だった。
寝床の石壁に、盗み見た文字を書いて遊んだ。血がインクの代わりだった。
これらをすべて知っているのは――弟しかいない。
弟と生き別れて17年になる。ずっと会いたかった相手が、目の前にいる。
それなのに。
いや、だからこそ。
「お前は……俺の弟だ……ザフィル……」
メイランが、悲痛な声を絞り出した。
弟は、死にたがっている。
弟は、愛しい人の故郷を、幸せを壊した。
その事実があまりにも苦しくて、俯いた。
******
シルリネアは、今すぐにでもザフィルを殺したかった。
自身の復讐のためでもあるし、優しくて愛しい人をここまで追い詰めるのも、許しがたい。
殺す相手がいて、殺すための道具もある。好機だ。
しかしそれでも、シルリネアは動かなかった。
メイランには、彼自身の意志で決めてもらわないといけない。
そうしないと、後悔してしまうから。
「……どうすれば、いいんだろうね……」
ザフィルが心の断片を呟く。
「この街を、壊せばいい?」
「よせ!」
「だめ!」
メイランとシルリネアが叫んだ。対するザフィルは、ひどく落ち着いている。
「やらないよ。まだ、ね……」
まだ。その言葉がメイランを戦慄させた。青嵐を壊される訳にはいかない。
やはり、どうしても……やるしかないのか……本当に……? 他に道が…………。
この期に及んで、逃げ道を探そうとしている。メイランは自分の浅ましさに気付き、己を罵り、蔑んだ。
最愛の人はとっくに決めている。自分も決めなければならない。そうしないと、未来に進めない。
唇を噛み切らんばかりに食いしばり、震える手で拳を握る。
「……わかった」
メイランがザフィルを見据えた。
「お前を殺す。俺が、この手で」
シルリネアが、歓喜に震えた。
ザフィルが、口の端をうっすらと吊り上げた。
「そう……」
ザフィルが言う。
「じゃあ石哭谷あたりはどう。ここでやると、あなたの大切なものを壊してしまうでしょう」
石哭谷。人里離れた風鳴りの谷だ。確かにあそこなら、ザフィルが大規模な破壊の魔法を使ったとしても、誰かを巻き込むおそれはない。
「わかった」
メイランの返事に、ザフィルは口角だけで微笑んだ。
「じゃあ待ってる……好きなだけ準備して」
そう言って、ザフィルは消えた。カルブもいなくなり、短刀のみが机上に残された。
「メイラン……!」
シルリネアが、メイランを背中から抱きしめる。彼のつらい決断を労う気持ちが半分。もう半分は、同じ道を進める喜びだった。
「待たせてごめん」
シルリネアの震える手をさすりながら、メイランが微笑んだ。
「あいつの言う通り、きっちり準備してから行こう――絶対に、殺せるように」
背中越しに、シルリネアが何度も頷く感触が伝わってくる。
「いい武器とか揃えて、できたらヴェンツェルにも会いてぇよな。あと、親父たちにも事情話して……」
メイランはシルリネアの腕をそっとほどき、彼女を見つめた。シルリネアも、強い意志を宿す瞳で見つめ返す。
万感を込めて、メイランは大きく嘆息した。
「やっぱ綺麗だなぁ……」
腕に力をこめ、メイランはシルリネアを抱きしめる。
シルリネアの腕がゆっくりと動き、優しく包み込むようにメイランの背に回された。
生命の温もりが、泣きたくなるぐらい心地よかった。




