第36話 なぜ
メイランが目を覚ましたのは、昼下がりだった。
「おはよう」
シルリネアが繕いものの手を休めて声をかける。
「起こしてって書いたつもりだったんだけど……読めなかった?」
太陽の角度を見て時刻を理解し、メイランは苦笑した。
悪筆には自信がある。眠い中書いたので、なおさら読めなかったのかもしれないと思った。
シルリネアが笑う。
「読めた。でも私が起こさなかったの。だって、疲れてたでしょ」
糸を切り、針を片付ける。ちょうど、直したいと思っていた箇所が片付いたところだった。
「この先の情報について、話してくれる人が見つかったらしいんだけど、夕食の時に話してほしいってお願いしたから。その時までに起きなければ、起こすつもりだったけど」
「……助かる」
「でしょ」
当然のように微笑むシルリネアが、メイランには妙に頼もしく映った。
もしかしてこれが、彼女の本来の姿なのだろうか。
であるなら、今までだいぶ我慢させていたのかもしれない。
******
「そういえば、私の故郷の話をするって約束してたっけ」
荷物の整理をしながら、シルリネアが言う。メイランは剣の手入れをしていたが、視線をシルリネアに向けた。
「別にいつでもいいけど」
「そう言うと、いつまでもできないでしょ」
「まぁなあ」
二人で苦笑しあってから、シルリネアは話しはじめた。
「私の故郷はね、すごく綺麗なところなの。森があって、大きな湖があって、湖から流れてくる小川があって。高い山に囲まれている小さな村で、みんな仲良く……という程でもないけど。でも、小さな諍いしかなかった。豊かではなかったかもしれないけど、それなりに、普通に、暮らしていた」
懐かしそうに、愛おしげに、優しい声で語る様子から、彼女が本当に故郷を愛していたのだということがわかる。
それを壊したのがザフィル……メイランの弟であるという事実は、どうしてもメイランを責め苛む。だが、知っておかねばならないことだ。彼は、そう自分に言い聞かせた。
「私はね、薬草師のバーバ・ロゥっていうお婆ちゃんに、薬草のことを教わったの。あとは、村の外に一度出て、兵隊をやって帰ってきたエルッキ隊長……あ、隊長は愛称ね。村に兵隊がいたわけじゃないし、本当にあの人が隊長だったのか、誰も知らない。そのエルッキ隊長がね、護身術ぐらいは覚えておけって言って、村の若者に教えていたの。私も教わった」
なるほど。メイランは納得した。
そのエルッキ隊長とやらが、シルリネアの剣術の基礎になる部分を教えてくれていたのだ。彼女の体捌きの筋がいいのは、彼のおかげだ。ともすると、本当にどこかの国の傭兵隊長ぐらいは、やっていたのかもしれない。
「それだけ。本当に小さな村の、小さな生活。私はそれで、十分だった」
シルリネアの瞳に影が差す。
幸せな日々が突然奪われた。そのつらさは、いかばかりだっただろう。
メイランは考える。自分はもしかしたら、幸運だったのかもしれない。ルハサーンは地獄だったが、抜け出すことができた。その後の生活には、何の文句もない。
シルリネアはずっと幸福だったのに、突き落とされた。きっとそれは、地獄のような苦しみだろう。
その苦しみが、今もまだ続いている。自分とは違って。
「ある日森に薬草を取りに行って、戻ってきたら……ザフィルがいた。みんな、音もなく消えていった……。あいつは指一本さえ動かさず、ただ歩いていただけ……」
ぎりり、とシルリネアが歯ぎしりをする音が聞こえた。その重さを、痛々しい音を、メイランは心に刻む。
「だから私は、ザフィルに殺してやるって言った。そうしたら、意識を失って……気がついたらメイランがいて、ここはヴァルグリムだって教えてくれた……」
シルリネアが微笑んだ。ここから先は知っているでしょ、と言わんばかりの悲しげな、それでいて固い決意を感じさせる表情で。
「だからね、メイラン。私、ザフィルのことを許す気なんて全然ないの。機会があるなら、いつでも殺してやりたい。それだけは、覚えておいてね」
「……わかった」
メイランには、それしか言えなかった。
******
夕闇が迫ってきた。
そろそろ食事に呼ばれそうだと思い、二人は出かけられるよう準備を整えていた。
「こんばんは」
いきなり幼児の甲高い声が聞こえてきた。
ゾクリと肌が粟立つ。メイランは素早く剣を抜き、シルリネアも声のした方を見た。
カルブだ。
犬の姿をしている。相変わらず真紅の首輪がきつく締められ、血線のように見える。
メイランはカルブの姿を見た瞬間、有無を言わせず斬りかかった。だが、カルブは彼の切っ先が届く直前で、ゆらりと消えてしまう。
「酷いなぁ、兄様」
「話す気はねぇって言ったよな」
カルブがクスクス笑いながら、窓辺に姿を現した。
「今日はちゃんと、約束通りにしたんだよ。褒めてほしいぐらいなんだけど」
言い終わるが早いか、カルブの横の空間が歪み……ザフィルの姿が現れた。
「ザフィル!」
シルリネアが叫ぶ。メイランは息を呑んだ。これがザフィル……弟……。
月白色の髪、褪紅色の瞳、痩身の体躯。聞いていた通りだ。目に力がなく、生きる意欲を感じさせない。まるで幽霊だと、メイランは思った。足元から寒気がはいあがってくる。
「久しぶり」
ザフィルが平板な声を発した。シルリネアもメイランも、ザフィルとは視線がほとんど合わない。彼が誰に向けて言っているのか、まったくわからない。
「今日は砂漠を救おうと思って、来たんだよ」
「……どういう意味?」
シルリネアが問う。会話が断片的すぎて、まったく理解できない。
「砂漠は水が足りないから……」
ふわりと窓から身を躍らせ——浮いた。
浮くこと自体は、魔法でできる。だが、動作も詠唱も視線も使わずに魔法を発動させられる……そんな魔法使いは、ザフィルしか知らなかった。
シルリネアの癒しの魔法でさえ、相手に触れる必要がある。
シルリネアは改めて、目の前にいる月白色の魔法使いの凄まじさを思い知った。
メイランはザフィルを追い、窓から身を乗り出して外を見上げる。
その瞬間、メイランは信じられないものを見た。
窓の外、宙に浮くザフィルの周囲に、巨大な竜が無数にいる。その影で陽光が遮られ、空が暗くなるほどの数。
……いや、竜じゃない。竜の形をした水の塊だ。メイランに悪寒が走る。あの水が一度に落ちてきたら……!
「水をあげるよ」
竜の形をした水の塊が、一斉に自壊した。凄まじい量の水が、宙に放たれる。
水の落ちる轟音と、建物や木々の壊れる音、人々や家畜の悲鳴が周囲を埋め尽くした。
メイランは咄嗟にシルリネアを抱きしめ、胸の内に彼女を隠す。
あの竜が、あの水が魔法の産物なら、自分には効かないかもしれない。だがシルリネアは違う。守らないといけない。
屋根がひしゃげ、壁が崩れる。それらはすべて、メイランに届く前に、水で押し流されていった。
水はメイランを避けるように流れていく。やはり魔法か。メイランは確信し、シルリネアをそっと解放した。
「俺を盾にしろ。魔法なら止められる」
シルリネアが頷くのを見て、メイランは未だ宙にいるザフィルを見た。
「なんでそんなことすんだ!」
叫ぶ。あまりにも陳腐な叫びだったが、他に言葉が見当たらない。
なぜザフィルが、ミルザードを破壊する必要があったのか。メイランには理解できなかった。
「水を持ってきただけ。数か月は保つよ」
「ふざけんな! そんなくだらねぇ理由で済むはずねぇだろうが!」
「……そう。じゃあそう思っていて」
そう言って、ザフィルは消えた。
メイランとシルリネアは立っている。
ジャバリ家の邸宅も、破壊されてはいるものの、原型を留めている。
だがそれ以外は……破壊し尽くされていた。




