第32話 救済の形
ザフィルがルハサーンの廃墟を歩く。
こんなものだったろうか。記憶が断片的すぎて、実感が薄い。
瓦礫の山を塵にしながら、あの日の中心地に向かった。
寺院の裏側の外れ、ゴミと汚物が集積される場所。
「さすがに何もないな……」
もう10年以上誰も住んでいないのだから、当然だ。
踵を返して、寺院の内部に入る。
地下。瞑想室。
魔法の明かりを灯すと、過去の残滓がありありと浮かび上がった。
壁には無数の血痕が散っている。
もっとも多いのは引っ掻き痕。低い位置に集中しているのは、痕をつけたのがすべて子供だからだ。手の皮が破れ、爪がボロボロになるまで引っ掻いた痕。
分厚い鉄扉の内側には、引っ掻き痕に加えて、叩いたような血痕が錆として残っていた。
ぼんやりと、暗い感情がわいてくる。
ここだけが昔のままということが、理に適わないように思えた。
暗い感情を抱えながら、通路を進む。
瞑想室から少し離れた場所にある、扉さえない小さな物置。
そこが、かつての寝床だった記憶がある。
部屋の奥にある石壁の片隅に、何かが書かれている。ザフィルは近寄り、しゃがみこんで文字を見る。
血で書かれたであろうその文字は、かすれている上、あまりにも汚く、形も判然としない。
縦2行、横2文字。
読めない。
きっと兄が、自分たちの名前を書いたのだと思うのだが。
兄も文字を習ったのではなく、偶然見たものを真似ただけだろう。子供がうろ覚えで書いたものだ、この程度なのは仕方がないと言える。
どこかで文字を見覚えてしまった兄は、その後、殴られたりしたのだろうか。
文字を書くのは、大人たちの中でも限られた存在だった。彼らは綺麗な部屋で、取り澄まして文字を書いていた。汚らしい子供がそこで「余計なこと」をしたら、罰を与えられるに決まっている。
ここは、そういうところだった。
地下の確認を終えて、地上に戻った。
やはりこの寺院が、瓦礫とはいえ未だに存在しているのは、許しがたい。
ザフィルは虚無の力を意識的に発動させた。普段は勝手に漏れ出てくるもので、むしろ抑える方が手間なのだが、今は存分に発散させることができる。
瓦礫の山が次々に消えていく。塵を残すことさえない。
地上の瓦礫を消し去りながら、地下にも虚無は浸透していく。誰もが怯えていた瞑想室の鉄扉が、音さえなく消えた。石壁も消え、支えを失った地下室は土と砂に潰されて消滅した。
ほんのわずかな時間で、寺院は今度こそ完全に消滅した。
ザフィルの記憶の中で、目の前の光景と、かつての師の姿が重なる。
八つ裂きにして踏みにじり、徹底的に殺してやった時の姿が思い起こされた。
上品で紳士的、常に穏やかな口調。
細くまっすぐで綺麗な指を使い、壊れかけていた僕を完全に壊した、冷たいあいつ。
******
メイランはシルリネアが投げた短槍を抜き、眉間や喉、顎の付け根など、急所を何度か突き刺した。完全に動かないことを確認してから、短槍を地面に置く。
「喰われた奴を探す。俺は喉から捌いていくから、応援呼んでくれねぇ? ラクダか馬、頑丈なロープ、あと大量の水。胃まで行ってたら胃液を流さねぇと、こっちまで溶けちまう」
戦友になった壮年の戦士に頼んだ。彼は頷き、隊商宿に走っていった。これで、いずれ応援が来るはずだ。
その間に、できることをやろう。
メイランは切り裂いた喉に腕を突っ込んだ。傷がどこまで達しているのか、確かめるために。都合のいいことに、食道まで切れている。ここから探していけそうだ。
切った喉を起点に、剣で腹方向に切れ込みを入れて徐々に裂いていく。
ふと視界の端に、こちらに走ってくる人物が見えた。
「メ……マリク!」
シルリネアだ。この状況で、意思疎通のしやすい相手はありがたい。
「いいところに来た。こいつのここ、裂け目の下あたりから尻尾側に向けて順に触って、人ぐらいの大きさに膨らんでいる部分を探してほしい。 多分そこに、喰われた奴がいる」
シルリネアは真剣な顔で頷き、砂伏蛇の喉を両手で触れていく。すぐに膨らみがあった。シルリネアは、思わず叫んだ。
「あった!」
「よし」
メイランはニッと笑い、シルリネアの示したあたりまで、剣を使って一息に切り裂く。その後、蛇の体内に自分の上半身を押し込みつつ、裂けた部分を足で踏み広げていった。
見つけた。暗くてよく見えないが、メイランの手が人間のようなものに触れた。
「サラ、槍取って」
片手を外に出し、手のひらを上にして振ると、すぐに棒状の物が握らされた。シルリネアが槍を取ってくれたのだろう。
確認することなくメイランは腕を戻し、槍の柄を腰帯と思しきものに通す。
「さぁて、いけるかな……っと!」
小さく呟いてから、腰帯の両端から突き出した槍の柄を両手で握り、思い切り引っ張った。
だが食道は伸縮性が高く、引っ張っても食道の方が伸びてしまう。そのせいで、動かしたい人間は、まったく動かない。
やむなく作業を中断し、槍を回収した。
「どうしたの?」
シルリネアに問われ、メイランは苦笑した。腰の剣を外して、シルリネアに渡す。
「全っ然動かねぇ……が、生きてるかもだし、もう少しやってみよう。サラは、人の形に膨らんでる範囲の皮と肉を、この剣で切って。あと、短剣貸して」
シルリネアは迷いなく短剣を抜き、メイランに渡した。その後は言われた通り、皮とその下にある肉を切り開きはじめる。その様子を見ながら、メイランは軽く体をほぐした。
「馬やラクダに引っ張らせると楽なんだが……待ってる時間もねぇよな」
頭のてっぺんから足先まで、砂伏蛇の血と体液でドロドロだ。メイランは槍を自身の腰帯に挟みこみ、短剣と素手で慎重に食道を切り裂いていった。
食道から真っ先に解放されたのは、幸運なことに顔だった。
少女だ。隊商の家族か、商人見習いといったところだろうか。意識はないが……。
「生きてる」
わずかに呼吸している。食道で圧搾されきっていなかったとは、本当に運がいい。メイランは砂伏蛇の食道の切開を急ぐ。
程なく、少女は砂伏蛇から解放された。
素早くシルリネアが寄ってきて、少女の状態を見た。
「骨がいくつも折れてる。多分内臓も傷ついてる……。隊商の中に、治癒魔法の使える人はいたけど……」
また癒すと言う気だ。メイランは、どうしても不安になる気持ちを抑えられない。
できれば止めたい。
だが、彼女を守りすぎないと決めた。
だから自分の感情を抑え込み、口を開いた。
「サラがやりたいと思うようにすればいい。俺はそれを、全部認めるから」
そして全力で支える。そう自分自身に誓った。
「……ありがとう」
シルリネアが微笑む。決意に満ちた瞳で。
この瞳が、この表情が、メイランはたまらなく好きだった。
もしかしてこれが、惚れた弱みってやつなんだろうか。
******
メイランによって少女の全身が引き出されるのを見て、シルリネアは剣を収めて駆け寄った。
顔に手をかざすと、わずかな呼吸が見られた。横向きにして気道を確保した後、口の中に異物がないか確認し、慎重に触れて様子を探っていく。
少女の状態は、かなり悪い。骨はいくつも折れており、内臓にも損傷がありそうだ。
隊商に治癒魔法の使い手がいることは、わかっているが……。
あの魔法で癒しきれるだろうか。それに、間に合うだろうか。シルリネアは、自分ならできる自信がある。
だから今すぐにでも癒したかったが、まずはメイランに伝えることにした。何といっても、彼が救った張本人だ。
少女の状態を伝えると、メイランの眉が寄った。彼はシルリネアが癒しの魔法を使いたいことを、理解している。しかし、使うことを嫌がっている。彼の表情から、否が応でもわかってしまう。
駄目だと言われてしまうだろうか。そして、メイランと口論しないといけないのだろうか。そう考えると、シルリネアの心は沈んでしまう。
彼と口論したくない。かといって、目の前の救える命を諦めたくもない。
だがメイランの口から出たのは、最大級の肯定の言葉だった。
「サラがやりたいと思うようにすればいい。俺はそれを、全部認めるから」
シルリネアは、思わず目を見開いた。
癒しの魔法をここまで完全に肯定してくれた人は、初めてだ。
シルリネアが癒しの力を使うと、大抵の人が怒る。または心配する。小さな子を癒やすと、その子が帰った後に親が謝りにくる。それらはすべて、シルリネアを思ってのことだ。よくわかっている。
それでもなお、少し寂しい気持ちがなかったと言えば嘘になる。
その寂しさを、メイランは今、吹き飛ばしてくれた。
「……ありがとう」
心の底からの礼を述べ、意識のない少女に向き合った。そっと手を触れ、癒しの力を流し込む。
骨折と脱臼、内臓の損傷。感じ取ったすべての傷を、シルリネアは片っ端から癒していった。呼吸を助けるために肺を膨らませ、骨をあるべき姿に整え、出血を塞ぐ。
少女から、突如現れた大蛇に飲み込まれ、全身を押し潰される苦痛が流れてきた。
シルリネアは傷を癒し、苦痛の記憶を抱きしめた。少女の辛さを自分に移すことによって、癒しの魔法は完成する。
黄金色の柔らかい光は消え、穏やかに眠る少女が残った。
そして痛みのあまり、膝をついて荒い息をつくシルリネアも。




