第30話 恐怖をほどく
ルイスは、偽聖女追討の任務に就く騎士を選任した。
真面目で優秀な若者を選んだ。きっと役目を果たしてくれるだろう。
司祭や異端審問官と共に編成されるので、良い経験にもなるはずだ。この機会があれば、教義の解釈も深まるだろう。司祭にも、宗教的な指導を頼んでおかねば。
ルイスは、不意に漏れたあくびを噛み殺した。
ザフィルの現れたあの日以来、あまり眠れない日々を過ごしている。
多忙でもあったし、夢見が悪いというのもあった。
夢には頻繁にザフィルが出てきて、あの日の悪夢を再現する。悪夢を見ると全身汗まみれで、まったく疲労が抜けないまま起きる羽目になった。
次はいよいよ、魔法王国の遺臣への使節団の編成だ。
ザフィル討伐の返答を届け、かの遺臣たちをリュミエールに招待するのが、使節団の役割だった。
互いの意見を密にするため、近くにいた方が都合が良いという面もあるし、国を失った人々を保護するという人道的な意味もある。
この使節団には、魔法王国への敬意を表するためにも、重鎮が参加する。騎士団長であるルイスも、無論参加を要請されていた。
そのため副団長を任命して、大神殿守護を任せないといけない。
王の騎士団と連携する必要もあるだろう。
まだしばらくの間は、寝不足の日々が続きそうだった。
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「シルリネア」
自分を呼ぶ声を、シルリネアは聞いた。
薄目を開けると満天の星空を背景に、心配そうな男性の顔が飛び込んできた。
「……メイラン……」
会いたかった人が、そこにいた。メイランはひそめられていた眉を緩め、顔をほころばせる。
「良かったぁ……起きそうだったから起こしちまったけど、体調は? 痛いところは?」
「……大丈夫、ありがとう」
体を起こそうとすると、自分の上衣が体にかけられていることに気付いた。そういえば、目印にと思って脱いでいた。つまり……。
「……ちょっと、そっち向いてくれない? 服を着たいから」
脱いだ時は気にしなかったことが、急に恥ずかしくなってきた。シルリネアの言葉に、メイランも我に返ったようだ。
「あ、悪ぃ!」
慌てて後ろを向いた。
その反応が何だか嬉しくて、懐かしかった。シルリネアが笑う。
「何だよ」
「何でもない。メイランがいるなぁって思って」
「……俺も……」
シルリネアがまた笑う。
「じゃあ、お互い様だね」
彼女は微笑みながら服を着て、自分の様子を確かめた。服はあちこち裂けているが、まだどうにか使えそうだ。針と糸があれば十分繕える範囲だが、あいにく今は持っていない。
「お待たせ」
シルリネアの声と共に、メイランが振り向いた。シルリネアが立って、動いている。それだけのことが、無性に嬉しかった。
それに何だかむず痒いし、少し気恥ずかしい。自分の感情の意味がよくわからないまま、メイランは水袋をシルリネアに渡した。
「それ、少しずつ飲んで。本当はもっと休ませてやりたいんだけど、ここ、水がなくてさ。夜明けまでに水場まで移動するけど、いける?」
「多分……道わかるの?」
シルリネアは一旦座り、水を一口飲んだ。喉の乾きが取れてスッキリする。
もう少し飲みたいが、今は我慢した。砂漠に入る前にメイランが、水は少量を小刻みに飲んだ方がいいと言っていたのを思い出す。
「もちろん。ここからなら余裕」
メイランの笑顔が、シルリネアには少し無理をしているように見えた。
ふと思い至り、尋ねてみる。
「……ねえ、ここはどこなの?」
その言葉で、メイランの笑顔にヒビが入った。困り果てて何度も言い淀んだ末に、ようやく答えが返ってくる。
「……ルハサーン寺院」
「やっぱり」
シルリネアは勢いよく立ち上がり、メイランの腕を掴んで大股で歩き始めた。
メイランはシルリネアの唐突な行動に戸惑う。
「え、ちょっと、何……」
「ここは嫌なんでしょ、どっち行けばいいの?」
「どうしてそれを…………じゃなくて…………案内する」
メイランは気を取り直して、シルリネアの前に立った。
どうも、頭の上がらない女性が増えた気がしてならない。
だがメイランは、案外それが気に入っていた。
青嵐の母御と、ファラン姐。そして——。
******
ふたりの立ち去ったルハサーン寺院近くにあった、泉の跡地。
この泉は、もう15年以上前に干上がってしまい、それ以来水が湧くことはなかった。
しかし今、打ち捨てられた砂底が、うっすらと湿りはじめている。
そのことを知る者は、まだ誰もいない。
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ルハサーン寺院から離れて、メイランはやっと呼吸ができるようになった気がした。
落ち着いたことで、左手首に巻いたままだったリボンのことを思い出す。
「これ、返すよ」
リボンを手首から外して、シルリネアの手に戻した。
「ありがとう。……よかった、返ってきて」
シルリネアが穏やかに、しかし嬉しそうに微笑む。
「俺も返せてよかった。そのリボン、だいぶくたびれちまったな。今度また、いいやつを探しに行こう」
メイランの言葉に、シルリネアは苦笑した。彼はすぐに、何かを贈りたがる。
髪を手櫛でひとつにまとめ、返ってきたばかりのリボンで結んだ。
「私、このリボン気に入ってるから。当分これがいいんだけど」
「……そう?」
「そう。とてもいい色だから」
「……そっか」
気に入ってくれていて安心したような、新しいものを贈れなくて残念なような。メイランは曖昧に笑った。
歩きながら、シルリネアはあの時に起きたことを語る。
「メイランが寝てた時に、あの犬が来たの。それで、メイランと話したいからいなくなれって言われて」
それで瞑想室送りか。ふざけやがって。メイランは、思いつく限りの罵倒語を頭の中で並べ立て、やや穏当な形に直して口にした。
「やっぱ殺しておけば良かった」
次は様子見などせず、一息にやろうと心に誓う。カルブが異質であるという思いも、より強くなった。
ザフィルの、弟の記憶を持っていても、それを「ザフィルと同じように」使っていない気がする。
少なくとも弟は、あの瞑想室に誰かを送り込むなんて、考えもしないに決まっている。
それともこの気持ちは、そうあってほしいというただの期待だろうか。
メイランには、よくわからなかった。
シルリネアはメイランの怒り方を見て、今は彼の感情に触れないことにした。相当根深い問題だと思える。もっと時間を取って、安全な場所でゆっくり聞きたい。
だから、自分の話を続けた。
「……それで、真っ暗な部屋に閉じ込められて。扉は重くて開けられなかったんだけど、しばらくしたら勝手に開いて……あれ、なんだったんだろう」
ザフィルだ。メイランはそう思った。根拠はない。カルブがそんなことを言っていた気もしたが、あいつの話は考えるに値しない。
あの暗闇の恐怖を舐め尽くした者が、同じ場所に誰かを置き去りにするなんて、到底思えない。それだけに過ぎない。
だが、この話をするのは難しい。
「さぁ……わかんねぇけど、俺じゃないってことだけは言えるぜ。きっとシルリネアは運がいいんだな」
メイランは、冗談めかして言うに留めた。嘘ではないと、自分に言い聞かせつつ。
その言い方に、シルリネアは思わず笑ってしまった。
「……でね、閉じ込められてた時は、何もやれることがなかったから、歌を作ったの。つまらなすぎて傑作だから、聞いてくれる?」
「……え?」
歌? メイランには意味がわからなかった。あの恐怖の中で、歌を歌えるのか?
メイランの困惑をよそに、シルリネアは歌いはじめた。高く澄んだ声が夜の砂漠を渡り、空に消えていく。
メイランは、綺麗な歌声だと思った。だが声に聞き惚れかけた途端に、歌詞が訳のわからない方向に転がりだした。話に脈絡がない。
竜と対峙した英雄が、なぜか宮廷で貴婦人に求愛している。竜はどうしたんだと面食らうメイランを置き去りに、村の子供が兎の穴を探しはじめた。穴の中には船乗りたちがいて荒々しい歌を歌い、突如酒場の娘が恋をした。恋の相手が紹介されないまま、歌は続いていく。
意味がわからない。混乱する。しかしふと、今までシルリネアと歩いてきた地域の歌の、寄せ集めだということに気付いた。
「……くっだらねぇ」
笑った。あまりにもくだらない。それでいて愛おしく、同時に彼女の強さが眩しかった。
「でしょ」
「こりゃ酷ぇよ、なんて歌作ってんだ」
メイランは笑いすぎて、涙が出てきた。自慢げなシルリネアの態度も、面白いし可愛らしい。
そうか、そういう方法があったんだ。昔の自分に教えてやりたかった。歌を作ればいいんだと。
ルハサーン寺院への恐怖は消えない。それでも、恐怖の中の小さな部分が、溶けて消えた気がした。




