第27話 砂礫の記憶
砂の海から、カルブが見ている。
ゆったりと満足げに、歌うように囁く。
「来てくれてありがとう、シルリネア。兄様を呼んでくれて、すごく嬉しい」
砂嵐に紛れて、シルリネアに魔法をかけた。
通常であれば、気付かれたかもしれない。しかし砂漠という特殊な環境と、砂嵐という特殊な状況を重ね合わせれば……。
「さあ兄様、昔話の時間だよ」
男児の姿に変じる。
月白色の髪、褪紅色の瞳。痩せ細った体、首には真紅に染まった布製の首飾り。
傷が全身に浮かび上がり、肌をくまなく覆い隠していく。
ボロボロの布を体に巻き付けてから、カルブは風に紛れて姿を消した。
******
「あれは何?」
メイランの視線の先にあるものを指して、シルリネアが尋ねる。
「ルハサーン寺院」
メイランは呆然としたまま、ぽつりと答えた。
明らかに様子がおかしい。
さっきまで、あんなに楽しそうだったのに。
よく見知った場所みたいに、砂漠を歩いていたのに。
心ここに在らずとは、このことだ。
シルリネアの心が異常を訴える。
メイランが、緩慢に首を振った。そうすれば、何かが振り払えると思っているかのように。
「ごめん、シルリネア」
唐突な謝罪に、シルリネアは戸惑った。一体どうしたというのだろう。
メイランの状態を確認するため、できる限り平静に、できるだけ優しく、シルリネアは問いかける。
「どうしたの?」
「俺、あそこはダメなんだ。行けない……」
あそことは、ルハサーン寺院のことだろうか。熱に浮かされたような、ぼんやりした声。
シルリネアは慎重にメイランの手を取り、自分の手で包み込んだ。少しでも温もりが伝わればいいと思って。
「大丈夫よメイラン、行かなくていい」
ゆっくりと声をかけつつ手首に触れ、脈をとった——少し早い。
顔色は真っ青だった。頬にそっと手を滑らせる——熱はない。
熱病ではなさそうだ。怪我もないように思える。
ふとシルリネアは、メイランと出会った日のことを思い出した。
怪我をしたメイランを癒した、その時に「視た」あの光景——。
傷だらけの男の子。
もしかして、ここでの出来事だったのだろうか。
であれば、この豹変ぶりも理解できるような気がした。あんな目にあった場所に、行きたいはずがない。
「行かなくて……いい?」
メイランが独り言のように呟いた。シルリネアがそっと答える。
「そうよ」
「本当に?」
「ええ、本当に」
メイランの様子は、あまりにも痛ましかった。
だからシルリネアは万感を込めて——メイランを抱きしめた。
「もう寝ましょう、メイラン。だって夜だもの、疲れたでしょう?」
シルリネアはメイランを抱きしめながらゆっくり座らせ、横になるよう促す。彼は大人しく従った。
自分の外套を外して、メイランにかけてやった。少し寒いが、凍えるほどでもない。
外套越しにメイランの肩を優しくさすりながら、シルリネアは歌を歌った。
故郷の子守唄を。
幸せな子 眠りなさい
心配しないで あなたには
楽しいことだけ 訪れる
おもちゃも お菓子も
好きなだけ あなたの手の中
同じ歌を何周か歌っているうちに、メイランは眠っていた。
子供のように丸くなって眠るメイランに、もう一度外套をかけなおす。
「たまには守ってあげなきゃね」
シルリネアはそう呟いて、彼の髪をそっとなでた。
******
メイランが目を覚ましたのは、夜明け直前だった。
ぼんやりする。石標を見たあたりからの記憶が曖昧だ。
そのわりに、妙に心が軽かった。
体を起こすと、小さめの外套が肩から滑り落ちた。シルリネアの外套だ。
「あれ……?」
どうしてこんなことになっているのか、よくわからない。
周囲を見回す。
「シルリネア?」
黄金色の髪が見えない。薄荷色の瞳も。途端に不安になり、立ち上がった。
軽かったはずの心が、一気に重くなる。
「シルリネア」
少し語気を強めて、もう一度呼ぶ。
返事がない。
「シルリネア!」
叫んだ。声が虚しく砂に吸い込まれていく。
どうなっている。メイランは混乱の淵に落ち込みそうになる自分を、必死で叱咤した。
落ち着け、焦るな、冷静になれ。
感情に任せて走り出さないよう、砂の上に座った。
ふと、左手に違和感を持った。手首に何かが絡みついている。
見た瞬間、凄まじい悪寒に襲われた。息ができないほどの衝撃が、全身を駆け巡る。
真冬の水に突っ込まれた方が、まだマシだ。
それは、シルリネアに贈ったリボンだった。
「おはよう、兄様」
楽しげな子供の声に、メイランは顔を上げた。
「お前……!」
月白色の髪の、ボロボロの男の子がいた。その哀れな姿とは裏腹に、満面の笑みを浮かべている。
全身傷だらけの姿に、メイランは覚えがあった。この子の傷が手のひらや足の裏、髪の下にまで及んでいることを、知っている。
「どういうつもりだ」
怒りを抑えて、メイランが言った。お前にその姿を取る権利なんてあるのか。俺の大切な存在によく似た、その姿を。
「兄様と、昔話がしたくて」
無邪気に小首を傾げる様子が、いっそ凶々しい。哀れな姿のはずなのに、同情の気持ちが一切わいてこない。
メイランを兄と呼ぶのは青嵐の弟妹と——実の弟。
落ち着け。メイランは必死で自分に言い聞かせる。焦っても、怒っても、事態は改善しない。
「シルリネアが無事に帰ってきたら、考えてやる……ザフィル」
それは腹の底から絞るような、唸りに近い声だった。
ザフィルと呼んだのは、ただの当て推量だ。外れているだろうと思う。それでも目の前の存在が、ザフィルに近い何かだという確信はあった。
メイランの内心を無視して、目の前の男の子が微笑む。
「ボクはカルブ。ザフィルはボクの主様の名前。ああでも、兄様にはボクの姿の方が、馴染み深いのかな」
カルブがニコニコと笑う。記憶の中に住む弟とよく似た、傷だらけの姿で。
「ザフィルじゃねぇなら、おめぇとする昔話なんてねぇよ」
メイランが吐き捨てるように言うと、カルブは笑った。
「そんなこと言わないで兄様。ボクね、昔は主様の一部だったんだから。主様の魔力の欠片から生まれたんだ。だから、主様の一部だった頃の、主様の記憶は持ってる……だいたい12、3歳ぐらいまでかな。主様が自分の年齢を知らないから、ボクの推測だけど」
メイランは愕然とした。何を言えばいいのか、まるでわからない。
カルブはニコリと微笑んだ。
「だから、ね、昔話しようよ、兄様——」
******
シルリネアは、暗くて狭い場所にいた。
光が差さないので、ここがどこなのかよくわからない。
ひんやりした石壁が手に触れる。肌寒さを感じて、小さくぶるりと震えた。
石壁を伝っていくと、錆びついた鉄扉のような感触にあたった。探っていくと、取っ手らしきものが手に触れた。押し引きしてみたが、まったく動かない。
錆びて開かないのか、施錠されているのか、別の理由があるのか、わからない。
力いっぱい取っ手を揺さぶっても、びくともしなかった。
やむなく扉を一旦無視して、石壁をさらに辿っていくと、どうやら元の場所に戻ったようだ。目印にと思って置いておいたブーツが、足先にあたる。
天井に手は届かない。足元はざらざらに乾き、踏み固められた剥き出しの土。
石壁に囲まれた小さな部屋。鉄扉がついている。明かりはなく、天井は低くない。
そこまでわかったので、一旦考えることにした。
「メイランなら、こういう時にどうするんだろう……」
声に出して呟いてみる。
「とりあえず寝るのかな」
クスリと笑いが込み上げてきた。やれることがないと、彼はすぐに眠ってしまう。
反面、やることがあると判断すると、倒れるまで動くのが欠点だと思う。
「両極端すぎない?」
笑うと、少し心が軽くなる。メイランがよく笑うのは、これが理由かもしれないと、ふと思った。
「メイランは大丈夫かな……」
彼と引き離される直前のことを、思い描いた。
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抜けるように透明な、砂漠の夜空。
シルリネアが眠るメイランを見守っていたら、突然あの子犬がきた。
「ねぇシルリネア、ちょっとだけ、彼と話をさせて」
あいつは、いきなりそんなことを言った。
あの子犬の姿を見ると、反射的に怒りがこみあげてくる。でも今は、メイランの眠りを妨げたくない。
叫びたくなる気持ちを必死に抑えて声を出すと、低い声が喉から漏れた。
「私がここを離れるなんて、本気で思ってるの?」
メイランの手にそっと触れた。そうすると、彼の力を貸してもらえるような気がした。
「やっぱりだめ?」
「当たり前でしょ」
「そっかぁ……」
子犬の姿が、ゆらりと震えた。
「じゃあちょっとだけ、あっちいってて。大丈夫、すぐに迎えがくるよ」
シルリネアの視界が歪んだ。直感で、この場から切り離されると思った。
もしかしたらこの力が、私を故郷からヴァルグリムに運んだのかもしれない。
そんな考えが、シルリネアの頭をよぎる。だが、深く考える余裕はなかった。
メイランと離れたくない。咄嗟に頭のリボンをほどいて、彼の手首に絡めた。ここに自分は確かにいたのだと、不本意に離れたのだと、彼に伝えたかった。
そうしてシルリネアは、砂漠の外に放り出された。




