第2話 そこには優しい人がいた
頭が重い。
苦しい。
心も身体もつらい。
絶望の濁流で、シルリネアはもがく。
自分がどこにいるのか、どこに向かおうとしているのかもわからないまま。
かすかに見えた光明に、手を伸ばした。
目を覚ますと、薄汚れてすすけた天井が真っ先に目に入った。
「あ、起きた」
男性の声が聞こえた。明るくて温かい声だ。
声に惹かれて目を向けると、胡桃色の髪が見えた。大雑把に短く切られている。伸びて邪魔になったら切る。そんな事情が透けて見えるようだ。
続いて、褐色の瞳が飛び込んできた。快活で親しげ、人懐っこそうな印象を受ける。
彼の年齢は20代半ばぐらいだろうか。見たことのない顔。誰だろう。
シルリネアが重い身体を起こすと、胸から毛布が滑り落ちた。どうやらベッドに寝かされ、毛布をかけられていたようだ。
彼はニコリと嬉しそうに微笑み、水差しの水をカップに注いでシルリネアに手渡す。
「体調はどう? あんた、街道で倒れてたんだよ」
混乱を持て余しながら、シルリネアはカップを受け取った。一口飲むと、冷たい水が喉を駆け抜けた。不快感が少し和らいだ気がする。
「私……ここは……」
シルリネアは何があったかを思い出そうとし——。
彼女の薄荷色の瞳が、急激に力を帯びた。
「あいつ、あいつはどこ! 月白色の髪の、不気味な魔法使い! 喋る子犬を連れた、あいつ!」
目の前の青年に向けて叫んだ。カップの中の水が揺れ、シルリネアの袖を濡らす。
青年はかすかに目を見開いたが、すぐ穏やかに微笑んだ。
「落ち着けよ。そんな奴はどこにもいない。俺も魔法使いじゃないし」
最後の言葉は、冗談めかした口調だった。青年の落ち着いた態度に触れて、シルリネアの心も徐々に凪いでいく。
確かに彼は、あいつみたいに不気味じゃない。髪の色も瞳の色も、年の頃も、全然違う。
シルリネアは、改めてまわりを見回してみた。椅子とベッドと小机があるきりの、小さな部屋だった。ベッドはシルリネアが使っており、椅子には青年が座っている。部屋の隅には荷袋がいくつか置かれ、剣が立てかけてあった。
自分自身は、いつも通りの着慣れた服を着ている。見慣れた黄金色の髪が、肩を越えてもつれ、ひどく絡まっている。カップの中には、疲れた様子の自分の顔が、歪んで映っていた。
青年がもう一度微笑む。
「ここはヴァルグリムの宿。俺はメイラン。あんた、街道で倒れてたんだよ。な、あんたの名前は?」
彼の笑顔につられるように、シルリネアは口を開いた。
「私は、シルリネア……。ヴァルグリムって……?」
「よし、シルリネアだな、よろしく。で、ヴァルグリム知らないの? この辺で一番大きな港町なんだけど」
メイランが不思議そうに首を傾げる。そんなに有名なところなのだろうか。シルリネアには、よくわからない。
「……聞いたことが……」
ない、と言いかけて、シルリネアは言葉を止めた。
いや、聞いたことがある。どこかで……。
そうだ。エルッキ隊長だ。
村で聞いた。とっておきの服を着て、花の髪飾りをつけた、恋するイルマと一緒に。
古ぼけた地図を見ながら、エルッキ隊長が喋っていた。嘘か本当かわからない話だと思っていた。
でも……。
シルリネアは記憶を探る。
「……中央大陸?」
シルリネアの声に、メイランが目を丸くした。
「そうそう。中央大陸の北端、ヴァルグリム。あ、もしかして、別の大陸か島の出身とか?」
「私は、北大陸の村にいたはずで……」
「……ん?」
メイランが怪訝な顔で眉をひそめる。
「え、どうやって来たんだ? 船しかない……よな? でも船が北大陸から来たなんて話は、全然……」
「船に乗った記憶なんて、ない」
「えぇ……」
メイランもシルリネアも、呆然とするしかなかった。
どうやって、ここまで辿り着いたのだろう。
村で気を失ってから、何があったのだろう。
訳がわからない。
******
「整理しよう」
メイランが額に手を当てながら言った。
「あんたの名前はシルリネア。北大陸のどこかの村にいた。これで合ってる?」
シルリネアが頷く。
「ここはヴァルグリム。中央大陸最北端。で、シルリネアは船に乗った記憶がない。これも合ってる?」
「……合ってる」
「まーじーかぁ」
メイランが盛大にため息をついた。シルリネアも困り果て、どうしていいのかわからない。
ひとまず、知っていることを口に出してみた。
「北大陸からヴァルグリムに行くには、何日も船に乗らないといけないって、聞いたけど……」
「俺もそう聞いてる。海が荒れてて、船なんてめったに来ないってことも、知ってる」
メイランが頭をかく。
「まいったなぁ。送ってこうと思ってたんだけど……北大陸はさすがに無理だ」
記憶が途切れているのだろうか。シルリネアは考える。あの子犬に変な魔法をかけられて、意識を失って、誰かに船に乗せられて。
その間ずっと、目を覚さなかったのだろうか。
何日も。あるいは何か月も?
ひとりで考え込んでいると、メイランが声をかけてきた。
「うーん……とりあえず、港にでも行ってみるか? 北大陸からヴァルグリムに来るには、船しかないのは間違いないし。何か思い出せたりするかも」
港の記憶すらないので、思い出せる可能性は低いような気がする。
だがメイランの好意を断るのは気が引けたし、他に手がかりもない。
だから、シルリネアは頷いた。
「……うん。行ってみたい。案内してくれる?」
メイランが笑う。温かく、優しい瞳で。
「もちろん、喜んで」
******
シルリネアとメイランのいる宿から、一区画離れた路地裏。
薄汚れた月白色の毛並みをした子犬が、じっとうずくまっていた。
「出会ったね、よかったね。本当に主様を殺してくれるのかな。兄様を連れてきてくれるかな。ボク、知ってるよ。主様、本当は兄様に会いたいんだって……」
囁くように小さく、歌うように軽やかに、子犬がクスクス笑う。
「主様の前で殺してやるなんて言えるんだから、きっと大丈夫だね」
子犬はそう呟くと、煙のように消え失せた。
ボーイミーツガールでガールミーツボーイです




