第16話 薄荷色
夜の海は暗すぎて、引き込まれそうだ。
だからあまり水面を見てはいけないと、船乗りたちは言う。
しかしメイランは、気にするそぶりも見せずに、水面を松明で照らした。
海の魔物が出るかもしれないので、警戒は欠かせない。定期的に見回って海を確認するのは、彼の仕事でもあった。
船員たちも、ごく少数の人員を残して眠っていた。
甲板下から、いびき混じりの寝息が聞こえてくる。
月と星が明るく輝く、穏やかな良い夜だった。
甲板に置かれた荷物の隙間で、カルブはひっそりと身を潜めていた。
子犬の姿は、狭い場所にうってつけだ。星のまたたきよりも小さな声で、カルブは笑う。子守唄を歌うように。
「兄様は、シルリネアが好きなのかな。シルリネアも、兄様が好きなのかな。すごくいいね。楽しみだね」
目を閉じて、波の揺れに身を委ねるように伏せる。
「きっとシルリネアが、兄様を主様のところまで、連れてきてくれるね。そうしたら、兄様が、主様のことを殺してくれるかも」
「——楽しみだなあ」
カルブはそう言ったきり、霧のように姿を消した。
月白色の子犬がいたことを知る者は、誰もいない。
メイランでさえ、気付かなかった。
******
ヴェンツェルは、アステリア王国の宮殿跡に立っている。かつて魔法王国として名を馳せていた、栄光の残骸がここにある。
7年の間に、宮殿は荒廃しきっていた。手入れの行き届いていた庭は雑草に覆われ、鮮やかだった絨毯やタペストリーは、風雨に晒され朽ちかけている。
それでもヴェンツェルは、記憶を頼りに宮廷魔術師の書庫を見つけだした。
「あった」
書庫の扉は記憶と変わらず、固く閉じられていた。魔法の施錠がそのまま残っている。
であれば、この中には古今東西の魔導書が眠っているはずだ。
ヴェンツェルが、施錠を解くための手順を踏もうとすると。
「なにもないよ」
背後から無機質な声が聞こえた。この声には聞き覚えがある。
ザフィルだ。
ヴェンツェルは慌てて振り返る。
そこには記憶の中の姿と、ほとんど変わらない少年がいた。
7年も経過しているのに。
10代半ばほどの見た目、月白色の髪、褪紅色の瞳、仕立ての良い服装——。
魔法で外見を偽っているのか? ヴェンツェルは魔法使いの常識として、そう考えた。
しかし。
魔法の気配がない。
ヴェンツェルは混乱した。
知らない系統の魔法によるものだろうか。それとも本当に……肉体年齢が変化していないのか?
その異様さに生唾を飲み込みながら、ヴェンツェルはザフィルと対峙した。
「どういうことだ?」
「全部、僕が回収した。だから、そこには何もない」
ザフィルの声は、記憶にあるよりもさらに、感情を感じさせなくなっていた。
過去の彼も感情の起伏は少なかったが、それでも今より心の揺らぎを感じた。
ゾッとする。
「……何がほしいの」
ザフィルが虚ろな瞳でヴェンツェルに問う。
ヴェンツェルは、ザフィルから漏れ出る圧倒的な魔力に気圧されつつあった。
少し前に会った娘、シルリネアもこんな気持ちだったのだろうか。薄荷色のまっすぐな瞳が、ヴェンツェルの背中を押す。必死で声を絞り出した。
「お前を殺す方法、お前の魔法を無効化する方法だ……!」
「……そう。神にでも頼ったらどう」
ザフィルはそう言うと、ゆらりと空間に溶け込むように姿を消した。
魔法であるはずなのに、詠唱もなく、指の一本さえ動かさなかった。7年前と同様に。
ザフィルが消えた直後、ヴェンツェルは思わず膝をついた。ゼェゼェとあえぐように、肩で呼吸をする。
あまりにも異質すぎた。対峙するだけで、こんなに気力と体力を持っていかれるなんて。
——こんなことでは、奴を殺すなど夢のまた夢じゃないか。
どうすればいいのか、皆目見当がつかない。
しかし、諦めるという選択肢はなかった。
******
シルリネアは、幸せな気持ちで目を覚ました。
夢の内容は覚えていない。それでも、踊りたくなるぐらい愉快だ。
すぐ横で、夜番から戻ってきたメイランが眠っていた。彼の眠りを妨げないよう気をつけながら起き上がり、そっと身支度を整える。
昨晩受け取ったリボンを朝日にかざしてみると、爽やかな薄荷色だった。縁は鮮やかな黄色の糸で、細かく技巧的に彩られている。
私の瞳と髪の色だ。シルリネアはすぐに気付いた。嬉しさが込み上げてくる。はしゃぎたい気持ちを抑えて櫛で髪を梳き、三つ編みにしてからひとつにまとめて、最後にリボンで飾った。
続いて、小さな鼻歌混じりで薬草の中から数種類を取り出した。程よい大きさに整えて小袋に入れ、薫衣草の茎を数本撚って袋の口を縛った。
できあがった香袋を眠るメイランの鼻先に置き、シルリネアは足取り軽く甲板にあがる。
安眠を誘う香りが、優しい人の助けになることを願いつつ。
メイランが目覚めた時、シルリネアの姿はなかった。
代わりに、顔の近くに良い香りのする袋が置かれている。
船倉に差し込む日差しの強さから、昼頃だろうとあたりをつけた。香袋をポケットに押し込んで、甲板に出る。
「あ、おはようメイラン」
甲板の隅の邪魔にならないあたりで、シルリネアが繕いものをしていた。船員たちに手伝えることを聞いて回ったのか、彼女の足元にある籠には、数枚の衣類が押し込まれている。
だがそれよりもメイランの目を引いたのは、当然、シルリネアの髪を彩るリボンだった。黄金色の髪のところどころから顔を出す薄荷色は、彼女の髪をより引き立てているように思える。
「はよ。やっぱ似合うな、良かった」
メイランは、シルリネアの髪から飛び出したリボンの端を指で弾いた。シルリネアの顔が嬉しそうにほころぶ。
「素敵なリボンをありがとう。すごく綺麗だし、長さもちょうどいいし。使いやすいの」
メイランもつられて笑う。
「こっちこそ。香袋、シルリネアだろ? おかげでよく眠れたよ」
ポケットの香袋を出してみると、乱暴に押し込みすぎたのか、ぐしゃぐしゃになっていた。それを見て、シルリネアが声をあげて笑う。
「もう一度作ってあげる。よく眠れる薬草を集めて作ったけど、今度は、いざという時にも使えるようにする。袋を開ければ止血とか、ちょっとした痛み止めなんかができるようなやつ」
「よろしく」
メイランは苦笑してから、シルリネアのやっていることを眺めた。休みなく動く指先が、手品か魔法のように見える。メイランも簡単な裁縫はできるが、ここまで上手ではない。
「なに? メイランも何か繕いたいものがあるなら、一緒にやるけど」
「……いや、特にないかな。仕事してくる」
メイランはシルリネアに背を向けて、船員たちの方に向かっていった。今は非番の時間だが、手伝うと言えばいくらでも仕事はあるはずだ。
自分のできることは昨日一通り伝えているので、相応の仕事を回してくれるだろう。
シルリネアの笑顔と薄荷色のリボンを見ていると、なんだか落ち着かない。
今はちょっと離れた方がよさそうだ。




