第13話 歯車は回る
「あれで良かったのか」
来客が去った後、ゲルハルトがヴェンツェルに問いかけた。
会談中、ゲルハルトは扉近くに位置を占め、会話の内容以上に全体の動きを見ていた。
ゲルハルトの目で見ると、やはりメイランという男は油断ならない。
後ろ手を組んで敵意のなさを示しつつ、足はいつでも動けるよう備えていた。
剣は即座に抜けずとも、体はいつでも動かせる。どんなことがあろうとも、自分の身を守る、あるいはシルリネアの身を守るための姿勢だと思えた。
シルリネアは、純朴な村娘の空気を残している。強い意志力はあるにせよ、ただそれだけの存在に見えた。メイランほどの手練が、なぜ彼女と旅を共にしているのか、理解に苦しむ。
だが逆に考えれば、メイランを切り離せば、シルリネアを懐柔するのは容易なはずだ。村娘相手に、こちらに都合の良い話を教え込むのは、いかにも簡単そうに思える。
ヴェンツェルは、シルリネアを欲しがっているように見えた。であれば、メイランとの離反工作をしても良かったのではないか。
しかし、ヴェンツェルはゆっくりと首を横に振った。
「あれで良かったのです。まずは信頼を得ること。そこから始めねば、何も成せません」
策に溺れ、ごく若いザフィルを容易に手懐けられると思った。それこそが、祖国の大きな過ちだった。ヴェンツェルはそう思っている。
祖国はザフィルに対して傲慢だった。それは認める。しかし、罪なき民まで巻き添えにして、すべてを滅ぼされてなお、ザフィルを許せるものではない。
自分が生き残った理由は未だ不明瞭だ。しかし生き残ったのであれば、成せることを成すしかない。
「小を数多集め、大を滅ぼそうとしているのです。小の中で下手な工作をして、不和の種を蒔く必要はないでしょう」
とはいえ、まだ道筋は立っていない。魔導書の蒐集を進め、あの恐るべき破壊の魔法の対抗策を見出さねばならない。
「……近く、祖国に行きます。魔導書が、残っているかもしれませんので」
ヴェンツェルが告げた。ゲルハルトは片眉をあげ、目の前の宮廷魔術師を見る。
「栄光ある宮廷魔術師が墓場泥棒、か……」
事情はわかるが、あまり褒められたものではない。ゲルハルトは言外にそう言っている。
ヴェンツェルは、神妙に頷いた。
「そうですね。でも、必要であればやります」
綺麗事にこだわって対抗できる相手ではない。それはわかりきっている。
強い意志の力を帯びたヴェンツェルの目を見て、ゲルハルトは唸るように嘆息した。
「この腕では、護衛すらままならぬ」
本来であれば、ヴェンツェルと共に行くべきだ。彼ほど優秀な若者の護衛を務められるなら、これに勝る栄誉はないとさえ思える。
だが利き腕を失い、若さも失った今となっては、もう……。
ヴェンツェルは穏やかに微笑んだ。
「ゲルハルト卿がいらっしゃるから、後ろを任せて出かけられるのです。あなたは、ただの騎士ではないでしょう。宮廷の権謀術数を生き抜いた猛者でもあられる。だからどうか、そのお力で、私の背中を守っていただけませんか」
ゲルハルトの褪せた黄褐色の瞳が、見開かれた。
この若者は、大いなる指導者の器かもしれない。
******
不気味な月白色の男児が消えた、裏路地の一角。
メイランは、民家の外階段に座り込んでいた。傍らでは、シルリネアが心配そうに様子を見ている。
メイランの表情はあまり優れない。先ほど嘔吐した影響だ。
「大丈夫? あいつの邪気にあてられちゃった?」
「……かもなぁ」
嘘だ。メイランは理解していた。邪気にあてられたのではない。
何もかも話すべきだ。
すべて話して、彼女の判断を尊重するのが正しい行動だ。
今すぐにでも、そうすべきだ。わかっている。
わかっているのに——話したくない。
シルリネアは、都合の良い勘違いをしてくれている。自分は、その僥倖にしがみついている。
ただの先延ばしだ。先延ばしにしていいことなど、ほとんどない。
それでも——今は、まだ——。
「……ちょっと待ってて」
メイランの目線に合わせてしゃがみ、周囲を見回していたシルリネアが腰を上げる。
メイランが止める間もなく、軽快な足取りで近くの民家らしき家の扉を叩いた。
「こんにちは。お湯の入れられる器を貸していただけませんか? あと、お湯も。お代はこれぐらいでいかがですか?」
出てきた年嵩の女性相手に、銅貨を出して交渉している。
少しするとシルリネアは、お湯の入った木杯を手に戻ってきた。木杯は使い古され、あちこちが欠けており、捨てる寸前のものと見受けられる。
シルリネアは木杯を地面に置き、腰に下げたポーチを開いた。乾燥させた薬草を数枚選んで木杯に差し入れ、しばらく待つ。
「スッキリすると思うから、ゆっくり飲んで」
そう言いながら、シルリネアは薬草を木杯から取り出して、メイランに差し出した。
「えぇ……」
メイランは躊躇した。薬は嫌いだ。このまま体調が良くなるまで、じっと待っていた方がマシだ。
それなのに、シルリネアの真摯な顔を見ると、断るのが難しい。彼女からは、完全な善意しか読み取れなかった。
覚悟を決めて受け取り、思い切って一口飲むと、爽やかな草の香りがした。わずかな苦みも感じるが、不快ではない。むしろ爽やかさを強調する働きをしている。
喉を通って胃に流れ落ちた途端に、さらなる爽快感が胃を包みこんだ。
「うまっ……なに、これ」
初めての不思議な感覚に戸惑いながら、メイランが尋ねる。
メイランの顔色が少し良くなったのを見て、シルリネアは微笑んだ。
「効いてるみたいでよかった。これは簡単な胃薬。気休めだけど、少しは楽になった?」
「少しどころか。もう普通に歩けそうだ」
「じゃあ、少し歩いてみる? その木杯はくれるって言ってたから、飲みながら帰ってみるのはどう? 宿に戻ったら、ちゃんとした薬湯を作ってあげるから」
メイランは立ち上がった。本当に不思議だ。さっきまで話をするのさえ億劫だったのに、今は立って歩けそうだし、会話も苦ではなくなった。
「……あのさ」
気恥ずかしさを感じながら、メイランがシルリネアに声をかけた。なんだか顔が熱い気がする。
「なに?」
「ちゃんとした薬湯って、これよりうまいの?」
薄荷色の瞳が大きく見開かれ、次の瞬間。
「あはははは!」
シルリネアが大きく笑った。
「大丈夫よ。私、美味しくないものは作らない主義なの」
「……そりゃあ安心だ」
メイランが苦笑し、シルリネアはもう一度笑った。
「ただでさえ辛い思いをしてる人を、これ以上苦しめるなんてできないから。安心して」
木杯の残りを飲み干して、メイランは歩きはじめた。手の内で、ボロボロの木杯を大切そうに転がしながら。
******
人里離れた山の中。
「メイ、ラン……」
ザフィルが呟く。彼は子犬の送ってきた情報を読み取っていた。
子犬はこの場にいない。しかしザフィルは、いつでも望む時に、子犬の持つ情報を読むことができた。
そうか、今の名前は、メイランなのか。あの人の、名前は……。
曖昧な意識の中に、メイランという名の光明が差す。
「カルブ」
虚空に向けて子犬の名を呼ぶと、即座に反応が返ってきた。
「メイランの情報。すべて」
カルブと呼ばれた子犬は、大喜びで受託の返事をする。
ザフィルはもはや用済みとばかりに、もっと喋りたそうなカルブとの通信を、一方的に遮断した。
静寂が戻る。
何もない。何にも煩わされない。
ずっとこの静寂が続けばいいのに。
望みに反して、魔素が歪んだ。
魔物どもが、歪みに引き寄せられてくる。不快な感覚だ。何もかも破壊し尽くし、滅ぼし尽くしてしまいたい衝動に駆られる。
「……お前たちは、あとどれだけ殺せば滅びる?」
ザフィルは言った。一片の感情さえ乗せない声で。
ザフィルの魔法が解き放たれた後には、何も残らなかった。




