第113話 ひとつずつ
夜明け頃、シルリネアは目を覚ました。
体がだいぶ楽になっている。傍らに寄り添い続ける星集めの剣のおかげだ。
つまり、ザフィルは今もなお、魔法を送り続けているということになる。
律儀だ。シルリネアは苦笑し、ベッドから身を起こすと。
足元の床で、メイランが眠っていた。
こっちも律儀だ。
本当に、シルリネアの要求を全部叶えるつもりなのかもしれない。
愛おしさにシルリネアは微笑み、メイランを踏まないよう気をつけながら、そっと足を降ろす。
かがみ込んで、頬に接吻をした。メイランは起きる気配を見せない。
シルリネアはクスリと笑い、今度は彼の唇に接吻してみた。柔らかくて、少しガサついている。
こういう感触だったんだ。味わうように唇をさらに押し付け——。
突然、自分のやっていることが、とてつもなく恥ずかしくなった。
慌てて唇を離した瞬間。
メイランの腕がシルリネアの背中に優しく回され、褐色の瞳が開かれた。唇が曖昧に、驚きと微笑みの中間の形を取る。
「幸せな夢かもしれねぇし、もう一回、いい?」
寝起きの少しかすれた声が、妙に魅惑的だ。
シルリネアは、顔を真っ赤にして頷いた。
メイランは顔をほころばせた。シルリネアの姿勢を支えながら、自分の方へ寄せていく。
黄金色の髪が豊かに垂れ下がり、ふたりの顔を覆い隠した。
******
シルリネアは、ゆっくりと朝食を作る。
粥を煮て塩漬け魚で味をつけ、最後に香草を多めにひとつまみ。
魚の味と塩気には、爽やかでほのかに甘い香りがよく合う。後に残るかすかな苦味も心地良い。
一口味見をして満足げに頷き、メイランとザフィルを呼ぶために、窓から身を乗り出した。
「ねえ、ご飯食べない?」
声を張って呼ぶと、頭を突き合わせ、地面に何やら書きつつ話し合っていたふたりが、同時に振り返った。
胡桃色の髪と淡い胡桃色の髪が、揃って踊る。
ああ、やっぱり似ている。
ザフィルの髪が月白色ではなくなった途端、急にふたりがよく似て見えるようになった。
シルリネアを見てメイランは笑顔になり、ザフィルは無表情に立ち尽くしている。
「すぐ行く!」
メイランは持っていた木の枝を放り投げ、シルリネアに駆け寄った。
彼は窓越しにシルリネアの頬をなでてから、入口に回り込む。
ザフィルはふたりの様子を見守ってから、ゆっくりと足を向けた。
「香りが強い」
粥を盛った皿に鼻を近付けて、ザフィルが呟く。
「強すぎる?」
シルリネアの問いかけに、首を横に振った。
「悪くないと思う」
「良かった。味はわからないけど香りはわかるって言ってたから、香りを強めにね」
微笑むシルリネアに、ザフィルは首を傾げる。
「なぜ?」
「どうせ食べるなら、楽しい方がいいでしょ」
「そう?」
「当然。それに私も、楽しく食べてもらった方が嬉しいから」
なぜか自信満々のシルリネアを見て、ザフィルは少し考えを巡らせ。
「……覚えておく」
とだけ告げた。
「よろしく」
シルリネアは満足そうに微笑み、ザフィルは無言で食事を続ける。
メイランは、ふたりの様子を笑顔で見守った。
食事を終えると、シルリネアは外に出た。
昨晩言った通り、村の様子を見るために。
傍らには、もちろんメイランがいる。
ザフィルは用事があると言って、どこかに行ってしまった。
「用があれば呼んで」
星集めの剣に今も律儀に貼り付いている、水滴状の魔法生物を示してから。
村の中心部だったあたりを、シルリネアは歩く。
「何もない……」
想像の範囲内ではあった。あの虚無の力の前に、何かが残っているはずがない。
シルリネアの家は村外れにあったから、運よく免れただけだろう。
かつて柱が立っていたであろう穴も、下草で覆われつつある。
あと数年もすれば、どこに何があったかなんて、誰にもわからなくなりそうだ。
「このあたりにね、仲の良い子の家があった。イルマっていうの」
シルリネアは両腕をいっぱいに広げ、かつて家のあった場所を示す。
「ここに畑があって、彼女は農作業のついでに花を育てていて。いつもそれを髪飾りにしていた」
「こっちが、エルッキ隊長の家。前に言った、護身術の先生。イルマはこの人が大好きで、私も彼女の恋を応援していて……」
そっと微笑む。
「エルッキ隊長は押しに弱いから、もうちょっと押せば、イルマの恋も叶ったと思うんだけど……間に合わなかったな」
「猟師のヘイノの家は、このあたり。彼は小刀の鞘の飾り彫りが、すごく上手だった」
シルリネアは次々に、村人たちの家を紹介する。
誰かに覚えていてほしい。ここに暮らす人がいたことを。
シルリネアは、そう言っているように見える。
切なる願いが、メイランの心を締め付けた。
この悲劇を生んだのが、ザフィルだということも、また。
「私をお嫁さんにするって言っていた、小さなトンミの家はここ。泣き虫の甘えっ子だった」
憎い相手に、シルリネアは粥を出し、彼の好みそうな香りを用意した。
家を作ろうとも言っている。
傷を癒し、触媒から解放した。
どうすれば、こんなに優しくなれるのか。
メイランにはわからなかった。
ただ、想像を絶する葛藤があったはずだということ以外は。
シルリネアは、自分のことを語らない。
その代わりに、今の自分がすべてだと、全身が語る。
「それでね、ここが……バーバ・ロゥの家。私の薬草の師匠で、私を主に育ててくれた人で……神の娘にならないかって、誘った人」
シルリネアが、ため息をついた。
メイランは、彼女をそっと抱き寄せる。
「みんな、いない……でも、メイランがいる」
シルリネアは微笑み、メイランを見上げる。メイランも微笑みを返した。
「もちろん。俺はいなくならないから、安心して」
「私も。絶対離さないんだから、覚悟して」
メイランは笑い、シルリネアをぎゅっと抱きしめた。
「おっかねぇ。最高」
シルリネアも彼に抱きつき、声を出して笑った。
******
影嵐は、昼過ぎにふらりとやってきた。
「ザフィルはどこにいる」
「用事があるって言って、どっか行ったけど」
メイランが答えると、影嵐は舌打ちをした。
「あの野郎」
苦笑するメイランの横で、シルリネアも苦笑した。
「呼びますよ、ザフィルを」
シルリネアが魔法生物を何度かつつくと、声が聞こえてきた。
「なに」
「影嵐さんが来てる。戻ってきて」
「わかった」
その瞬間、空間から滲み出るようにザフィルが現れた。
転移の魔法で戻ってきたのだろう。衣服が少し煤けている。
「何してたの?」
シルリネアの問いかけに、ザフィルは服を整えながら言う。
「メイランの移動手段の確保と、魔族を数匹殺してきた」
「魔族って、お前」
気色ばんだメイランの声に、ザフィルは首を横に振った。
「あいつほどの強さじゃないし、もう魂まで消してやったから。力を借りるには及ばない」
言ってから、視線を影嵐に向ける。
「用ってなに」
シルリネアは、全員を自分の家に招待した。
4人も入ると手狭だが、屋根のある場所はここしかない。
それに、お茶でも飲んでゆっくりしてもらいたかった。
「ザフィル、お前の力を借りたい」
影嵐は、真っ先にそう言った。ザフィルは先を促すように首を傾げる。
「アザルファの館の地底湖。あそこに沈む骨を回収する。どうやって行けばいい?」
そうか。シルリネアは得心した。
アザルファの館には、転移で移動した。だから、道順がわからない。
「いいけど……骨? どうして」
ザフィルが問いかける。影嵐は足を組んで座り直した。
「あの地底湖に子供らが捨てられてたのは、知ってるのか?」
「知らない」
切り捨てるような物言いに、影嵐は苛立ち気味に嘆息した。
「お前よりも前に、あのクソ野郎に『飼われてた』奴らだ。あそこで、死にきれず漂っている。そいつらに借りがあってな、遺骨を回収して、好きなところに葬ってやるって約束した」
「へぇ……」
「場所さえわかりゃあ、後はこっちでどうにかする」
「昨日の石、貸して。転移門であそこに移動できるようにする」
影嵐が昨日の小石を手渡すと、ザフィルは小石に魔法を追加してから、影嵐に返した。
「どうぞ。あそこに行く合言葉は『クソ野郎』」
淡白な調子で告げられた言葉に、シルリネアとメイランは思わず吹き出してしまった。影嵐もニヤリと笑う。
「いい性格してるじゃねぇか」
「いい表現だと思った。クソ野郎って、あいつにぴったりだ」
ザフィルは薄く微笑んだ。
「安洛城も追加した。『安洛城』が合言葉。これで足りる?」
「十分だ。感謝する」
影嵐は礼儀正しくザフィルに一礼してから、シルリネアの方を向く。
「で、次ぁそっち向けの話だ。お前ら、冬の備えはできてんのか」
「え……?」
予想外の話にシルリネアは驚く。確かに、冬を越す準備はまったくできていない。
そろそろ始めないと間に合わないが、ここにはほとんど何もないし、道具さえろくにない。
シルリネアの様子を見て、影嵐は頷いた。
「だろうと思った。そこで取引だ。青嵐で買え。せっかく転移門をいただいたからな、好きなだけ好きなモンを運んでやる」
「でも、買うって言っても支払うものが……」
シルリネアが困惑していると、メイランが口を挟んだ。
「じゃあさ、代金になりそうなのを影兄たちで適当に見繕ってよ。でも、持って行く前にシルリネアに許可は取ってほしい」
「いいだろう。なけりゃあ後払いでも構わねぇ。北大陸のモノだってだけで、珍しさで値がつくからな」
メイランと影嵐は視線を交わし、笑みを浮かべ合った。
「わかった。商談成立」
「踏み倒すんじゃねぇぞ、親父と姉貴の好意も入ってんだからな」
「正直、あの洞窟を抜けて北大陸で取引先を探すのは大変だと思ってたから。助かったよ」
メイランが、笑顔でシルリネアの方を向く。
「これで冬の準備は終わり。あとは……」
メイランと影嵐の間で、取引の話がどんどん決まっていく。
シルリネアは呆然と見守る他なかった。




