第111話 黎明で
シルリネアは、ゆっくりと水を飲む。
喉から胃に流れ落ちる水が、余すところなく体に染み込むようだ。
傍らにはメイランがいて、少し離れたところにヴェンツェルと影嵐、そしてザフィルが見える。
「みんな無事で、良かった」
シルリネアが微笑んだ。
「あなただけ、無事ではないよね」
ザフィルが応じた。彼は薄暗がりの中にいて、シルリネアには表情がよく見えない。
「生命力を自ら切り取った状態で、神の力を使ったらどうなるか。知らなかったとは言わせないよ」
ザフィルから、怒りに似た感情が伝わってくる。だが怒りの他に、心配していたであろう様子も感じられた。
だからシルリネアは、苦く、淡く笑う。
「ごめんなさい。あなたの望みを、あまり叶えられなくて」
「あなたは、不可逆なことを安易に決めすぎるね。あと、謝るべきは僕じゃなくてメイラン」
急に話を振られて、メイランは驚いた様子でザフィルを見てから、シルリネアをじっと眺め——満面の笑顔を向けた。
「何も謝られることなんて、ないと思うけどな。俺は今、すごく幸せだから」
シルリネアの心が傷んだ。決断したのは自分だ。後悔はない。
でもこの笑顔を曇らせることになるのは、とてもつらい。
「あの、メイラン、ごめんなさい……ザフィルの言う通り、あなたに謝らないといけなくて……」
メイランは苦笑して、シルリネアの体を軽く引き寄せた。かすかに伝わってくる彼の体温が、心地良くて泣きそうになる。
「いいよ、言わなくても。シルリネアが決めたことは全部認めるって、言ったろ」
シルリネアは大きなため息をついた。やはり言うべきだ。意を決し、口を開く。
「あのね、私、きっと、あまり長く生きられない……。1年2年みたいな短さではないと思うけど、お婆ちゃんにはなれなくて……おばさんにもなれない、かも……」
それが、シルリネアの負った代償だった。
生命力の源を切り離し、神の力を使ったことで、大きく余命を減らした。
そうでなくとも、神の力を使うことは体に負担をかける。承知の上で、複数人で開くはずの聖域をひとりで開いた。
神の子は、元々長生きできない人が多いことも、知っていた。
シルリネアはそういうものと受け入れていたが、メイランはどう思うだろう。村のことを隠してきたので、話したことはない。
加えて、癒しの魔法も、シルリネアの体に良いものではない。
そっとメイランを見る。
彼の表情は凍りつき、体が固く強張った。だが、すぐに柔らかく笑う。
「……そっか、わかった。じゃあさ、シルリネアのやりたいこと、教えてよ。全部やろう」
どうしてこんなに優しいんだろう。泣きそうな顔を隠すように、シルリネアはメイランに抱きついた。
メイランは優しく、それでいて力強く受け止めてくれる。
「私ね、メイランと一緒にいたい」
「うん」
「村に帰りたい」
「うん、そうしよう」
「それだけ」
「そっか」
「でもね……」
「言ってみ」
「……本当は、メイランと一緒に年を取って、お婆ちゃんになりたかったなぁ……」
「途中までは一緒だろ」
「……そうね……」
シルリネアの体が震え、涙が一筋流れ落ちた。
メイランは、彼女が身を離すまで、ずっと抱きしめていた。
******
ザフィルはシルリネアとメイランから距離を置いたところに、ヴェンツェルと影嵐を誘った。
「あのさ」
十分に離れたところで、ザフィルが言う。
「これからヴェンツェルに、誓いを立てる。影嵐には、証人になってほしい」
ふたりが頷いたのを見て、ザフィルは厳かに口を開いた。
「ヴェンツェル、あなたが僕を裁くことについては、すべて受け入れると誓う。ただ、しばらく待ってほしい。シルリネアの願いを、メイランが全部叶えるまで。彼女が十分だと言うまで。メイランにできないことを、僕がする」
「いいでしょう」
ヴェンツェルは承諾し、微笑んだ。
「あのふたりの手助けをする負担にならない裁きなら、早めに受け入れてもらえますか?」
「いいよ」
ザフィルは不思議そうに首を傾げた。ヴェンツェルは一体、何を課そうと言うのだろう。
「ザフィル、あなたは本を書きなさい。あなたの魔法の知識と技術、すべてを記録して残しなさい。あなたは天才だ。その才能を、知識を、後世の礎にしなければなりません」
突拍子もない話に、ザフィルは目を瞬かせた。
「ただし、本に名を残さないように。あなたは稀代の悪役として、後世に残るでしょう。『ザフィル』の名は、未来の礎となる天才魔法使いの魔術書には、相応しくない」
「わかった」
ザフィルの頷きを見て、ヴェンツェルは悪戯っぽく笑った。
「紙は融通して差し上げますよ。いくらでもね。あなたの本が残せるなら、安い買い物です」
影嵐が軽く手を打ち鳴らした。
「誓いは終わりだな? 黄嵐の子、青嵐が二子、影嵐の名において、この場でなされた誓いを証する」
影嵐の宣言が終わった後、ヴェンツェルはニッコリと笑みを浮かべる。
「ここからはまだ『予定』なのですが——。あなたの体があいたら、本の執筆と並行で、我が祖国の再建の手伝いでもしてもらいましょうか。もちろん、偽名でね。あなたが参加する時期は、遅ければ遅いほど、望ましい」
「そうだね」
ザフィルは静かに頷いた。
******
3人がシルリネアとメイランのところに戻る頃には、夜が白み始めていた。
「結局徹夜かよ」
「たまにはいいじゃないですか」
影嵐がぼやき、ヴェンツェルは苦笑する。
火をおこし、水を用意し、食事の準備をする。一日の始まりにふさわしい。
影嵐の作り直した粥は、美味しそうな湯気を立てて出来上がった。
シルリネアも、ゆっくり美味しそうに食べている。メイランは、その様子を嬉しそうに眺める。
「幸せ」
ほっとため息をつき、シルリネアが顔をあげると——。
「ザフィル、あなたそれ……!」
驚いた様子でザフィルを凝視した。メイランもザフィルを見たが、シルリネアが何を見たのかよくわからない。
影嵐は気付いた。
ヴェンツェルは気付けない。
ザフィルは首を傾げる。
「なに」
「髪の、色、変わってない……?」
「変わってるな。夜のうちはわからなかったが」
影嵐が認めた。
「え」
メイランはまじまじとザフィルを見て——。
「マジだ! お前、その色!」
驚きのあまり叫んだ。
「昔の色だ! 俺の記憶にある色!」
淡い胡桃色の髪が、朝日を受けてキラキラと輝いていた。
月白の魔法使いは、もういない。




