第110話 夜半の灯
だって、仕方ないでしょ。
シルリネアは、薄れゆく意識の中で弁明する。
ザフィルに頼むよりも、私がやる方が早い。
天井は崩れかけていて、壁もいつ潰れるかわからなくて。
床にはもう、大きな穴があいていた。
わずかな時間を争う事態だった。
影嵐さんとヴェンツェルさんを、犠牲にはできない。
彼らは優しくて温かくて、力も才能もある人たちで。
だからこそ、どうしても助けたかった。
それでもザフィル、あなたは、自分を大切にしろと怒る?
メイラン、あなたは優しいから、思い悩んでしまう?
ごめんなさい。
でも怒らないで。泣かないで。
できれば笑って。そうでなければ、あなたらしくいて。
私は私が、望んだことをしただけなのだから。
ああでも本当は。
メイランに、会いたい——。
******
酷い。
シルリネアの中を探査して、ザフィルは眉根をわずかに寄せた。
どこもかしこもボロボロだ。石哭谷の時よりも、聖域の時よりも、ずっと酷い。
傷なんて生易しいものではない。全身のすべてが衰弱し、力を失っている。
死の淵にある老人よりも、なお。
ザフィルは状況を整理し、優先順位をつけることにした。
シルリネアは弱りすぎていて、すべてを一度に直せない。
とにかく心臓と肺。ここをまともな状態にする。
ザフィルは決断し、心臓と肺を同時に直しはじめた。
既に欠け落ちている部分があるので、ザフィルの魔力で一時的に補う。
再生の兆しがあればいいが——。
魔力で補いつつ心臓と肺の形を戻し、同じ要領で血管を太いものから順に直していく。
続いて臓器と骨。脳に損傷が見えないのは、最大の救いだった。
最後に神経と筋肉を繋ぎ直し、処置を終えた。
おそらく今後、数日おきに補強し直す必要があるだろう。
ふぅとため息をつき、シルリネアの様子を見る。
幾分まともな顔色になっただろうか。
空を見れば、既に夜半近い。かなりの時間を使ってしまったようだ。
「どうです?」
ヴェンツェルが語りかけてきた。ザフィルは首を横に振る。
「応急処置はした。目を覚ませば動けるはずだ。——体の機能の半分以上を僕の魔力で補っているし、星集めの剣はしばらく手放せないだろうけど」
「そうですか。万全ではないにせよ、窮地を脱することができてよかった」
ヴェンツェルが微笑む。穏やかに。
穏やかな笑顔。穏やかさだけを切り取るなら、アザルファと同じはずだ。しかし、明らかに違う。
何が違うのか考えていると、ヴェンツェルが温かく笑った。
ああ、表情に宿る温度か。
あいつは冷たい。
ヴェンツェルは温かい。メイランも、シルリネアも、きっと影嵐も。
「ザフィル、あなたも休憩しなさい。食事も用意できています。麦粥をメイランが料理して、影嵐さんに怒鳴られて、だいぶ大変だったんですよ」
どうしてメイランが怒られるのか、ザフィルには理解できなかったし、食事なぞどうでもよかったけれど。
それでも、食事をするとメイランは嬉しそうにする。
兄の笑顔を見るのは、悪くない。だから、用意されているという食事を食べることに決めた。
******
「てめぇの味覚は絶望的だから、料理すんじゃねぇ。少なくとも他人に振る舞うな」
「ごめんて影兄」
影嵐は、まだメイランを詰めていた。
メイランの料理に苦言を呈しはじめてから、粥がもう1度作れるぐらいの時間が経っているのに。
ヴェンツェルは苦笑し、ザフィルは首を傾げる。
メイランは口でこそ謝っているが、なぜか嬉しそうだ。その態度が、影嵐の説教をさらに長くする。
シルリネアには、ザフィルが厳重に守りの魔法をかけた。眠りを妨げないよう、彼女の周囲には音さえ届かないようにしている。
たとえ影嵐が、山を崩すような怒声をあげたとしても影響はない。
「忌憚のない意見の交換は、後にしてください。シルリネアの治療がひとまず終わったようですから、まずはザフィルの話を聞きませんか」
ヴェンツェルがメイランと影嵐に声をかけると、メイランは顔を跳ね上げ、影嵐はあからさまに舌打ちをしてから、説教を切り上げた。
メイランへの腹立たしさは収まらずとも、シルリネアの容態は知りたい。そんな様子だった。
ザフィルは、シルリネアの容態と処置を簡単に説明した。メイランが安堵で表情を緩める。
もう少し安心してもらえるよう、ザフィルは言葉を足した。
「後で水でも飲ませてあげたら。魔法はいくらでもかけ直すから」
彼女に触れてもいい。そう伝えたつもりだ。メイランに伝わったのか、彼がぱっと笑顔になる。
「わかった、そうする」
メイランは笑顔でザフィルに粥を盛り、手渡した。
影嵐が渋面を作る。
「梅が作ったやつだ。最悪な味だぞ。どうして粥を不味く作れるんだ……」
「不味くねぇって。なぁザフィル」
ザフィルは粥を受け取って一口食べ、ふたたび首を傾げた。
「不味いと思ったことなんて、ないけど……」
影嵐は、わざとらしく大きなため息をついた。
「てめぇら兄弟揃ってそれかよ」
メイランはザフィルに視線を走らせ、笑う。
「こいつと一緒なら、悪くないかも」
影嵐が言葉を失うのを微笑ましく見ながら、ヴェンツェルも粥を一匙すくって食べ——閉口した。
水分がドロドロで糊のようになっている。麦も生煮えなのか、外はヌルヌルと嫌な粘り気があるのに、芯はガリガリと固い食感だった。
味付けはまったくなく、麦の臭気が強い。せめて塩があればと心から願うが、その思いは叶わないようだ。
メイランとザフィルは平然と食べているが、影嵐は粥を一切受け取っていない。
影嵐の苦言は、圧倒的に正しかったようだ。
ヴェンツェルはそっと匙を置き、目の前の物体を完食すべきかどうか、真剣に検討することにした。
ヴェンツェルは結局、半分食べるという妥協をした。
メイランは、シルリネアが目覚めた時のために粥を取り置こうとしていたが、影嵐とヴェンツェルに止められた。
「新しく作ってやる。残りはお前らが食え。いいな」
影嵐に言い含められ、メイランは苦笑した。
なんだかんだで、影兄は優しいし世話焼きだ。だからメイランは、影嵐に怒られるのが嫌いではなかった。
******
食事の悶着が片付いた後、それぞれが戦ったアザルファについて、そして現状について、情報を交換する。
「2面打ちしやがると思ってたが、多面打ちかよ。とんでもねぇな」
ザフィルが全ての局面に介入していたことを知り、影嵐は憮然とぼやいた。
「まったくです。どうすれば、そんなことが出来るんです?」
ヴェンツェルも呆れ顔だ。
「魔法生物の情報を読んで、できることをやる」
ザフィルは平然と答える。
「難しいことはしていない」
影嵐とヴェンツェルは、思わず顔を見合わせ——先にヴェンツェルが冗談めかして苦笑した。
「同情してください。こんな人物と、同時代の魔法使いとして、後世で比較されるんですよ」
「今度、飲むか」
「いいですね」
妙なところで意気投合したふたりを、メイランは嬉しそうに、ザフィルは不思議そうに眺めていた。
「多面打ちできんなら、ひとりでやりゃあいいじゃねぇか」
気を取り直した影嵐が、ザフィルに向けてぼやいた。
協力したのは自分の意思だから、とやかく言う気はない。ただ、どうして頭数を揃える必要があったのか、理解できなかった。
「俺が言ったんだよ、影兄」
メイランが口を開く。影嵐は、続きを話せとばかりに顎をしゃくる。
「ザフィルは最初、ひとりでやるつもりだったんだ。でもさ、それだと崩れた時に一気にダメになるだろ? だから何人か頼もうって、俺が言った」
ザフィルも頷く。
「そう。想定しうる状況を考えて、あなたたちに頼むことにした」
「影兄とヴェンツェルとシルリネアなら、どうにかなると思ったんだよ」
影嵐は彼らの言葉を吟味してみたが、妥当な判断だと言わざるを得なかった。
事実ふたりは、崩されかけたと言う。策を講じていなければ、そのまま終わっていただろう。
シルリネアをその場から切り離し、かつ遠隔で介入する手筈を整えていたからこそ、切り抜けられた。
「——生意気なことに、筋も道理も通ってやがる」
影嵐は不機嫌に、むっつりと黙り込んでしまった。
メイランは嬉しそうに微笑んだ。影嵐のこの態度が、誰かを認める時に出る癖だということを、知っていた。
「あ」
突然メイランが声を上げ、シルリネアに駆け寄った。
見れば、シルリネアが身じろぎをしている。
目覚める寸前だ。
「起こしても大丈夫」
ザフィルが声をかけるとメイランは頷き、そっと彼女の頬に手を当てる。
彼女を守っている魔法が、ぱっと消え去った。
「シルリネア?」
メイランの声に、閉じられている瞼が震える。長く繊細な睫毛が揺れ、形の良い眉がひそめられてから、ゆっくりと目が開かれていく。
薄荷色の瞳が褐色の瞳を捉え、幸せそうに細められた。
「会いたかった……メイラン」
疲れてかすれた声だったが、メイランには、どんな声よりも美しく、愛おしい。
シルリネアは微笑み、メイランを呼ぶように両腕を掲げる。
メイランはシルリネアを慎重に抱き起こし、優しく体を引き寄せた。
「俺も」
シルリネアは、メイランの存在を確認するかのように背中を数度さすってから、しっかりと抱きついた。




