第108話 終端
「メイラン」
ザフィルが、メイランを見た。
「どうした?」
胸騒ぎのする声だった。メイランは緊張しながら、弟の言葉を待つ。
「そいつを絶対に、逃さないで。何があっても」
「わかった」
メイランは頷いた。きっと何か起きる。
そして、その「何か」は、メイランが動きを封じている男には、決して聞かれたくないことだ。
ザフィルは頷きを返して、わずかに微笑んだ。
「絶対に、だよ」
そう言って地面に座り、目を閉じた。
きっとこれが、ザフィルの最終局面なのだろう。
メイランはそう判断し、動きを封じている男の状態を確認した。問題はない。
あとは、ザフィルが片付けて戻ってくるまで、今のまま維持していればいい。
そう思った矢先に。
ザフィルの右手が潰れた。
骨が折れ、歪み、皮が引きつれて破れ、筋肉の擦り切れる嫌な音が響く。
さらに左手も。
両手が真紅に塗り替えられていく。
メイランは息を呑んだ。
ザフィルとの約束がなければ、この男のことなんて捨て置き、すぐにでも駆けつけただろう。
絶対に、と念を押された意味がわかった。
同時に、この男を逃がすなという言葉の重さを感じる。
自分の両手が壊れるよりも、大切なことなのだ。
******
シルリネアが復帰した。
メイランを模した魔法生物と並び、剣を振るう。
影嵐は、その様子をやや後方から見る。
上手い。
さすがにメイランと並べれば見劣りするが、黒嵐ぐらいの技量はある。
つまり、青嵐でも一線を張れる。
「梅の奴、だいぶ仕込みやがった」
シルリネアの資質もあるだろう。だが、ただの村娘だったという彼女を、1年も経たずにここまで仕上げてきたのは、間違いなくメイランだ。
動きは防御に寄りすぎだが、このまま伸ばせば、いい使い手になる。
特にメイランのように、あらゆる状況から攻めていける奴と相性がいい。
影嵐はほくそ笑み、九節鞭でアザルファを牽制した。剣の間合いから抜け出そうしていたところを、引き戻す。
「角度をつけて挟め」
シルリネアはすぐに意図を理解し、メイランを模した魔法生物と共に、アザルファを挟み込んだ。
飲み込みも早い。確実に近接戦闘向きだ。
メイランという圧倒的な規格外が横にいるから、目立たなかっただけだ。
このまま押し切れる。そう思った時。
アザルファが異様な笑みを浮かべていることに、影嵐は気付いた。
今までの穏やかな、それでいて冷たく感情のない微笑みではない。
悪意を持った笑みだ。
「警戒!」
影嵐が注意を呼びかけるのとほぼ同時に、ゴウと風が鳴った。
鏡の間全体に暴風が踊り、破壊した鏡の欠片を巻き込んで吹き荒れる。魔法を封じていた力が、弱まったのだろうか。
影嵐とシルリネアは反射的に身を守ろうとし——風が自分に影響を及ぼさないことを知った。
ヴェンツェルが事前にかけていた守りの魔法が、鏡片混じりの暴風から守ってくれている。
これがなければ、鏡片でズタズタに切り裂かれていたに違いない。
「手を止めるに値しない」
ザフィルの声が聞こえた。
見れば、あの魔法生物だけが、淡々とアザルファに食らいついている。
シルリネアは唇を噛み締め、攻撃を再開した。
影嵐も続こうとしたが、ふと、壁面の一部が光を発していることに気付いた。
アザルファの背中側に位置しているため、今は近寄れず、実態も判然としない。
「あれがアザルファの本体、核です」
ヴェンツェルが近付いてきて、影嵐に声をかけた。
魔法で核の所在を突き止め、光らせることで在処を示している。
シルリネアたちが対峙しているアザルファは、明確に核を守っている。いくら攻め立てられても、光っている壁の前から動かない。
「何とか、できますか」
つまり、動いている方のアザルファを、あの壁から引き剥がせということだ。影嵐はニヤリと笑う。
「やってやろうじゃねぇか」
******
ザフィルは、恐怖の感情をあえて隠さなかった。
機会は一度きりだ。それまでは、弱さを強調する。
アザルファを出し抜くために。
以前であれば、とても耐えられなかっただろう。
だがそれでは、怒りと恐怖のまま力を振るい——アザルファを逃すことになる。
あの日のように。
アザルファを殺したあの日は、肉体を滅ぼすだけで満足してしまった。
魂にまで、考えが至らなかった。
同じ愚を犯す訳にはいかない。
魂を掴み取り、確実に滅ぼす。
いかに不快であろうとも。
いかに苦痛であろうとも。
もう二度と、こいつを見ないで済むように。
もう二度と、誰かが壊されずに済むように。
******
影嵐は九節鞭を腰に巻き、長刀も鞘に収めた。
その間に、ヴェンツェルが影嵐に魔法を施す。武器に施した魔法を、影嵐の全身に向けて。
影嵐は魔法を確認し、無言で頷いた。準備は整った。
シルリネアと魔法生物の攻撃の隙間を縫い、鋭い踏み込みで一息にアザルファを襲撃した。
シルリネアの驚いた表情を目の端に捉えた。
魔法生物は、アザルファが守っている壁側に立ち位置を移す。影嵐の意図を理解した動きだ。
どうやらザフィルは、弟よりも気が利くらしい。
影嵐は、北大陸で戦っているであろう弟に思いをはせ、かすかに苦笑した。
苦笑したまま身を低くし、アザルファの足を払う。虚を突かれて体勢を崩した腕を取り、背負って大きく投げ飛ばした。
「維持!」
影嵐が叫ぶと同時に、壁沿いにザフィルが飛び出した。
いい判断だ。アザルファに壁を守らせないためには、壁際を制するのが合理的だ。
シルリネアもザフィルに続き、飛び出していった。彼女もまた、状況を理解している。核のある壁際に、アザルファを近寄らせないような立ち回りだ。
核の前まで転移してくるかと身構えたが、その気配もない。ザフィルが手を回しているのだろう。
「近年稀に見るやりやすさだな」
影嵐は呆れと感動を半々でシルリネアたちを見てから、ヴェンツェルに目を向けた。
「お望み通りだ。後は任せていいのか?」
「ええ、お任せください」
「よし」
影嵐は九節鞭を抜いた。
剣よりも広い間合いを利用して、面でアザルファを足止めするために。
******
ヴェンツェルは影嵐を見送ってから、露出した核を見た。
月白色の宝玉だ。
美しく磨き込まれ、壁に埋め込まれている。
かつては鏡に覆われ、隠されていた。
アザルファは何を考えて、この宝玉に魂を移したのだろう。
わからない。だが、わからなくていいと思う。
数多の子を飼い、殺し、ザフィルという魔法の申し子に肉体を滅ぼされた。
そんな奴の気持ちは、理解できない方がいい。
宝玉には、幾重にも渡る魔法的な防御が施されている。
問題ない。
ひとつずつ壊し、あるいは解除していけばいい。
数か月前であれば魔力が保たず、無理だったはずだ。しかし今は、魔素がある。
沈黙の書に記されていた、限りなく最適解と思われる魔素の扱い方を、ヴェンツェルは我が物にしていた。
これがあれば、ザフィルの持つ莫大な魔力を、擬似的に再現できる。
魔素を使い、宝玉の防御を1枚ずつ剥いでいく。
わずかな時間で、防御をすべて取り払うことができた。
「これで終わりだ」
宝玉を失えば、アザルファには依代がなくなる。魂は短い時間で消え去るだろう。
ヴェンツェルは宝玉を粉々に砕くための魔法を組み立て、解き放った。
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ザフィルはアザルファの軋みを感じた。
おそらくヴェンツェルだ。アザルファの核を、依代を破壊したのだろう。
自分を抱きしめ、拘束するアザルファの力が強まる。
まだだ。まだ——。
「どうやら、あまり時間がないみたいだ。あの人間たちは、ずいぶん優秀だね」
穏やかな声を崩さないまま、アザルファが言った。
「急ぐことは下品だが、仕方がない。さようなら、ザフィル」
あくまでも優雅に、アザルファはザフィルの魂に手を伸ばした。
アザルファがザフィルの魂に触れた。魂を砕き、我が物として食らうために。
アザルファの魂は、そうやって肥大化してきたに違いない。
今や、神に近いものになりつつある。あと一歩で、神の端くれぐらいにはなるだろう。
四肢が砕かれ、粉々になるような感覚に襲われる。
おそらく肉体も損傷を受けているだろう。
見ているメイランは、つらいかもしれない。
兄に負担を強いるのは不本意だが、やむを得ない。
あまりにも不快極まる感覚に耐え、ザフィルは「一瞬」を待つ。
魂に爪がかけられた。
凄まじい恐怖が全身を駆け巡り、同時に怒りが沸き起こる。存在そのものに触れられ、今まさに潰されんとする時の、本能的な防御反応。
ここだ。
魂同士が確実に接触した。この感覚だけは、偽れない。
ザフィルはアザルファに向けて、壊れた両手を差し伸べた。
抱きしめられたまま、しっかりと抱きしめ返す——絶対に、逃さないために。
「消えろ」
ザフィルは呟き、虚無の魔法を解放した。
周囲にあるものが、ことごとく消えていく。
アザルファの姿を模した魔力は、一瞬で消え去った。
次いで、アザルファの魔力も消えていく。
魂を守っていた魔力が消え去り、ついにアザルファの魂が、虚無によって形を失いはじめる。
「お前が信奉する終端神の力で消えるのは……嬉しいでしょう?」
ザフィルは温度のない目で、消えゆくアザルファを睥睨した。
アザルファは、穏やかで優雅で華やかなまま——完全に消滅した。
すべてが消え去った虚無の空間に、ザフィルはひとり残された。
「終わった」
ため息をつく。
戻ろう。
メイランが待っている。




