第105話 月白の
鏡の間。
扉さえない。いや、扉など不要なのだろう。
ここはすべてアザルファの領域だから。
文字通り、壁面が鏡に覆われた場所だった。
部屋の中央には、優雅な弧を描くソファが置かれている。
ここでアザルファは、何を考え、何を見るのだろう。シルリネアには、まったく想像がつかなかった。
過去のザフィルは、あの部屋で外を見ていた。ではアザルファは——?
部屋に足を踏み入れる。
鏡によって、自分の姿が無限に投影される。
「気味が悪い」
シルリネアの呟きに、影嵐が頷いた。
「床を見ろ」
床はただの岩盤だった。確かに、合わせ鏡を見るよりずっといい。
「正面も鏡とは言い難そうですね」
ヴェンツェルが示した壁面は、真っ暗だった。鏡のようなのに、何も映していない。
「どうやらあれが……」
ヴェンツェルの言葉と共に、正面が揺らいだ。
ひとりの人物が映し出される。
若く美しいのに、年齢と性別が判然としない。
穏やかな表情でありながら、温かみを感じない。むしろ、冷たさに全身が凍りつきそうだ。
尊大さばかりを感じるのに、優しげな微笑みを浮かべていて、不快感を煽る。
水のように揺れる衣を羽織り、全身に金の装飾品をつけている。華やかだが驕奢に陥らず、閑雅にさえ感じる佇まい。
足元は優美で繊細なサンダル。
瞳はごく淡い青。あるいは無色かもしれない。
そして緩やかに流れる——月白色の髪。
「ご機嫌よう」
月白色のアザルファが、穏やかに語りかけた。
******
シルリネアたちが、鏡の間に着いた。
ザフィルは、かつて嫌というほど接した魔力を、強く感じ取っていた。
「メイラン、最終段階」
不快感を抑えながら、ザフィルは口を開く。
「はいよ」
兄から軽快な声が返ってくる。あまりの彼らしさに、ザフィルは知らず笑みを浮かべていた。
アザルファの複製と、壮絶な近接戦闘を繰り広げているのに。彼の声は、まるで散歩中のように軽い。
しかしメイランは、いくつもの傷を負っていた。
軽症の域ではない。それでも、彼の動きは鈍らない。むしろ楽しそうですらある。
——ああやはり、彼は自由であるべき人だ。
そのために。
ザフィルは、複製とアザルファを繋ぐ魔力の糸を遡る。
月白色の髪が揺れ、首に張り付いた。鬱陶しい。
今度こそ、あいつを破壊してやる。
******
だいぶ慣れてきた。
メイランは、アザルファの驚異的な速度を、捉えられるようになっていた。
体は傷だらけで、息はとっくにあがっている。時折、喉が苦しげにゼィゼィ鳴るが、不思議と他人事だ。
楽しい。
動きはむしろ鋭さを増している。
棍で剣の軌道をずらし、鉤で絡め取って跳ね上げた。
剣を奪った。普通なら、これで終わりだ。
しかしアザルファの剣は、手の内から突如出現したものだ。
どこかにあるものを呼び出したのか、あるいは作り出したのか、メイランにはわからない。
だが、魔法だということはわかる。
魔法ならどうにかできる。
「壊しといて!」
ザフィルに声をかけると、背後で金属が歪み、ねじ切れる不快な音が響いた。アザルファの剣を破壊したのだろう。
メイランは棍を投げ捨て、鉤を腰に引っ掛け、アザルファに肉薄した。
アザルファが操るこの肉体は、力があるようには見えない。
つまり、人間離れした動きは、魔法で支えられているはずだ。
メイランが魔法を無効化できるのは、腕の届く範囲。
つまり、無手の格闘がもっとも都合がいい。
これまではアザルファの魔力を浪費させるため、あえて「殺して」きた。
だが今、シルリネアたちは最終局面に突入し、ザフィルも合わせて動いている。
もう「殺す」必要はない。
メイランはアザルファに組み付き、地面に押し倒した。
組み付いた瞬間、凄まじい抵抗の力を感じたが、すぐに霧散した。その後は、いとも簡単に組み伏せることができた。
「さぁて」
腕をひねりあげ、肩から上を地面に押し付けてアザルファの動きを封じる。
ザフィルの邪魔をしないよう、大人しくさせていよう。
できるだけ長く。
******
影嵐が有無を言わせず突っ込んだ。
メイランをして真似しきれないと言わしめた、鋭い踏み込みで。
腰の九節鞭を鎖音と共に解き放ち、アザルファの映し出された鏡を横一線に薙ぐ。
アザルファが消え、九節鞭は鏡面に一文字のヒビを描いた。
影嵐は素早く九節鞭を引き、「何も写していない」隣の鏡に向けて振るう。
振るったその瞬間に、影嵐が狙った鏡にアザルファの姿が現れた。
影嵐は、アザルファが現れる場所を事前に読んでいる。どうやって読むのか、シルリネアにはまったく理解が及ばない。
鏡が割れ、アザルファが消える。
「あぶり出してやる」
影嵐は低く笑い、鏡を次々に割っていく。
「なるほど。割れた鏡にアザルファは現れない」
ヴェンツェルは短く呪文を唱え、魔法を完成させた。影嵐の九節鞭と腰の長刀が淡い光を発した。
「霊体や幽体に効く魔法です」
影嵐に向けて簡単な説明をしてから、ヴェンツェルは次々に魔法を発動させていった。
魔法への耐性を高め、体の機能を高め、防御壁を各人に巡らせる。
一通りの支援魔法を唱え終わり、ヴェンツェルはさらに詠唱を続ける。
影嵐は鏡の破壊を終えた。
「出てこい」
影嵐がソファに向けて声をかけると同時に、アザルファが現れた。
半透明の姿で、ゆったりとソファに座る。
「乱暴なお客人だ」
気品を感じる穏やかな声。だが温かみはなく、ただただ冷たく響く。
月白色の髪が、緩やかに揺れる。
シルリネアはアザルファを睨みつけ、その様子を探っていた。同時に、自分の中にある創生神の力を確認する。
創生神の力が、シルリネアに囁く。アザルファは終端神の信徒であると同時に、自らも神になりつつある存在だと。
だから、肉体が滅んでも存在しているのか。肉体を必要としないのか。
シルリネアはそう理解し——。
ぞくりと悪寒が走った。
「ザフィル!」
大声でシルリネアは叫んだ。叫ぶ必要などなかったが、そうせずにはいられなかった。
「今すぐ切断して!」
間に合うだろうか。ザフィルは既に、星集めの剣に魔法を送り続けている。
彼はこの場に、魔力を繋いでいるはずだ。
「こいつが狙っているのは……!」
ザフィルの肉体だ。神の器たりえる程の資質を持つ。
そう言おうとした瞬間、シルリネアの声が止まった。
「君はもう少し、沈黙を知った方がいい」
穏やかに、それでいて底冷えのする冷たさで、アザルファが微笑んだ。
影嵐の九節鞭が破裂音を伴い、凄まじい速度で襲いかかる。だが当たる直前で、アザルファの姿が溶けるように消えた。
影嵐は難なく身を翻し、左手で長刀を引き抜いた。右手は九節鞭を折りたたみ、同時に大きく鋭く跳躍した——シルリネアに向けて。
その瞬間、アザルファが姿を現した。シルリネアの真横に。影嵐の軌道の直線上に。
ヴェンツェルの魔法も同時に完成した。ザフィルの魔力さえ封じた沈黙の魔法が、アザルファに放たれる。
シルリネアも剣を抜いた。刃から星の粒が流れ落ちる。
鋭い碧眼が、冷静な琥珀色が、薄荷色の輝きが、アザルファを捉えた。
月白色が、ゆらりと踊った。




