71話 自分の足で
日が傾き始めるころ、三人は宿を出る準備を整えた。
フィアはまだ、身体の奥に重さを残していた。
眠って、少し休んで。
それでも完全に戻ったわけではない。
シリウスも、傷が軽くなったとはいえ万全ではなかった。
ルカの指先にも、魔力を使ったあとのわずかな震えが残っている。
本当なら、もう一晩ここで休んだ方がいい。
それでも、ここに残る方が危険だった。
フィアは寝台の端に座り、青いガラス玉の髪飾りを掌に載せた。
淡い青が、窓から差し込む夕方の光を受ける。
それを髪へ留めようとして、やめた。
今日は、いつもより白金の髪を隠さなければならない。
フィアは髪飾りを小さな布で包み、旅装の内側へしまった。
なくさないよう、指先で一度だけ確かめる。
それから深くフードを被った。
荷物はほとんどシリウスとルカが持っていた。
フィアが自分の荷を手に取ろうとすると、シリウスが静かに首を振る。
「これは私が持ちます」
「でも」
「フィア様は、ご自身の身体だけをお運びください」
少し変な言い方だった。
フィアが目を瞬くと、ルカが小さく笑う。
「それで十分重労働だからね、今日は」
「……そんなに弱ってないよ」
「そう言う人ほど信用できないんだよなあ」
いつもの調子だった。
そのことに、フィアは少しだけ安心した。
それからまもなく、三人は宿を出た。
大通りは使わなかった。
ルカが選んだのは、宿の裏手から続く細い道だった。
荷運び人が行き来する裏通りを抜け、水路沿いを進む。
人通りは少ない。
その代わり、倉庫が並び、荷馬車や木箱があちこちに置かれていた。
日が傾いたせいで、建物の間はすでに薄暗い。
三人は言葉少なに歩いた。
フィアは二人の少し後ろをついていく。
身体は重い。
けれど、歩けないほどではなかった。
もう少し先へ行けば、ルカが手配した荷馬車が待っている。
そこまで行けばいい。
そう思っていた。
水の匂いがするまでは。
湿った石と、濁った水の匂い。
その直後、どこかで車輪が石畳を擦った。
重い音だった。
ぎ、と低く軋んだ。
フィアの足が止まる。
水路。
積まれた木箱。
薄暗い荷出し口。
記憶が、唐突に重なった。
灰色の瞳。
逃げようとしても身体がうまく動かなかったこと。
そして、静かな声。
『来い』
その一言で、自分の足が動きそうになった。
自分の意思とは関係なく、身体だけがアルナトの方へ向かいそうになった。
あのとき何より怖かったのは、捕まることだけではなかった。
自分の身体が、自分のものではなくなるような感覚だった。
何かを考えるより先に、呼吸が浅くなる。
指先から温度が抜ける。
フィアは視線を上げた。
目の前にあるのは、ただの水路だった。
倉庫の脇を流れる、細い水路。
聞こえているのも、ただの荷馬車の音。
ここは違う。
アルナトはいない。
あの荷出し口でもない。
分かっている。
それでも、一歩が出なかった。
前を歩いていたシリウスとルカが、二、三歩先で止まった。
シリウスが振り返る。
青い瞳がフィアを見る。
一瞬、こちらへ戻ろうとした。
けれど、止まった。
フィアが倒れているわけではないと分かったのだろう。
「フィア様」
名前だけを呼ぶ。
それ以上は何も言わなかった。
ルカも戻らない。
少し先から、フィアを見ている。
「待ってるから」
その一言だけだった。
フィアは返事ができなかった。
視線を落とす。
自分の足が見えた。
ほんの一歩。
それだけなのに、遠い。
また車輪の音がした。
肩が強張る。
耳の奥に、あの声が残っている。
フィアは反射的に後ろを見た。
細い道の向こう。
曲がり角を戻れば、さっきまでいた宿がある。
戻れば、今日だけなら休めるかもしれない。
扉を閉めて。
二人がそばにいて。
夜が来るまで、何も考えずにいられるかもしれない。
けれど、戻りたいわけではなかった。
フィアは前を見る。
数歩先に、シリウスとルカがいる。
二人とも手を伸ばしてはいない。
急かしてもいない。
ただ、そこにいた。
――この街を、出たい。
自分で言った言葉を思い出した。
今度は、誰かに命じられた言葉ではない。
シリウスに決めてもらったわけでも。
ルカに選ばされたわけでもない。
自分で、そう言った。
フィアは息を吸う。
少し浅い。
それでも、もう一度吸った。
そして足を前へ出した。
小さな一歩だった。
水の匂いは消えない。
車輪の音も聞こえている。
怖さも、なくならない。
それでも、自分で出した一歩だった。
もう一歩。
それから、もう一歩。
少しずつ、二人へ近づいていく。
シリウスの表情が少しだけ緩んだ。
けれど、何も言わなかった。
フィアが二人のところまで辿り着くと、シリウスはいつものように前を向いた。
「行きましょう」
ルカも歩き出す。
「馬車、もうすぐだよ」
それだけだった。
フィアも、その隣を歩いた。
荷出し口には、幌付きの荷馬車が一台待っていた。
御者は年嵩の男で、ルカからすでに金を受け取っているらしい。
こちらをちらりと見ただけで、深く事情を尋ねることはなかった。
「病み上がりなんで、揺れないようにしてもらえると助かるよ」
ルカが言う。
「道が道だからな。できるだけはする」
それで話は終わった。
荷台へ上がるための踏み板は、フィアには少し高かった。
自分で上がろうと足を掛ける。
身体を持ち上げようとしたところで、わずかに力が足りない。
すぐ横から、シリウスの手が差し出された。
触れてこない。
ただ、掌を上に向けて待っている。
フィアはその手を見た。
それから、自分から重ねる。
シリウスの指が、必要な分だけフィアの手を支えた。
「ありがとう」
「はい」
それだけで、荷台へ上がることができた。
ルカが続き、最後にシリウスが乗り込む。
荷馬車が動き始めた。
車輪が石畳を鳴らす。
さっきと同じ音だった。
フィアの身体が少しだけ強張る。
一瞬だけ、灰色の瞳と、あの声が浮かぶ。
身体は強張った。
それでも、さっきのように息が詰まることはなかった。
荷馬車は、そのまま街の門へ向かっていく。
幌の隙間から、街の門が見えた。
その下を通り抜ける。
壁が過ぎる。
門番の姿が遠ざかる。
街が、少しずつ後ろへ流れていく。
本当に出てしまった。
そう思うと、胸の奥に小さな怖さが残った。
これからどこへ行くのかは、まだ決まっていない。
何が待っているのかも分からない。
フィアは膝の上で、自分の手を握った。
それでも。
戻りたいとは思わなかった。




