72話 山へ入る道
街を出た日の夜、三人は街道沿いの小さな宿場へ辿り着く。
宿や食堂、旅人向けの雑貨屋が数軒並ぶだけの、小さな集落だった。
ここまで乗せてくれた荷馬車とは、宿場の入口で別れる。
「助かったよ」
ルカが御者へ礼を言うと、男は軽く手を上げただけで、そのまま荷馬車を走らせていった。
フィアは深く被ったフードを押さえながら、遠ざかっていくその背を見送った。
身体には、まだ荷馬車の揺れが残っているような気がする。疲れてはいたけれど、聖女の力を使って倒れてしまったときほどではない。
そう思えるだけでも、少し安心した。
「今夜はここで休みましょう」
シリウスの言葉に、フィアも頷く。
宿へ向かおうとした、そのときだった。
脇を通った男が、一度だけこちらを見る。
風に煽られたフードの隙間から、白金の髪がわずかに覗いてしまったらしい。
男の視線がそこに止まり、フィアは反射的にフードを押さえた。
けれど、珍しい髪だと思っただけなのか、男はそれ以上足を止めなかった。そのまま連れと話しながら遠ざかっていく。
フィアはようやく、小さく息を吐く。
シリウスは何も言わなかったが、その背が見えなくなるまで目で追っていた。
その夜は、それ以上何も起こらなかった。
三人は食事を取ると、早めに休んだ。
誰かが訪ねてくることもない。
何事も起こらない夜は、それだけで今の三人にはありがたかった。
翌朝。
まだ宿場の往来が増える前に、三人は部屋の机へ地図を広げていた。
ルカが指先で一本の街道をなぞる。
「このまま大きな道を行けば、一番早い」
けれど、その指は途中で止まった。
「でも、人も多い。検問が増えてたら面倒だね」
「別の道があるのか」
シリウスが尋ねる。
「あるよ」
ルカの指が街道から外れ、山側へ伸びる細い線を辿った。
「ここから北西に入る古い道がある。少し遠回りになるけど、この先でまた西へ抜けられる」
フィアも地図を覗き込む。
山へ入り、その中を抜けてさらに先へ。
道は途中から細くなっていたが、最終的には国境方面へ続く街道へ合流している。
「山の中に入るの?」
「少しだけね。最初のうちは、荷馬車も通れるくらいの道だよ」
ルカはさらに別の場所を指した。
「ここに小さい橋がある。橋を越えた先に水場があって、その少し先なら休める場所もある」
「詳しいな」
シリウスが地図から顔を上げると、ルカは軽く肩を竦めた。
「商売してれば、街道が使えない時の道くらい覚えるよ。この辺りは何度か通ってるし」
特に隠す様子もなく、シリウスもそれ以上は問わなかった。
フィアは地図へ視線を戻す。
まだ、どこへ逃げるのかを決めたわけではない。
隣国へ行くのか。
それとも、この国のどこかへ身を隠すのか。
それすら決まっていなかった。
ただ、この道なら少なくとも人目は避けられる。
「私は、大丈夫」
フィアが言う。
「歩けるよ」
シリウスは少しだけ、その顔色を確かめるように見た。
「無理はなさらないでください」
「うん」
ルカが地図を畳む。
「じゃあ、行こうか」
宿場を出てしばらくは、道幅も広かった。
朝の空気は冷たかったが、天気は悪くない。
片側には低い木々が並び、反対側には緩やかな斜面が続いている。
地面にはまだ轍も残っていて、たしかに荷馬車でも通れそうな道だった。
三人はゆっくり進んだ。
シリウスとルカはフィアの歩幅に合わせていたが、それを意識させるような歩き方はしない。
時折、ルカが少し先まで進んで道を確かめる。
やがて、小さな石橋が見えてきた。
それを渡ってさらに進むと、今度は岩の間から細く水が流れ出している場所があった。
どちらも、朝にルカが言っていた通りだった。
「本当にあった」
フィアが小さく呟くと、ルカが振り返った。
「疑ってた?」
「少しだけ」
「ひどいなあ」
フィアはほんの少し笑った。
それを見て、シリウスの表情もわずかに緩む。
そのまま三人は歩き続けた。
朝のうちは、問題なかった。
昨日よりも身体は軽い気がしていたし、歩くことそのものがつらいわけでもない。
けれど、日が高くなるにつれて、少しずつ足に重さが戻ってきた。
道も次第に細くなり、地面の傾斜も最初より大きくなっている。
一歩。
もう一歩。
まだ歩ける。
フィアは、そう思った。
息は少し速くなっているし、脚にも重さがあった。
それでも、歩けないわけではない。
少し前にはシリウスとルカがいる。
自分が止まれば、二人も止まることになる。
――大丈夫。
いつものように、そう言えばいい。
フィアは口を開きかけた。
けれど、言葉が出る前に閉じる。
本当に、大丈夫なのだろうか。
歩ける。
それは嘘ではない。
けれど今は、少し休みたい。
そのことも、同じくらい本当だった。
歩けるのなら、休んではいけない。
そんな決まりは、どこにもない。
フィアは自分から足を止めた。
今度は、水の匂いも、車輪の音もない。
怖くなったからでもない。
自分で、止まった。
「シリウス」
前を歩いていたシリウスが、すぐに振り返る。
ルカも足を止めた。
フィアは一瞬だけ迷ってから、二人を見た。
「……少し、休みたい」
シリウスはすぐに頷いた。
「では、休みましょう」
それだけだった。
ルカも当然のことのように周囲を見回す。
「あそこがいいかな」
道脇に、大きな木が一本立っていた。
太い根が地面から張り出し、その周囲だけ比較的平らになっている。
三人はそこまで移動し、荷物を下ろした。
フィアが木の根元へ腰を下ろすと、それを待っていたように脚から力が抜けた。
思っていたよりも疲れていたらしい。
ルカが水筒を差し出す。
「はい」
「ありがとう」
少し水を飲むと、冷たさが喉を通っていった。
続いて渡されたのは、小さく切ったパンと干し果物だった。
まだあまり食欲はなかったが、フィアはパンを一口齧る。
何も食べないよりはいい。
ゆっくり噛んで飲み込み、少し間を置いてから、もう一口。
向かいではルカもパンを食べていた。
シリウスも荷物のそばに腰を下ろしている。
そのシリウスが姿勢を変えたとき、ほんの一瞬だけ脇腹へ意識を向けたのが分かった。
まだ傷は残っている。
昨日、フィアが治せたのは全部ではないのだから、当然だった。
それでも、シリウスは何も言わない。
ルカだって疲れているはずだ。
こうして座ってみれば、二人とも自分と同じように休んでいる。
そのことに気づくと、フィアの肩から少しだけ力が抜けた。
自分が止まったせいで、二人まで止めてしまった。
そう考えることもできる。
けれど、二人だって休めるなら休んだ方がいい。
そう思っても、いいのかもしれなかった。
しばらくして、フィアは木の幹から背を離した。
すぐには立ち上がらず、まず脚へ力を入れてみる。
さっきまで感じていた重さは薄れていた。
呼吸も落ち着いている。
それを確かめてから、ゆっくり立ち上がった。
シリウスが視線を向けたが、手は出さない。
フィアはその場で身体を動かし、もう一度、自分の調子を確かめた。
大丈夫。
今度は、ただそう思い込んだのではない。
休んで、自分で確かめた。
「もう行ける」
そう告げると、シリウスも立ち上がった。
「分かりました」
「じゃ、もう少し進もうか」
ルカも残った荷物をまとめ、三人は再び歩き出す。
午後になるころには、道の様子もすっかり変わっていた。
地面に残っていた荷馬車の轍はいつの間にか消え、左右から迫る木々に押されるように道幅も狭くなっている。
山の奥へ入ってきたのだと、はっきり分かった。
朝は明るかった空にも、いつの間にか薄い雲が広がっていた。
木々の間を抜ける風も、朝より冷たくなっていた。
そこには、どこか湿った匂いも混じっている。
ルカが足を止め、木々の向こうに見える空を見上げる。
「……ちょっと嫌な天気だな」
シリウスも同じ方向を見る。
「降りそうか」
「たぶん」
「戻ったほうがいい?」
フィアが尋ねると、ルカは来た道と先に続く道を見比べ、少し考えてから首を振った。
「ここまで来ると、戻るより先へ行った方が近い。雨が強くなる前に、休める場所まで行こう」
三人は、それまでより少しだけ歩みを速めた。
風がもう一度吹き抜け、頭上の葉をざわめかせる。
フィアは深く被ったフードを押さえた。
その頬に、ふいに冷たいものが触れる。
「……あ」
指先で触れてみると、ほんの少し濡れていた。
フィアが空を見上げる。
その目の前を、もう一滴。
雨が落ちてきた。




