72話-1 (分岐バッドエンド)
※この先は分岐となります。
物語の本筋を追う場合は、73話へ。
雨は、すぐに強くなった。
最初は頬を濡らす程度だったはずなのに、三人が歩き出して間もなく、木々の葉を叩く音が途切れなくなる。
「思ったより早いな」
ルカが空を見上げた。
木々の隙間から見える空は、もう一面の灰色だった。
「休める場所までは?」
シリウスが尋ねる。
「この先。そんなに遠くないよ」
ルカは答えたものの、その声には少し焦りが混じっていた。
三人は歩みを速めた。
だが、山道は進むほど細くなっていく。
乾いていた土は雨を吸い、すでにところどころ泥へ変わっていた。
フィアはフードを押さえながら、足元を確かめて進む。
休んだおかげで、脚の重さはさっきよりましになっている。
まだ歩ける。
今度は、無理にそう思い込んでいるわけではなかった。
ただ、雨が強い。
「フィア様、足元を」
「うん」
シリウスは少し前を歩きながら、何度も振り返った。
そのたびにフィアがついてきていることを確認している。
ルカはさらに前で道を探していた。
「ここ、少し滑るから気をつけて」
斜面から細い水が流れ始めている。
土の表面を削りながら、道を横切って下へ落ちていく。
フィアは慎重にそこを越えた。
雨脚は、さらに強まった。
木々の下にいても、もうほとんど意味がない。
外套もフードも濡れ、冷たさが少しずつ身体へ染み込んでくる。
やがて遠くで、低い音がした。
雷とは違った。
何か重いものが、地面の奥で動いたような音。
シリウスが足を止める。
ルカも振り返った。
「今の……」
その言葉が終わる前に、斜面から小石が転がってきた。
一つ。
二つ。
次第に数が増える。
「急ぎましょう」
シリウスの声が低くなる。
三人は再び進んだ。
その直後だった。
背後で大きな音がした。
フィアが振り返る。
さっきまで歩いていた道へ、土と岩が崩れ落ちていた。
「……道が」
完全に塞がれたわけではない。
けれど、簡単に戻れる状態でもなかった。
ルカが一度だけそれを見て、前へ向き直る。
「先へ行こう。戻る方が危ない」
シリウスも頷いた。
「フィア様、私から離れないでください」
「うん」
三人は進む。
雨音が何もかもを覆っていた。
呼吸の音も。
足音も。
声さえも。
それでも前へ進むしかなかった。
もう少し。
ルカが言っていた休める場所まで行けばいい。
そう思ったとき。
また、地面の奥から音がした。
今度は近い。
フィアが顔を上げる。
「ルカ――」
ルカも気づいた。
「走って!」
同時に、斜面が動いた。
木の根が土ごと剥がれる。
岩が転がり落ちる。
茶色い水と泥が、一気に道へ押し寄せた。
「フィア様!」
シリウスが戻ってくる。
腕を掴まれた。
そのまま強く引かれ、フィアの身体がシリウスの胸へぶつかる。
次の瞬間、何かが激しくぶつかる音がした。
世界が揺れた。
足元がなくなる。
フィアは何が起きたのか分からなかった。
ただ、シリウスの腕だけが離れなかった。
身体が地面へ叩きつけられる。
息が止まる。
泥。
雨。
冷たい水。
耳鳴り。
しばらく、何も聞こえなかった。
「……フィア!」
遠くから声がした。
フィアは目を開けた。
「ル、カ……」
声が掠れる。
身体を動かそうとすると、背中に痛みが走った。
けれど、動く。
腕も。
脚も。
大きな怪我はしていない。
「シリウス……?」
返事がない。
すぐそばに銀色が見えた。
泥に汚れた髪。
フィアは息を呑んだ。
「シリウス!」
シリウスはフィアを庇うような姿勢のまま倒れていた。
「シリウス、ねえ……!」
身体を起こす。
シリウスの片脚と腰のあたりに、大きな岩と折れた木が重なっていた。
フィアの血の気が引いた。
「待って、今――」
「フィア、そこから動かないで!」
ルカが斜面の向こうから叫んだ。
彼も泥だらけだった。
額から血が流れている。
片腕を庇いながら、それでもこちらへ向かってくる。
「まだ崩れるかもしれない!」
「でも、シリウスが……!」
シリウスの瞼が動いた。
ゆっくりと目が開く。
「……フィア、様」
「シリウス」
声を聞いた瞬間、胸の奥が痛くなった。
生きている。
「今、治すから」
フィアはシリウスのそばへ膝をついた。
手を傷の近くへ伸ばす。
「お待ち……ください」
シリウスの手が、かろうじてフィアの手首へ触れた。
力はほとんどない。
「フィア様……昨日、力を使ったばかりです」
「でも」
「駄目です」
「このままじゃ駄目だよ」
フィアは首を振った。
「私、少しだけならできるから」
淡い光が、指先に灯る。
シリウスが何か言おうとした。
けれど、フィアは止めなかった。
光がシリウスの身体へ染み込んでいく。
昨日より、ずっと弱い。
深い傷までは届かない。
それでも流れ出す血が少し減った。
荒かった呼吸も、ほんのわずかに落ち着く。
その代わり、フィアの身体から急速に熱が失われていった。
「フィア」
ようやく辿り着いたルカが肩を掴む。
「もうやめて」
「まだ……」
「駄目だ」
珍しく強い声だった。
「君まで倒れたら、どうにもならない」
光が消える。
フィアの腕が落ちた。
息を整えるだけで精一杯だった。
ルカがシリウスの状態を確認する。
岩を動かそうとして、顔を歪めた。
怪我をした腕では力が入らない。
「くそ……」
「ルカも、怪我が……」
「僕はいい」
ルカは短く答えた。
もう一度岩へ手を掛ける。
フィアも手を伸ばした。
「私も」
「無理だよ」
「でも」
「二人でやっても、これは動かない」
ルカは周囲を見た。
雨はまだ激しい。
崩れた道の先も、土砂に塞がれていた。
背後も同じだった。
逃げ道がない。
三人は、山の中に取り残されていた。
それから、どれほど時間が過ぎたのか分からなかった。
雨は止まない。
シリウスを岩の下から完全に助け出すことはできなかった。
ルカが折れた枝や石を少しずつ取り除き、フィアもできることを手伝った。
けれど、シリウスの脚は動かなかった。
フィアの力も、もうほとんど残っていない。
ルカも治癒の魔法を使った。
傷口を少し塞ぐことはできた。
けれど、それ以上は続かなかった。
「……情けないな」
ルカが自分の手を見る。
何度試しても、もう光は灯らなかった。
「こんな時に限って」
「ルカのせいじゃないよ」
フィアは言った。
声が震えた。
「私も……できないから」
シリウスが薄く目を開けた。
「二人とも……もう、やめてください」
「でも」
「十分です」
弱い声だった。
それでも、いつものシリウスの言い方だった。
雨が少しずつ冷たくなる。
日も傾き始めていた。
ルカは比較的乾いていた場所を探し、崩れた木の下へ簡単な覆いを作った。
シリウスを動かせないため、結局三人ともその近くで夜を越すしかなかった。
フィアの肩に、シリウスの外套が掛けられる。
「シリウスが使って」
「私は平気です」
「平気じゃないよ」
「フィア様」
シリウスがフィアを見る。
「お願いします」
その目を見て、フィアはそれ以上返せなかった。
ルカも残っていた食べ物をフィアへ差し出す。
「これも」
「ルカが食べて」
「僕は昼に食べたから」
「私も食べたよ」
「じゃあ半分」
「……うん」
フィアはパンを半分に割った。
ルカに返す。
今度はルカも拒まなかった。
雨音の中で、三人は身を寄せた。
誰も眠れなかった。
シリウスの呼吸が乱れるたび、フィアは顔を上げた。
ルカも同じだった。
「シリウス」
「……はい」
返事がある。
それだけで、少し安心する。
しばらくして、また呼ぶ。
「シリウス」
「……おります」
その声は、少しずつ弱くなっていった。
夜が深くなる。
寒かった。
フィアはシリウスの手を握っていた。
冷たい。
自分の手も同じくらい冷たいのかもしれない。
「明日になったら」
フィアは小さく言った。
「雨、止むかな」
「止む」
ルカが答えた。
根拠があるようには聞こえなかった。
それでもフィアは頷いた。
「止んだら、助けを呼べるね」
「うん」
「三人で、ここから出られるよね」
一瞬だけ間があった。
「……うん」
ルカは答えた。
フィアはそれ以上何も言わなかった。
朝方。
雨音が変わった。
フィアはいつの間にか閉じていた目を開く。
まだ雨は降っていた。
けれど、昨夜ほどではない。
空も少し明るくなっている。
「ルカ」
隣を見る。
ルカもすぐに目を開けた。
眠ってはいなかったのかもしれない。
シリウスも意識はあった。
「雨……弱くなったよ」
フィアが言う。
そのときだった。
遠くで、声がした。
三人とも動きを止める。
もう一度。
人の声。
「誰か……いる?」
フィアは立ち上がった。
脚がふらつく。
「フィア、待って」
ルカが止めるより早く、フィアは声のする方へ向かった。
「ここです!」
喉が痛い。
それでも叫ぶ。
「ここにいます!」
返事があった。
複数の足音。
枝を掻き分ける音が近づいてくる。
助かった。
フィアはそう思った。
誰でもよかった。
シリウスを助けられる。
ルカも。
三人でここから出られる。
木々の向こうに、人影が現れた。
白い外套。
その胸元にある印を見た瞬間。
フィアの身体が止まった。
教会の紋章。
「――聖女様」
先頭の男の顔が変わる。
驚き。
そして、安堵。
「聖女様を発見しました!」
後ろへ声が飛ぶ。
「ご無事です!」
何人もの人間がこちらへ駆けてくる。
フィアは一歩下がった。
「待って」
男たちはフィアを囲んだ。
「お怪我は」
「私は大丈夫です、それより」
毛布が肩へ掛けられる。
「お身体が冷えています。こちらへ」
「違うの、二人が」
フィアは振り返る。
「シリウスとルカが怪我をしてるの。助けて」
教会の者たちも、ようやく二人へ目を向けた。
その瞬間、空気が変わった。
「……守護騎士シリウス」
誰かが呟いた。
別の男がルカを見る。
「もう一人、共犯者がいる」
「違う!」
フィアは声を上げた。
「二人は私を助けてくれたの」
その言葉だけが、誰にも聞こえていないようだった。
「情報通りだ。白い髪の女性と、男が二人」
誰かが小声で言った。
その言葉に、昨夜の男の視線が脳裏に浮かぶ。
風に煽られたフードの隙間から覗いた、白金の髪。
あのとき見られたのだ。
シリウスが身を起こそうとした。
「フィア様……」
思うように身体が動かない。
それでも、泥の上へ手をついて起き上がろうとする。
「フィア様から……離れろ」
教会の男たちが警戒する。
フィアは慌ててその間へ入ろうとした。
「待って、シリウスは怪我してるの。ルカも。お願い、二人も助けて」
先頭の男は、フィアへ穏やかに頭を下げた。
「もちろんです、聖女様」
その言葉に、フィアの肩から少しだけ力が抜けた。
「本当に?」
「はい。すぐに人を向かわせます」
「じゃあ、私もここに――」
「聖女様は先にお戻りください」
フィアの手を取ろうとする。
フィアは反射的に引いた。
「嫌」
男が止まる。
「二人と一緒に行く」
「聖女様」
「一緒じゃないなら、行かない」
声は震えていた。
それでもフィアは二人の前から動かなかった。
男は困ったように眉を下げる。
怒ってはいない。
むしろ、幼い子供を宥めるような声だった。
「ご安心ください」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
「お二人については、後続の者が必ず救助いたします。ご安心ください」
「だったら今――」
「まずは聖女様のお身体が最優先です」
別の者が担架を持ってくる。
フィアは首を振った。
「歩ける。だから待って」
「無理をなさらないでください」
「無理じゃない」
腕を取られる。
強くはない。
けれど、離してくれない。
「シリウス!」
シリウスが身体を起こそうとする。
「フィア様!」
その声に、教会の者が二人の間へ立った。
ルカも立とうとして、膝をつく。
「フィアを連れていくな」
「下がれ」
「フィア!」
フィアは手を伸ばした。
届かない。
ほんの数歩しか離れていないのに。
「待って!」
誰も止まらなかった。
毛布を掛けられたまま、フィアは支えられて山道を下ろされていく。
「二人も連れてきて!」
何度も振り返る。
「お願い、置いていかないで!」
先頭の男が静かに答える。
「大丈夫です」
また、その言葉だった。
「今はご自身のお身体をお考えください」
木々の間に、二人の姿が小さくなる。
シリウスが何か叫んでいる。
ルカも。
けれど、雨音に混じって聞き取れない。
「シリウス!」
フィアは名前を呼んだ。
「ルカ!」
返事は聞こえない。
何度呼んでも。
やがて木々に遮られ、二人の姿も見えなくなった。
山を下りた場所には、教会の馬車が待っていた。
乾いた毛布。
温かい飲み物。
柔らかな座席。
フィアは馬車の中へ座らされる。
「もう安心してください」
扉の外から、優しい声がした。
「聖女様は、無事に保護されました」
扉が閉じる。
フィアは窓へ手を伸ばした。
雨に濡れた山が、少しずつ遠ざかっていく。
「……シリウス」
返事はない。
「ルカ……」
当然、返事はなかった。
二人も必ず助けると言っていた。
だから、きっと後から来る。
だから。
助かったはずだった。
そう思わなければならないはずだった。
フィアは、馬車が山から遠ざかってもずっと、二人の名前を呼び続けていた。
その後、フィアが二人と再会することはなかった。
bad end.
保護




