73話 崩れた道
雨は、すぐに強くなった。
最初は頬を濡らす程度だったはずなのに、三人が歩き出して間もなく、木々の葉を叩く音が途切れなくなる。
「思ったより早いな」
ルカが空を見上げた。
木々の隙間から見える空は、もう一面の灰色だった。
「休める場所までは?」
シリウスが尋ねる。
「この先。そんなに遠くないよ」
ルカは答えたものの、その声には少し焦りが混じっていた。
三人は歩みを速めた。
だが、山道は進むほど細くなっていく。
乾いていた土は雨を吸い、すでにところどころ泥へ変わっていた。
フィアはフードを押さえながら、足元を確かめて進む。
その時、斜面から小さな石が転がってきた。
ひとつ。
続いて、もうひとつ。
前を歩いていたルカが足を止める。
「……ちょっとまずいな」
シリウスも斜面を見上げた。
「急いだ方がいいか」
「うん。この先まで抜けよう」
ルカが歩き出す。
フィアも続こうとした。
そのときだった。
低い音がした。
雷ではない。
もっと近い。
地面の下から響いてくるような音だった。
足元が、わずかに揺れた。
フィアの呼吸が止まる。
斜面の土が雨水と一緒に流れ始めている。
「フィア様?」
シリウスが振り返った。
進まなければ。
ここにいる方が危ない。
分かっている。
なのに。
フィアは足を前へ出そうとした。
動かない。
地面に縫い止められたように、足が離れなかった。
「……シリウス」
「はい」
シリウスがすぐに戻ってくる。
「ごめん、足が……」
もう一度、低い音が響いた。
フィアは肩を震わせた。
「シリウス……」
声が掠れる。
「怖い」
シリウスは何も言わず、フィアの前まで戻った。
そして手を差し出す。
「ここにおります」
フィアはその手を取った。
強く握っても、シリウスは引かなかった。
ただ待っている。
前方から戻ってきたルカが二人を見る。
フィアが握っているのは、シリウスの手だった。
「シリウス……」
また名前を呼ぶ。
ルカは一度だけ、遠くを見るように視線を逸らした。
けれど、すぐ斜面へ目を戻す。
「……少し待とう」
「しかし」
「分かってる。ここにいるのも危ない」
ルカは地面を見る。
「でも、今無理に歩かせる方が――」
轟音が響いた。
三人が同時に顔を上げる。
前方の斜面が崩れた。
木が倒れる。
岩が落ちる。
大量の泥と水が、道そのものを押し流していく。
フィアは息を呑んだ。
ほんの少し前まで、三人が進もうとしていた場所だった。
あと数秒。
足が動いていたら。
「――フィア様!」
シリウスに強く引き寄せられた。
何かが飛んでくる。
枝が折れる音。
石がぶつかる鈍い音。
シリウスがフィアを抱え込み、その身体を覆う。
「シリウス!」
崩落の音が遠ざかる。
シリウスがゆっくり身体を離した。
「お怪我は」
「私は……」
ない。
そう答えようとして、フィアは止まった。
シリウスの肩から上腕にかけて、服が裂けている。
雨に混じって血が流れていた。
「シリウス、血が……」
「この程度なら問題ありません」
シリウスはそう言ったが、腕を動かした瞬間、わずかに眉が動いた。
フィアの胸が締めつけられる。
「私が……」
声が震えた。
「私が止まったから」
「逆だよ」
ルカの言葉にフィアが顔を上げる。
ルカは崩れた道を見ていた。
「君が止まらなかったら、今頃三人ともあそこに飲み込まれてたよ」
土砂はまだ少しずつ斜面を流れている。
さっきまであった道は、ほとんど残っていなかった。
フィアは何も言えなかった。
歩けなかった。
怖くて、動けなかった。
それなのに。
そのせいで、助かった。
シリウスの傷が目に入る。
フィアは反射的に手を伸ばした。
淡い光を呼ぼうとして――止まる。
宿でのことが頭をよぎった。
力を使ったあと、動けなくなった自分。
シリウスとルカの顔。
フィアは伸ばしかけた手を握った。
「……治しても、いい?」
シリウスが少し驚いたように目を瞬いた。
それから首を振る。
「必要ありません」
「でも」
「傷は浅いです」
ルカもシリウスの肩を確認する。
「血は出てるけど、深くはないよ。ただ……」
シリウスが腕を上げようとする。
途中で止まった。
「しばらく、その腕で剣は振れないと思う」
「そうか」
シリウスは淡々と答える。
フィアには、その方が問題に思えた。
けれどルカはフィアを見る。
「だからって、君が倒れるまで治す傷じゃない」
フィアは少し迷ったあと、手を下ろした。
「……うん」
ルカが持っていた布で傷を押さえ、簡単に固定する。
その間に雨はさらに強くなった。
「問題は道だな」
ルカが立ち上がり、周囲を確認する。
前は完全に塞がれている。
戻る側にも土が流れ始めていたが、まだ通れないほどではない。
ルカは濡れた地図を庇いながら開いた。
「迂回できる道はある」
「距離は?」
シリウスが聞く。
「かなり遠回りになる。いったん山を下りて、大きな街道に出る道」
ルカは空を見る。
「元の宿場まで戻るよりはましだけど、今日中に目的の道へ戻るのは無理だね」
シリウスが地図へ視線を落とした。
「大きな街道なら、人目も増える」
「うん」
ルカもそれは分かっているようだった。
「追ってる連中に見つかる可能性は上がる。でも、今はこっちの方がいい」
ルカは崩れた山道を振り返る。
「この雨の中で、細い道を探しながら歩く方が危ない。まずは安全に歩ける場所まで出よう」
シリウスも少し考えてから頷いた。
「……そうだな」
フィアは自分の腕を抱いた。
濡れた服が冷たい。
風まで吹き始め、体温を奪う。
「フィア、行ける?」
ルカに聞かれ、フィアは少しだけ考えた。
さっきのように反射的に答えない。
脚を見る。
息を整える。
怖さはまだ残っていた。
けれど、今度は足が動く。
「……行ける」
シリウスがフィアを見る。
「無理だと思ったら、すぐに仰ってください」
「うん」
三人は来た道を少し戻り、迂回路へ入った。
雨の中を歩き続ける。
細い山道を下り、ぬかるんだ坂を越える。
時折、シリウスが傷めた腕を庇う仕草をした。
そのたびにフィアは気になったが、もう治癒の力へ手を伸ばすことはしなかった。
日が傾き始めた頃。
ようやく木々の向こうが開けた。
「……出た」
ルカが息を吐く。
そこには、山中の細道とは比べものにならないほど広い街道が伸びていた。
フィアも少しだけ肩の力を抜く。
だが、雨は止まない。
むしろ気温はさらに下がっていた。
ここからまた歩くのだろうか。
そう思ったとき。
遠くから馬の蹄と、車輪の音が聞こえた。
「馬車?」
フィアが顔を上げる。
街道の向こうから、何台もの荷馬車が近づいてくる。
厚い幌を掛けた大きな荷車。
護衛らしい者もいる。
荷台には樽や木箱、袋が隙間なく積まれていた。
ルカが目を細める。
先頭の馬車の側面に描かれた紋章を見た瞬間、その表情が変わった。
「……クロウ家」
シリウスがルカを見る。
「知っているのか」
「何度か取引したことがある。この山の上に屋敷があるんだ」
馬車の一団も三人に気づき、速度を落とした。
やがて先頭の馬車から男が降りてくる。
フィアたちを見回したあと、その視線がルカで止まった。
「……ルカさん?」
ルカが苦笑する。
「久しぶり」
「これは驚きました。どうしてこのようなところに」
男はそう言いながら、すぐに三人の状態へ気づいた。
「お怪我を?」
「ちょっとね。山道が崩れたんだ」
「やはり……」
男が背後の荷馬車を見る。
「この時期は長雨に備えて、屋敷へまとめて備蓄を運ぶのです。今日は天候が崩れる前に戻る予定だったのですが……」
男がこちらへ歩み寄る。
「この雨の中、徒歩で進むのは危険です。旦那様の屋敷はここからそう遠くありません」
シリウスの肩へ目を向ける。
「手当てもできます。よろしければ、馬車へ」
シリウスがルカへ小さく尋ねる。
「屋敷の主人は信用できるのか」
ルカはすぐには答えなかった。
「……少なくとも、泊めた客を殺すような人じゃないよ」
シリウスが無言でルカを見る。
フィアは二人を見比べた。
何の話をしているのか、よく分からない。
シリウスはフィアを見る。
「フィア様」
その意味が分かって、フィアは少し迷った。
雨は冷たい。
シリウスは怪我をしている。
ルカも疲れている。
街道は、この先も長く続いていた。
ルカの反応だけが少し気になった。
それでも。
「……助けてもらおう」
フィアは自分でそう言った。
「ここにいるより、きっといいから」
シリウスが頷く。
「分かりました」
三人はクロウ家の馬車へ乗せてもらうことになった。
馬車の中は暖かかった。
乾いた布も渡され、シリウスの肩には改めて応急処置が施された。
フィアはようやく震えが治まっていくのを感じた。
窓の外では、雨がまだ降り続いている。
長い山道を、馬車はゆっくりと上っていった。
やがて木々の向こうに灯りが見える。
ひとつではない。
いくつもの窓から、暖かな光が漏れていた。
大きな屋敷だった。
「着きました」
使用人の声がする。
フィアは小さく息を吐いた。
今夜は雨に濡れずに済む。
シリウスの傷も、ちゃんと診てもらえる。
そう思うと、張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。
隣を見る。
ルカだけが、窓の向こうの屋敷を見つめていた。
少し難しい顔をしている。
「……ルカ?」
フィアが不思議そうに名前を呼ぶ。
ルカは一度だけフィアを見た。
そのとき、馬車が止まった。
扉が開く。
雨音とともに、クロウ邸の明かりが三人を迎えた。




