74話 雨宿りの城館
馬車を降りたフィアは、改めて屋敷を見上げた。
雨に霞んでいても、その大きさはよく分かる。
厚い石壁に囲まれた建物は、屋敷というより小さな城館に近かった。
古い外壁には蔦が這い、窓や扉はどれも頑丈そうな造りをしている。
長い年月、ここにあるのだろう。
雨や風から、中にあるものを守るための建物。
けれど同時に、一度中へ入ったものを外へ逃がさないための壁にも見えた。
そんな考えが一瞬浮かび、フィアはすぐに首を振った。
寒さで、考えすぎているだけだ。
「こちらへ。まずは身体を温めてください」
馬車に乗っていた男に促され、三人は屋敷へ入った。
正面の広い廊下から脇へ続く通路を進み、案内されたのは使用人たちが使う食堂兼休憩所だった。
大きな卓と椅子が並ぶ簡素な部屋だったが、壁際の暖炉には火が入り、外の冷たい雨とは別の世界のように暖かい。
三人が中へ入ると、使用人たちはすぐに動いた。
乾いた布と温かい飲み物が用意され、濡れた服も乾かすからと、着替えまで貸してくれることになった。
「大変でしたね。まずは温まってください」
「ありがとうございます」
フィアは湯気の立つ杯を両手で包んだ。
熱が、冷えきった指先からゆっくり戻ってくる。
その間に、ルカはシリウスの肩を確認していた。
裂けた服の下は赤く腫れていたが、出血はほとんど止まっている。
「骨は大丈夫そう。血も止まってる」
ルカは傷の周囲を確かめ、顔を上げる。
「でも今日は絶対その腕使わないで。剣もね」
「……ああ」
「必要でしたら、明朝には先生をお呼びできますよ」
近くにいた使用人が言った。
シリウスは断ろうとしたが、フィアの視線に気づいて口を閉じる。
ルカが小さく笑った。
「診てもらえるなら、診てもらおうよ」
「……分かった」
そのやり取りを見ていた女性の使用人が、今度はルカをじっと見た。
「もしかして……以前、薬を持ってきてくださったルカさんですか?」
「そうだけど。覚えててくれたの?」
「覚えてますよ。熱冷ましと傷薬をずいぶん安く譲ってくださって。それに、あの香辛料も」
「辛いやつ?」
「そうです。料理長が気に入って、しばらく何にでも入れて大変だったんですから」
「それは僕の責任じゃないなあ」
周囲から小さな笑いが起こった。
「ルカさんにはよくしてもらいましたから。お連れの方なら遠慮なさらないでください」
「ありがとう。助かるよ」
その様子を見て、フィアも少しだけ肩の力を抜いた。
ルカはどこへ行っても誰かと話し、いつの間にか相手との距離を縮めている。
旅の途中でも何度も見た光景だった。
馬車から案内してきた男が、三人の様子を確認してから口を開く。
「ルカさんのお知り合いであれば問題ないとは思いますが、私の判断だけでお泊めするわけにはまいりません。旦那様に確認してまいります」
どうやら、この屋敷では古くから働いている者らしい。
「それまで、こちらでゆっくりなさってください」
男が部屋を出ると、他の使用人たちもそれぞれの仕事へ戻っていった。
フィアは女性使用人に別室へ案内され、三人はそれぞれ借りた服へ着替えた。
フィアは白いブラウスと濃い色の長いスカート。シリウスとルカも、使用人たちが普段着ている簡素なシャツとズボンだった。
旅装を脱いだだけで、三人とも少し違って見える。
シリウスの肩には布が巻かれていた。
フィアはそれを気にしながら、温かい飲み物をもう一口飲む。
身体の震えは、ようやく治まり始めていた。
「ルカ」
シリウスが呼んだ。
「何?」
「先ほど、この屋敷があることは知っていたと言ったな」
「言ったね」
シリウスは少し考えてから続ける。
「……この辺りを避けるような道を選んでいなかったか」
ルカは一瞬黙り、それから苦笑した。
「気のせいじゃないかもね」
「なぜだ」
「ここの主人が、ちょっと変わり者なんだよ」
「危険な人物なのか?」
「そういうわけじゃない」
ルカは杯を持ったまま、少し考える。
「僕とはあんまり気が合わないかも、ってだけ」
冗談めいた声音だった。
けれど、詳しく話すつもりはなさそうだった。
フィアは窓の外を見る。
雨の向こうに、高い石壁が見える。
「ルカ、ここの人たちは、こんな山の中で買い物はどうしてるの?」
「今日みたいに、まとめて運ぶんだよ」
ルカも窓へ目を向けた。
「食料も薬も日用品も、何度も山を下りなくて済むように多めに置いてある。倉庫も大きいし、裏には畑もあるよ」
「じゃあ、あまり外に出なくても暮らせるんだね」
「まあ、ほとんどはね」
街から離れているのに、食べ物も薬も揃っている。
外へ出なくても暮らせる場所。
今のフィアには、それが少し羨ましく思えた。
「ルカも、よくここまで売りに来てたの?」
「たまにね。使用人たちには薬とか雑貨とか、調味料とか」
「そのためだけに、この山の中まで?」
フィアが尋ねると、ルカの口元がわずかに変わった。
「それだけじゃないよ。ここの主人は珍しいものが好きでね。古い外国の本とか、異国の装飾品とか、古い遺物とか」
「そんなものも売るの?」
「商人だからね。欲しい人がいて、手に入るなら持ってくるよ」
ちょうどその時、扉が開いた。
先ほどの男が戻ってくる。
「お待たせいたしました。旦那様が、せっかくのお客様ですから、ぜひ夕食をご一緒にとのことです」
ルカの眉が、ほんの少しだけ動いた。
「分かった。ありがたくいただくよ」
食堂へ向かう前、ルカがフィアを見て何かを思い出した。
「フィア、ちょっと待って」
「?」
近くにいた女性使用人へ声をかける。
「スカーフ、借りられる?」
一枚持ってきてもらうと、ルカは声を落とした。
「使用人たちにはもう見られたけど、主人にはまだ見られてないから。念のためね」
フィアは自分の髪へ触れた。
白金の髪。
この髪が、自分の正体を隠すうえでどれだけ厄介なのかは、もうよく分かっている。
「うん」
スカーフで髪をまとめ、外からほとんど見えないように覆う。
それから三人は、屋敷の奥へ案内された。
使用人区画を離れるにつれ、廊下の様子が変わっていく。
古い絵画。
小さな彫像。
見慣れない文字が刻まれた金属板。
どこの国のものか分からない器や装飾品。
どれも派手に飾られているわけではなかった。
ただ、ひとつひとつが傷つかないよう、丁寧に置かれている。
やがて、小さめの食堂へ通された。
大勢を招くための場所ではなく、主人が普段使う部屋なのだろう。
食卓の向こうに、一人の男が座っていた。
五十を過ぎているように見える。
細い顔立ちに、きちんと整えられた髪。
暗い色の服は装飾こそ少ないが、一目で上質なものだと分かった。
細い銀縁の眼鏡の奥から、静かな視線が三人へ向けられる。
最初にその目が止まったのはルカだった。
「久しぶりですね、ルカ」
穏やかな声だった。
ルカも軽く笑う。
「久しぶりだね」
「随分と長く顔を見せませんでしたね」
「僕も色々忙しくて」
「相変わらずのようで安心しました」
ヴァレリウス・クロウは立ち上がった。
「雨の中、大変だったそうですね。どうぞ、お掛けください」
敵意はない。
無理に事情を探ろうとする様子もなかった。
三人が席へ向かうと、ヴァレリウスがルカへ視線を戻す。
「そちらのお二人は?」
「フィア。こっちはシリウス」
ルカはいつもの軽い調子で答えた。
「この辺りの道案内を頼まれて、一緒に来てたんだ。ちょっと訳ありみたいだけど、僕もあんまり事情は聞いてなくてね」
「そうですか」
ヴァレリウスはそれ以上尋ねなかった。
ルカが適当に誤魔化していることくらい、分かっているようにも見えた。
「フィアさん、ですね」
名前を確かめるように繰り返され、フィアは小さく頷く。
「はい」
フィアが席へ着こうと身体を動かした時、髪を覆っていたスカーフがわずかにずれた。
耳元から、一房だけ白金の髪が落ちる。
ヴァレリウスの視線が、そこへ止まった。
ほんの一瞬だった。
フィアは気づき、すぐに髪をスカーフの中へ戻す。
ヴァレリウスは穏やかに微笑んでいた。
それ以上、何も言わない。
食事が始まった。
温かなスープに、焼いた肉と野菜。
柔らかなパンも並べられている。
昼からほとんどまともに食べていなかったことを、フィアはようやく思い出した。
「遠慮なく召し上がってください。身体が冷えたあとは、温かいものを入れた方がいい」
「ありがとうございます」
フィアはスープへ手を伸ばす。
その時、向かい側から視線を感じた。
顔を上げると、ヴァレリウスと目が合った。
彼は何事もなかったように微笑む。
フィアも小さく会釈し、視線を戻した。
嫌な感じではない。
ただ、よく見られている。
そんな気がした。
少しして、卓の端に置かれた水差しへフィアが手を伸ばした。
それより先に、シリウスが動く。
傷めた側の腕だった。
「シリウス」
フィアが止める。
「大丈夫。シリウスは腕を動かさないで」
シリウスの手が止まった。
「ですが」
「自分で取れるよ」
フィアは水差しを引き寄せた。
シリウスは少し迷ったあと、手を戻す。
「……分かりました」
そのやり取りの間、ヴァレリウスは黙って二人を見ていた。
フィアを見る。
次に、フィアを見ているシリウスを見る。
そして、二人の間へ視線を落とす。
シリウスも気づいたのか、わずかに目を細めた。
「……なるほど」
ヴァレリウスが小さく呟く。
フィアは顔を上げた。
「?」
けれど、ヴァレリウスは何も説明しなかった。
ルカがすぐに口を挟む。
「そういえば、前に持ってきた本。まだ持ってる?」
「もちろん」
ヴァレリウスの注意がルカへ移った。
「大切に保管していますよ。あれほど状態の良いものは、そう簡単には手に入りませんから」
「それならよかった。でも、ちゃんと読んだ? 本なんだから中身に価値があるんでしょ」
「一度だけ。希少なものですから、あまり触れるのはよくありません」
「相変わらずだね。ヴァレリウスさんは、物を使うより集めておく方が好きみたいだ」
「少し語弊がありますね」
ヴァレリウスは穏やかに答えた。
「貴重なものを、そのまま残したいのです」
「僕には難しいなあ」
ルカは笑った。
いつもと変わらない笑い方だった。
けれど、その目だけは笑っていなかった。
話題が変わってからも、ヴァレリウスの視線は時折フィアへ戻った。
そして、そのたびにシリウスへも向かう。
フィアだけではない。
シリウスだけでもない。
二人がどれほど近くに座り、どんな時に互いを見るのか。
その距離まで確かめるように。
ルカは何度か、さりげなく別の話を振った。
いつものように笑っている。
けれど、どこか様子が違う。
その理由が何なのか、フィアにはまだ分からなかった。




