75話 蒐集家
その夜、三人は用意された一つの客間で休み、何事もなく朝を迎えた。
翌朝には雨も弱まり、窓を叩く音も随分と静かになっていた。
けれど、山道の状況はよくなかった。
朝食のあと、ルカは昨日馬車に乗っていた古株の使用人としばらく話し込み、戻ってくるなり小さく息を吐いた。
「しばらくは無理みたいだね」
「道?」
「うん。昨日崩れたところだけじゃなくて、何ヶ所か土が流れてるらしい。人が通れるようになるまで、少しかかりそう」
フィアは窓の外を見る。
雨に濡れた山は白く霞み、遠くまでは見えなかった。
「別の道は?」
「この辺りは昨日の雨でどこも似たようなものみたいだよ。前の街に戻る大きな道はある程度無事みたいだけど、わざわざ戻って人目につくのも避けたいしね」
すぐに出発するのは難しいらしい。
その話を聞いていたヴァレリウスは、特に困った様子もなく紅茶の杯を置いた。
「それでしたら、道が通れるようになるまでご自由にお過ごしください」
「いいんですか?」
「もちろんです。あの雨の中で来られた方々を、危険な山道へ追い返すほど薄情ではありませんよ」
穏やかに言って、ヴァレリウスはフィアへも微笑む。
「部屋も空いています。必要なものがあれば、使用人に申しつけてください」
「ありがとうございます」
「お気になさらず」
それは、ごく普通の厚意に思えた。
シリウスの怪我も診てもらえる。
雨に濡れず、食事もあり、追手の姿もない。
数日ここに留まることに、フィアはそれほど不安を感じなかった。
食事のあと、ルカは道の状況をもう少し詳しく聞いてくると言って使用人たちのもとへ向かった。
シリウスも傷を診てもらうため、別の部屋へ連れて行かれる。
一人になったフィアへ、女性の使用人が声をかけた。
「お部屋でお休みになりますか?」
「ううん、シリウスが診てもらうまで待ちたい」
「でしたら、この辺りのお部屋でしたらご自由に見ていただいて構いませんよ。旦那様の集められたものがたくさんありますから」
昨日、食堂へ向かう途中にもいくつか目にしていた。
古い絵や、見たことのない形の器。
教会にいた頃には見たこともないものばかりだった。
フィアは礼を言い、教えられた範囲をゆっくり歩いてみることにした。
廊下の先に、小さな部屋があった。
扉は開いている。
中には本棚と飾り棚が並び、書庫というには様々なものが置かれていた。
古い本。
小さな石像。
錆びた金属の道具。
淡い光を宿したまま動かなくなっている魔導具。
何に使うものなのか分からないものまである。
フィアはしばらく棚を眺めていたが、やがて一冊の本に目を止めた。
濃紺の革で覆われた表紙に、金と銀の細い線が走っている。
描かれているのは月と星。
小さな星々を結ぶように銀線が伸び、ひとつの大きな星座を形作っていた。
角には金色の金具が取りつけられている。
古いものなのだろう。
それでも傷はほとんどなく、夜空を閉じ込めたような表紙は今も美しかった。
「……綺麗な本」
思わず呟く。
すると、背後から声がした。
「それに目が留まりましたか」
振り返る。
ヴァレリウスが立っていた。
「あ……すみません。勝手に」
「構いませんよ。この部屋は見ていただいて結構だと伝えてあります」
ヴァレリウスはフィアの横まで来ると、棚の本へ目を向けた。
「気になりますか?」
「はい。文字は読めないけど、表紙がとても綺麗で」
「私も気に入っています」
ヴァレリウスは棚の脇に置かれていた薄手の手袋をつけると、本を慎重に取り出した。
その扱いは、薄い硝子に触れるようだった。
机まで運び、傷がつかないよう静かに置く。
「この文字を使っていた国は、もうありません」
「国そのものが?」
「ええ」
ヴァレリウスが本を開いた。
黄ばんだ紙の上に、フィアの知らない文字が細かく並んでいる。
「国は滅び、人々も各地へ散りました。言葉も文化も少しずつ失われ、今ではこの文字を読める者もほとんどいません」
「じゃあ、何が書いてあるのかも……?」
「それは分かっています」
ヴァレリウスは近くの棚から、薄い紙束を取り出した。
綺麗に揃えられた紙には、フィアにも読める文字が並んでいる。
癖の少ない、几帳面な筆跡だった。
「以前、語学に明るい人物に訳してもらったんです」
フィアは紙へ目を落とす。
整った文字が、行ごとにほとんど乱れなく並んでいた。
「とても綺麗な字ですね」
「意外と几帳面な人物でしてね」
ヴァレリウスがわずかに笑う。
「面倒だ、と何度も言っていましたが、最後まで訳してくれました」
「どんな人なんですか?」
「一ヶ所に留まらず、各地で様々な仕事を請け負っている人物です」
フィアはもう一度、翻訳された紙を見る。
「……すごい」
「何がです?」
「いろんな場所を自由に渡り歩けるのが」
言ってから、少し恥ずかしくなって微笑む。
「ちょっと、羨ましいです」
「そうですか」
ヴァレリウスはそれ以上何も言わなかった。
ただ、その視線が一度だけフィアの頭へ向いた。
今日は髪を隠すため、昨日と同じようにスカーフを巻いている。
何を見ているのだろう。
そう思った時には、もうヴァレリウスの視線は本へ戻っていた。
「これは、どんな本なんですか?」
「その国を旅した人物の記録です」
ヴァレリウスは翻訳された紙を一枚めくる。
「街の様子や、そこで暮らしていた人々のことが書かれています。祭りの日に何を食べたか、どんな服を着ていたか。子どもたちが何をして遊んでいたかまで」
「そんなことまで?」
「ええ」
フィアは開かれた本を見る。
読めない文字。
もう存在しない国。
けれど、ここにはそこで暮らしていた人々の毎日が残っている。
「じゃあ、この本が残ってるから、その人たちがどう暮らしてたか分かるんですね」
「その通りです」
ヴァレリウスは、開かれた本へ静かに視線を落とした。
「失われるものが嫌いでね」
その声は静かだった。
「どれほど美しいものでも、どれほど貴重なものでも、失われてしまえば二度と同じものは手に入りません」
フィアは本の表紙へ目を落とした。
金と銀の星が、朝の淡い光を反射している。
「私も、大切なものがなくなるのは寂しいと思います」
「ええ」
ヴァレリウスは穏やかに頷いた。
「ですから、価値あるものは正しく残されるべきだと思っています」
その時。
「フィア様」
聞き慣れた声に、フィアはすぐ振り返った。
扉のところにシリウスが立っている。
その姿を見た途端、知らずに入っていた肩の力が抜けた。
「シリウス」
シリウスはまず、フィアの無事を確かめるように彼女を見た。
それからヴァレリウスへ向き直り、軽く頭を下げる。
「失礼いたします」
「構いませんよ」
シリウスはそのままフィアの近くまで歩いてきた。
ごく自然な動きだった。
「どうだった?」
「骨には異常ありません」
「本当に?」
「はい。ただ、数日は腕を使わないようにと言われました」
「剣も?」
シリウスが一瞬だけ黙る。
「……はい」
「じゃあ、ちゃんと休んで」
「分かりました」
フィアはほっと息を吐いた。
その様子を、ヴァレリウスは黙って見ている。
シリウスが現れた時のフィア。
フィアの声を聞いた時のシリウス。
どちらも、相手を確かめることを迷わない。
そして気づけば、二人は並んで立っていた。
「フィア様、お部屋へ戻られますか?」
「うん。ルカもそろそろ戻ってるかな」
「では参りましょう」
フィアはヴァレリウスへ向き直った。
「本、見せてくれてありがとうございました」
「こちらこそ。興味を持っていただけて嬉しいですよ」
「とても綺麗でした」
「ええ。大切なものですから」
ヴァレリウスはいつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
フィアはシリウスとともに部屋を出る。
扉を閉める前、何となく振り返った。
ヴァレリウスはまだこちらを見ていた。
本ではなく。
並んで立つ、フィアとシリウスを。
やがて扉が閉じ、その視線も見えなくなった。




