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many merry bad ENDs 聖女がたどる結末たち  作者: 源泉


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70話 三つの道


淡い光は、フィアの掌から包帯の下へ染み込んでいった。


シリウスの身体が、わずかに強張る。

けれど、それは痛みに耐えるためのものではなかった。


包帯の下に残っていた熱が、少しずつ引いていく。

塞がりきっていなかった浅い傷が閉じ、深く息をするたびに走っていた痛みも遠ざかっていった。


痣は消えていない。内側に残る鈍い痛みも、完全になくなったわけではなかった。


それでも、明らかに軽くなっている。


シリウスが息を吸う。先ほどまでのように、脇腹の筋肉が強く引きつることはなかった。



「フィア様」



低い声が落ちた。


フィアは、包帯の上へ重ねた手を見つめていた。

光が零れるたび、身体の内側から何かが抜け落ちていく感覚がある。


痛みはない。


ただ、指先から少しずつ温度が失われていくようだった。



「フィア様、もう十分です」



顔を上げると、シリウスは自分の傷ではなく、フィアを見ていた。

青い瞳が、ひどく険しい。


フィアは言われた通りに手を離した。

掌から光が消える。


途端に身体が重くなった。



「怪我は、どう?」


「痛みは、かなり軽くなっています」



シリウスはそう答えたが、その表情は緩まなかった。


フィアは脇腹の包帯を見る。


傷そのものは残っている。

けれど、シリウスは先ほどよりも自然に呼吸をしていた。


そのことに、胸の奥が少しだけほどける。


治せた。

完全ではなくても、痛みを減らすことはできた。


そこで、フィアはルカを見た。


ルカは椅子に座ったまま、こちらを見つめている。


シリウスの傷が軽くなったことに驚いているはずなのに、その顔に安堵はなかった。


袖口から覗く腕にも、まだ包帯が巻かれている。

治せる力があるのに、そのままにはできなかった。



「ルカ」


「なに?」



返事はいつも通りだった。けれど、声は少し硬い。



「ルカも、治していい?」



ルカはすぐには答えなかった。

フィアの顔を見たあと、掌へ視線を落とす。



「だめ」



思っていなかった答えに、フィアは目を瞬いた。



「君の顔色が悪い。シリウスを治しただけで、それだけ消耗してるんだよ」


「でも、ルカも傷ついてる」


「これくらいなら平気だよ」


「平気じゃない」



思ったよりもはっきりした声が出た。

ルカの指は、今も小さく震えている。


自分を治さずに治癒の魔法をシリウスに使い、傷を残したままにしている。


そのままでいいとは思えなかった。



「私が、したいの」



ルカの表情から、わずかに笑みが消えた。

何かを言おうとして、やめる。


シリウスも何かを言いかけた。

けれど、フィアの「私がしたい」という言葉に、すぐには続けられなかった。


やがてルカが、小さく息を吐いた。



「……少しだけだよ」



包帯の巻かれた腕を、フィアの前へ差し出す。



「苦しくなったら、すぐにやめて」


「うん」



フィアはルカの腕へ手を伸ばした。


包帯へ触れる前に、一度だけルカの顔を見る。

ルカが小さく頷いた。


掌を重ねる。


先ほどと同じように、傷が軽くなってほしいと願った。


すぐに光が生まれた。


フィアの指の間から零れた淡い光が、包帯の上へ広がっていく。

ルカの腕に残っていた熱が、少しずつ引いていった。


擦れた傷が閉じ、腫れもわずかに小さくなる。

けれど、指の震えは止まらなかった。


傷は軽くなっても、魔法を使ったあとの震えまでは消えないようだった。



「フィア、もういいよ」



ルカの声が遠く聞こえた。


フィアは手を離した。

光が消える。


ルカの包帯を見ようとしたが、視界がぼやけていた。


傷がどうなったのか、よく見えない。



「……できた?」



ルカは一瞬、答えなかった。

それから、柔らかく言う。



「うん。ちゃんと軽くなってるよ」



その言葉を聞いて、フィアは椅子から立ち上がろうとした。


寝台へ戻らなければと思った。

けれど、足に力が入らない。


身体が傾く。


問いかける暇はなかった。


シリウスとルカの手が、ほとんど同時に伸びた。


シリウスの腕が背中を支え、もう一方の手が頭を庇う。

ルカはフィアの腕と肩を受け止めた。



「フィア様」


「フィア」



二人の声が重なった。

けれど返事をする前に、フィアの意識は暗闇へ沈んでいった。



次に目を開けたとき、窓から差し込む光は少し高い位置へ移っていた。


フィアは寝台に横たわっていた。

身体には毛布が掛けられ、枕元には青いガラス玉の髪飾りが置かれている。


目を動かす。


シリウスは寝台から少し離れた椅子に座っていた。

剣は手の届く場所に置かれている。


ルカは入口近くの小卓に地図を広げ、何かを書き込んでいた。


フィアが身じろぎすると、二人はほとんど同時に顔を上げた。



「フィア様」



シリウスが椅子から立つ。

けれど、すぐ寝台へ近づくことはしなかった。



「気分はいかがですか」


「少し、身体が重い」


「痛みや吐き気は?」



ルカが尋ねる。



「ない」


「寒くはない?」


「少しだけ」



ルカは毛布をもう一枚差し出した。

シリウスがそれを受け取り、フィアへ見せる。



「掛けてもよろしいですか」



フィアが頷くと、シリウスは身体へ触れないように毛布を重ねた。



「私、どれくらい眠ってたの?」


「一時間くらい。そんなに長くは寝てないよ」



フィアはルカの答えを聞くと、シリウスの脇腹へ目を向けた。

服の上からでは、傷の状態までは分からない。



「シリウスの怪我は?」


「軽くなっています」



シリウスは短く答えた。



「深く息をしても、先ほどまでの痛みはありません。傷は残っていますが、動くことも楽になりました」


「それならよかった」



フィアがそう言うと、シリウスの表情がわずかに強張った。



「よくありません」



声は静かだった。


怒っているわけではない。

それでも、いつもより硬い。



「あなたが倒れるほどの力なら、安易に使うべきではありません」



フィアはシリウスを見る。

青い瞳は、傷ついた脇腹よりも苦しそうだった。



「私の傷の治療と引き換えに、あなたが倒れることを、私は望みません」


「でも、シリウスの痛みは少し軽くなった」


「はい」



シリウスは否定しなかった。



「そのことには、感謝しています」



少しだけ言葉が途切れる。



「それでも、あなたが目を閉じたとき、私は――」



その先は続かなかった。

シリウスは視線を落とす。


フィアは黙って、その横顔を見た。

倒れた自分を見て、シリウスは怖かったのだ。


自分が目を覚まさないかもしれないと、考えたのかもしれない。


だからといって、次は黙っていようとは思わなかった。

何も言わず、一人で決めて、また二人を怖がらせることはしたくない。


次に力を使おうと思ったときは、先に二人へ話そう。


フィアは、心のなかでそう決めた。



「ルカ」



入口近くの小卓へ目を向ける。



「ルカの傷は?」


「軽くなってるよ」



ルカは包帯の巻かれた腕を少し持ち上げた。



「だけどシリウスの傷も全部は治ってない。君の力は、傷をなかったことにするものじゃないみたいだ」



ルカは地図から手を離した。



「分かったことは、あまり多くない」



指を一本ずつ折りながら続ける。



「教会の外でも使えた。祈りの言葉も唱えてない。傷は軽くなったけど、完全には消えなかった。そして一番重要なのは、君自身の消耗が大きすぎる」



フィアは毛布の上で自分の手を見た。

うまく力が入らない。



「教会では、どうやって使ってたの?」


「祭壇の前で、祈りの言葉を唱えてたの」


「決められた言葉を?」


「うん。他にも、どこで息をして、いつ手を触れるのかも決まってた。だから、そうしないと使えないと思ってた」



ルカは少し黙った。



「祭壇や祈りに意味がなかったとは言えない」



軽い口調ではあったが、表情は笑っていない。



「力を安定させたり、君の身体を守ったりする役目があった可能性はある。でも、それがなければ使えないっていうのは、違ったみたいだね」


「でも、司教様は……」



名前を口にした瞬間、喉が狭くなった。


穏やかな声が、耳の奥で蘇る。

正しく導かなければならない。

聖女一人では、神の力を扱えない。



フィアの指が、毛布を掴んだ。



「フィア」



ルカの声が、記憶を遠ざける。



「そう教えた方が、教会には都合がよかったのかもしれないね」



シリウスの瞳が、わずかに冷える。

けれど、ルカはすぐに続けた。



「本当のところは分からないよ。僕は聖女の力に詳しいわけじゃない。それに、今分からないものを無理に使うのは危険だ」



ルカはフィアの顔を見る。



「あまり使わない方がいいと思う。少なくとも、今みたいに倒れるまで使うものじゃないよ」



フィアは小さく頷いた。


ルカはそれ以上、教会のことを話さなかった。

代わりに、小卓の地図へ視線を戻す。



「分からないことは、今すぐ全部決められない」



地図の端を指で押さえる。



「でも、今決めないといけないことが一つある」



シリウスがルカを見る。



「これからのことか」


「うん」



ルカは地図の上へ、小さな硬貨を置いた。

そこが、今いる街らしい。



「フィアが眠っている間に、宿の周りを少し見てきたんだけど、昨日の路地の話はもうかなり広まってる」



フィアの身体がわずかに強張る。



「白に近い髪の女がいたって話も出てるみたいだ」



白に近い髪。

それだけなら、フィアだと決まったわけではない。


けれど、この国で目立たない特徴ではなかった。



「どこまで正確な話なのかは分からない。でも、噂は正確じゃなくても広がるからね」



ルカは窓の方を見た。



「本当なら、今日はフィアを休ませたい。でも、夕方までにはこの街を出た方がいいと思う」


「同意する」



シリウスは迷わなかった。



「この宿へ噂が届くのも、時間の問題だ」



フィアは寝台の上で身体を起こした。

少し目眩がしたが、横になるほどではなかった。



「地図、見せて」


「そっちへ持っていくよ」



ルカは小卓を、寝台から地図が見える位置まで寄せた。

シリウスも椅子を少し動かす。


三人の視線が、一枚の地図へ集まった。



「選べるのは、大きく三つだと思う」



ルカは現在地を示す硬貨へ指を置いた。



「一つ目は、この街に残ること」


「残るの?」



フィアが尋ねる。



「場所は変えるよ。今の宿を出て、別の隠れ場所を探す。一番動かなくて済むのは、街の中で場所を変えることだからね」



ルカは街の中で硬貨をわずかに動かした。



「食料も薬も手に入りやすい。三人とも傷を休ませられる。でも、噂が広がってる以上、長く隠れるのは難しい」


「同じ街に留まる限り、場所を変えるだけでは不十分だ」



シリウスが言う。



「うん。一度でも捜索の目が向けば、逃げ道を塞がれる可能性がある」



ルカは頷いた。



「僕も、長く残るのは勧めない」



指が街から動く。



「二つ目は、山間部へ向かうこと」



地図には、街道から外れた細い道が描かれている。



「人目は少ない。街道や検問も避けられる。追っ手を撒くなら、一番向いてるかもしれない」


「隠れるという点では有効だ」



シリウスは地図を見つめる。



「しかし、道は険しい。食料や薬を補給できる場所も限られる」



その視線が、フィアへ向いた。



「今のフィア様には、負担が大きいでしょう。それに、以前のような襲撃があれば、今の状態では対応しきれない可能性があります」



フィアは、霧の向こうから飛んできた矢を思い出した。

ルカも何も言わなかった。


少しの沈黙のあと、フィアが尋ねる。



「三つ目は?」



ルカの指が、街から西へ延びる街道へ移った。



「僕の国との国境方面へ進むこと」



フィアはルカを見る。



「ルカの国へ行くの?」


「今すぐ国境を越えるって話じゃないよ。まずは、そっちへ続く街道を使うだけ」



ルカは地図へ視線を戻した。



「人と荷馬車の往来が多いから、旅人に紛れやすい。小さな宿場も多いし、食料や薬にも困りにくい」



指が街道をなぞっていく。



「この川沿いに迂回路がある。大きな荷馬車は通れないけど、徒歩なら使える。ここから先は商人の往来が増えるから、三人だけで歩くより、荷馬車に混じった方が目立たない」



ルカの指が、次の宿場で止まった。



「この宿場を越えたあたりから、検問が増える。橋の手前は特に確認が厳しい。通るなら幌を下ろして、フィアは荷物の陰にいた方がいい」



さらに先へ進む。



「ここにも小さな詰め所がある。街道をそのまま進めば通ることになるけど、手前で川沿いへ外れれば――」


「お前の国へ続く道だ」



シリウスの声が、ルカの説明を止めた。

ルカが顔を上げる。



「詳しいこと自体は不思議ではない」



シリウスは地図を見たまま続けた。



「だが、随分と具体的だな」



ルカの指が止まった。

ほんの一瞬だった。



「君たちと旅を始めてから、ずっと、逃げ道はいくつか考えてたよ」



いつもの軽い声で答える。



「どこで追い詰められるか分からなかったからね。国境も、その一つだっただけ」


「……そうか」



シリウスはそれ以上追及しなかった。

けれど、納得したようにも見えない。


フィアは地図の上に置かれたルカの指を見た。


ルカが故郷へ続く道に詳しいことは、不思議ではなかった。

何度も通ったことがあるのだろう。


商人なら、検問や迂回路も知っていておかしくない。

それでも、シリウスに問われた瞬間だけ、ルカの指が止まった。


その意味は、フィアにはまだ分からなかった。


ルカは指を現在地の街まで戻した。



「ただ、山へ行くにしても、国境へ向かうにしても、街を出てしばらくは同じ道だよ」



西へ延びる街道を途中までなぞる。

その先で、道は二つに分かれていた。



「分かれるのは、この先。ここから北西へ入れば山道。西へ進み続ければ国境街道」



分岐の手前には、小さな宿場の印がある。



「夕方に街を出ても、今日はこの宿場までしか行けない。そこで一晩休んでから、どちらへ進むか決められる」


「移動手段は」



シリウスが尋ねる。



「日暮れ前に、この宿場へ向かう荷馬車が出る」



ルカは宿場の印を指した。



「幌付きだからフィアを隠せる。荷物を運ぶ商人の馬車で、荷台にも少し余裕があるらしい。乗せてもらえるよう交渉はできると思う」



「国境方面へ向かう荷馬車か」


「いや、行くのは分岐の手前まで」



ルカはシリウスを見た。



「山へ向かうにしても、国境へ向かうにしても使える」



シリウスは地図へ視線を戻した。

フィアも、三つの選択を見つめた。


この街に残る。

山の中へ隠れる。

隣国との国境へ近づく。


どれが正しいのか、分からなかった。


街に残れば、噂が追いついてくるかもしれない。

山へ向かえば、二人の傷へ負担をかける。

国境へ近づけば、その先に何があるのか分からない。


どれを選んでも、安全ではなかった。



「フィア様」



シリウスが呼ぶ。



「フィア様は、どうなさりたいですか」



問いかけられても、答えは出てこなかった。


どうしたいのか。

どこへ行きたいのか。


教会にいた頃、行き先を自分で選んだことはほとんどない。

祈る場所も、眠る部屋も、会う相手も決められていた。


逃げてからも、シリウスとルカが安全な道を探してくれた。


突然、三つの道を差し出されても、その先まで選ぶことはできなかった。


フィアの視線が地図の上で止まる。

ルカが、少しだけ声を柔らかくした。



「全部を今決めなくてもいいよ」



フィアが顔を上げる。



「まず、この街に残るかどうかだけでいい」



大きすぎた問いが、少しだけ小さくなった。


今いる場所に残りたいのか。

それとも、出たいのか。


それだけなら、答えられる気がした。


この街にいることを考える。


閉じた部屋。

廊下を通る足音。

自分のことを話しているかもしれない人々の声。


誰のものか分からない気配に怯えながら、また夜を待つこと。


ここにいる方が、怖い。


フィアは毛布の上で手を握った。


それから、二人を見る。



「この街を、出たい」



声は小さかった。



けれど、シリウスもルカも聞き返さなかった。



「承知しました」



シリウスが答える。

ルカも頷いた。



「うん。じゃあ、出る準備をしよう」



ルカは地図を畳まず、椅子から立ち上がった。



「荷馬車の話をしてくる。出るのは日暮れ前だ。それまでに食べられるものと、必要な薬も用意しておくよ」


「私も準備する」



シリウスも立ち上がる。



「フィア様は、今しばらくお休みください」


「でも」


「荷造りの内容は、確認していただきます」



シリウスは穏やかに続けた。



「ただし、運ぶのは私たちにお任せください」



フィアは少し迷ってから頷いた。


ルカが部屋を出ていく。

シリウスも必要な荷物を確かめるため、入口近くへ移った。


地図は、小卓の上に広げられたままだった。


街を囲む印。


そこから延びる二本の道。

どちらへ進むのかは、まだ分からない。


ただ、この街に残らないことだけは、フィアが自分で選んだ。

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