69話 触れる前に
眠ったのかどうかも分からないうちに、朝になっていた。
窓を覆う布の隙間から、白い光が差し込んでいる。
フィアが目を開けると、枕元には青いガラス玉の髪飾りがあった。
眠っている間も触れていたらしい。
掌には、金具の跡が薄く残っている。
扉も昨夜のまま、手のひら一つ分ほど開いていた。
廊下へ目を向けると、壁際にはシリウスが座っている。
長い銀色の髪を肩へ流し、壁に背を預けたまま目を閉じている。
傍らには、すぐ手に取れる位置に剣が置かれていた。
眠っている。
そう思った直後、フィアが寝具を動かしたわずかな音に、青い瞳が開いた。
「フィア様」
シリウスはすぐに身体を起こした。
立ち上がろうとしたところで、動きが一瞬止まる。
右手が脇腹へ触れかけ、何事もなかったように下ろされた。
けれど、フィアは見ていた。
「シリウス……」
「どうかなさいましたか」
「ううん」
大丈夫なの、と聞こうとしてやめた。
聞けば、シリウスはきっと問題ないと答える。
廊下の奥から、足音が近づいてきた。
現れたルカは、湯気の立つ器を三つ載せた盆を抱えている。
昨夜まで地図を広げていた小卓は、廊下の壁際へ寄せられていた。
「おはよう、フィア」
いつもより低い声だった。
金色の髪は整えられていたが、顔色は悪い。
笑みを浮かべようとした口元にも、普段の軽さは戻っていなかった。
襟元では、琥珀のピンが朝の光を小さく返している。
「眠れた?」
フィアは少し考えた。
眠れなかった、と答えれば、二人を心配させる。
けれど、眠れたと答えるのも違う気がした。
「……少しだけ」
「そっか」
ルカはそれ以上尋ねなかった。
シリウスが扉の前まで歩み寄る。
けれど、開いていた隙間を広げる前に足を止めた。
「フィア様」
「なに?」
「部屋へ入ってもよろしいですか」
フィアは扉を見た。
昨夜、自分が少しだけ開けておいた扉。
二人は一晩中、その向こうにいた。
開いていても、勝手に入ってはこなかった。
ルカも盆を抱えたまま、扉の外で待っている。
「僕も入っていい? 食事を持ってきたんだ」
フィアは少しだけ迷った。
けれど、二人が返事を待っていることは分かっていた。
「……うん」
シリウスが扉をゆっくりと開く。
完全には閉めず、昨夜と同じように、廊下が見えるだけの隙間を残した。
先にシリウスが入り、その後からルカが続く。
二人とも、部屋の奥までは来なかった。
シリウスは扉の脇へ剣を置き、ルカは入口近くの小卓へ盆を下ろした。
「食べよう。厨房から分けてもらっただけだから、味は期待しないでね」
フィアは寝台から足を下ろした。
床の冷たさが、足裏から身体へ上がってくる。
立ち上がると、足首に鈍い痛みが走った。
長く歩き続けた疲労が、膝にも残っている。
身体が傾いた。
シリウスが反射的にフィアの肘を支える。
「フィア様」
フィアが立ち直ったことを確かめると、その手はすぐに離れた。
「……ありがとう」
「無理をなさらないでください」
シリウスはすぐそばを歩いたが、それ以上は触れなかった。
フィアがよろめけば届く距離を保ちながら、小卓まで付き添う。
椅子へ座ると、ルカが器を差し出した。
穀物を柔らかく煮た、薄い粥だった。
器を受け取るとき、ルカの指先がわずかに震えた。
フィアはその手を見つめる。
指や手の甲には細かな傷が残っていた。
袖口から覗く腕には包帯が巻かれている。
布は新しいものだったが、その下の腫れまでは隠しきれていない。
「ルカ」
「なに?」
「その手……」
ルカは自分の指を見下ろした。
「ああ、少し張り切りすぎただけだよ」
「……魔法で治さなかったの?」
ルカは一度、シリウスを見た。
「使える分は、先にシリウスに使ったからね」
「私はやめろと言った」
シリウスが低く言う。
「そうだったね」
ルカは困ったように笑った。
「でも、倒れたら一番困る人から治すのは当然でしょ」
「お前も倒れれば同じだ」
「僕は自分の限界を分かってるよ」
そう答えながらも、器を持つ指はまだ震えていた。
フィアはシリウスへ目を向ける。
「シリウスの怪我は、ひどいの?」
「まあ、動ける程度にはなってる」
答えたのはルカだった。
「浅い傷は塞いだ。腫れと痛みも少し抑えた。でも、内側の傷までは治せない。骨や深い傷まで治せる力は僕にはない」
ルカは震える手を握り、膝の上へ置いた。
「魔力も体力も、使えば減る。続けて使えば、今度は僕が動けなくなるからね」
フィアは器の中へ視線を落とした。
昨夜は暗くて、よく見えなかった。
二人が傷ついていることは分かっていた。
けれど朝の光の中で見ると、思っていたよりもひどい。
自分を探すために傷つき、戻ったあとも、二人は自分のために休めていない。
フィアは粥を一匙すくった。
けれど、口へ運んでも喉を通らなかった。
「フィア」
ルカの声に顔を上げる。
「少し、手首を見せてもらってもいい?」
フィアの肩が小さく揺れた。
ルカはすぐに付け加える。
「僕は触らないよ。シリウスに確認してもらってもいい?」
シリウスがルカへ視線を向ける。
「何を見ればいい」
「袖の下に赤みが見えてた。腫れているなら冷やした方がいい。あとは、指が動くか、痺れがないか」
フィアは自分の手首へ目を落とした。
袖の内側には、薄い赤みが残っていた。
強く掴まれた場所だった。
皮膚の上には、指の形までは残っていない。
それでも、握られた感覚だけは消えていなかった。
シリウスが椅子から立った。
フィアの前へ来ると、片膝をつく。
手袋を外した。
その手が、フィアの手首へ向かう。
けれど、触れる前に止まった。
「フィア様」
シリウスは手首ではなく、フィアの顔を見た。
「確認してもよろしいですか」
フィアは、すぐには答えられなかった。
教会にいた頃も、何度も身体を調べられた。
熱がないか。
祈りに支障がないか。
聖女の身体に異常がないか。
必要だから、と言われた。
袖を上げられる前にも、手首を取られる前にも、返事を求められたことはない。
司教は、いつも穏やかな声で説明した。
聖女のために必要なのだと。
正しく導くためなのだと。
フィアが身体を強張らせれば、それは不安だからだと言われた。
手を引こうとすれば、何も怖くないと宥められた。
嫌だと言えなかったのではない。
言っても、意思として受け取られなかった。
シリウスの手は、止まったままだった。
急かさない。
必要なことです、と説得もしない。
フィアの沈黙を、同意として扱おうとしない。
頷かなければ、どうなるのだろう。
シリウスは、触れないのかもしれない。
確かめる必要があると分かっていても、この手を下ろすのかもしれない。
そのことに気づいたとき、胸の奥で何かが揺れた。
フィアは小さく頷いた。
けれど、腕は膝の上に置いたままだった。
シリウスは、その手を自分から取ろうとはしない。
手を伸ばしたまま、ただ待っている。
フィアは自分の手首へ目を落とした。
それから、ゆっくりと腕を持ち上げ、シリウスの方へ差し出した。
「……お願い」
「はい」
シリウスの手が、ようやく触れた。
手首を掴むのではなく、下から支える。
指先に力はほとんど入っていなかった。
赤くなった部分をなぞることもない。
目で確かめ、腫れと熱だけを調べる。
「ここは痛みますか」
フィアは、大丈夫だと答えかけた。
いつもの言葉だった。
痛くても。
苦しくても。
心配させたくないときは、そう言えばよかった。
けれど今は、違う答えを選んだ。
「……少し痛い」
シリウスの指が止まる。
その青い瞳が、わずかに冷えた。
それでもシリウスは、誰にされたのかとは尋ねなかった。
「指は動かせますか」
フィアは一本ずつ指を曲げた。
掌には、髪飾りを握り続けていた鈍い痛みが残っている。
「痺れはありませんか」
「ない」
シリウスは反対の手首も同じように確認した。
必要なことだけを尋ね、終わるとすぐに手を離す。
触れられても怖くなかったわけではない。
掴まれた感覚は消えていない。
それでも今の手は、自分が許した手だった。
「腫れは強くない」
シリウスがルカへ伝える。
「指も動く。痺れもない」
「それなら、冷やせば手首は大丈夫そうだね」
ルカはフィアの顔を見る。
「でも、身体が冷えてる。顔色も悪いし、足も疲れてる。今日はなるべく休ませたいところだけど……」
言葉の最後が、わずかに濁った。
フィアは気づいたが、今は尋ねなかった。
代わりに、手袋をつけ直そうとしているシリウスの手を見る。
手の甲には、浅い裂傷が残っていた。
視線を上げれば、シリウスは座るときも、立ち上がるときも、わずかに脇腹を庇っている。
「次は、シリウス」
「私の傷は問題ありません」
予想した通りの答えだった。
フィアはルカを見る。
「ルカも」
「僕も大丈夫だよ」
こちらも、予想した通りだった。
フィアは二人を交互に見た。
「私だけじゃない」
声は小さかった。
それでも、言葉を止めなかった。
「シリウスも、ルカも……見せて」
シリウスは何かを言おうとした。
けれど、フィアが目を逸らさないのを見て口を閉じる。
ルカが困ったように笑った。
「そんな真剣な顔で言われると、断りにくいなあ」
フィアは笑わなかった。
ルカの笑みが、ゆっくり消える。
「……分かったよ」
先に諦めたのはルカだった。
ルカは卓の端へ薬と新しい包帯を並べた。
シリウスも椅子へ座り直す。
フィアは必要なものをルカへ渡し、包帯の端を押さえた。
ルカがシリウスの包帯を外すと、脇腹には広い痣が残っていた。
傷口は塞がっているが、周囲はまだ赤く腫れている。深く息を吸うたびに、筋肉がわずかに強張った。
「やっぱり、内側までは治ってないね」
「動けるなら十分だ」
「動けることと、動いていいことは違うよ」
ルカは新しい包帯を巻き始めた。
その手元も、安定しているとは言えなかった。
何度か布を落としかける。
フィアは薬を渡し、包帯の端を押さえた。
処置が終わると、ルカは立ち上がろうとした。
その瞬間、顔がわずかに歪む。
「ルカも」
「僕は本当に――」
「よくない」
思ったよりも強い声が出た。
ルカが目を瞬く。
フィア自身も驚いた。
けれど、言い直さなかった。
ルカはしばらくフィアを見たあと、観念したように椅子へ座り直した。
「はいはい」
「返事は一度でいい」
シリウスが言う。
「シリウスまで厳しくなってない?」
「自業自得だ」
ルカの腕の包帯を外すと、その下には腫れと擦れた傷が残っていた。
脇腹にも、壁へ打ちつけられた痣がある。
自分の傷を治す余力を残さず、シリウスの治療を優先した結果だった。
フィアは二人の傷を見て、胸の奥が苦しくなる。
自分のために。
また、その言葉が浮かぶ。
二人は、自分のために傷ついた。
けれど今、心にあるのは負い目だけではなかった。
痛みがなくなってほしい。
傷が、少しでも軽くなってほしい。
教会にいた頃、フィアは何度も傷ついた者のために祈った。
聖堂の祭壇の前で。
司教の導きとともに。
決められた祈りの言葉を唱えて。
その祈りで、信徒の熱を鎮めたことがある。
浅い傷を塞いだこともある。
けれど、それは祭壇の前で行うものだった。
司教の導きがなければ、力は正しく届かない。
定められた祈りの言葉を間違えれば、聖女自身が傷つく。
そう教えられていた。
旅に出てからも、二人が傷つくたびに祈りたいと思った。
けれど、祭壇も司教もいない場所では届かない。
だから、試そうとさえしなかった。
フィアは、シリウスの脇腹に巻かれた新しい包帯を見つめた。
治したい。
その思いが、胸の奥から離れなかった。
ゆっくりと手を持ち上げる。
シリウスへ伸ばしかけて、途中で止めた。
先ほど、自分へ触れる前にシリウスがしたことを思い出す。
フィアは包帯へ視線を落としたまま尋ねた。
「シリウス」
「はい」
「ここに、触れてもいい?」
シリウスの青い瞳が、わずかに見開かれた。
シリウスに拒まれるとは思っていなかった。
けれど、自分が許可を求められたときのことを考えると、聞かずに触れることはできなかった。
シリウスは、フィアが伸ばしかけた手を見た。
それから静かに答える。
「……はい」
フィアは包帯の上へ、そっと掌を重ね、ただ痛みが消えてほしいと願った。
それだけだった。
掌の下で、微かな熱が生まれる。
シリウスが息を止めた。
ルカが椅子から身を起こす。
「フィア、それ……」
朝の光が、白色金の髪へ集まっていく。
強い光ではなかった。
窓から差し込む明かりよりも淡く、消えかけたランプの火よりも柔らかい。
祈りの言葉は、何も唱えていない。
祭壇もない。
司教の声もない。
それでも、重ねた掌の下で、淡い光が生まれていた。




