68話 閉じない扉
フィアがシリウスとルカのもとへ戻った夜、宿は静かではなかった。
階下では、まだ誰かが椅子を引いている。
水を流す音。
遅く戻った客の低い話し声。
人が通るたびに軋む、古い床板。
どれも、宿では珍しくない音だった。
けれど今夜のフィアには、その一つ一つが近すぎた。
寝台に横になったまま、薄暗い部屋を見つめている。
白色金の長い髪が枕の上へ広がり、肩から胸元へ細く流れていた。
消えかけた灯りを受けるたび、金にも銀にも見える。
白い頬には疲労の色が残っている。
華奢な身体は寝具の中でいっそう小さく見え、淡い青碧色の瞳だけが眠りを拒んでいた。
枕元のランプは、火を細く絞ってある。
消してしまえば、何かが入ってきても気づけない。
明るくすれば、窓の外から見つかってしまう。
そんな気がして、消えきらない程度の灯りだけを残していた。
右手には、青いガラス玉の髪飾りがある。
路地へ落ち、シリウスが拾い、返してくれたもの。
指先で、何度も形を確かめた。
小さな青いガラス玉。
それを留める銀色の金具。
縁には、わずかな欠けがある。
ルカに買ってもらったとき、その青と銀が、シリウスの瞳と髪に似ていると思った。
まだ、髪に挿したところをシリウスには見せていなかった。
似合うかと聞いてみようと思っていたことさえ、今では遠い出来事のように感じられる。
それでも、髪飾りは戻ってきた。
掌の中で、青と銀が細い灯りを受けている。
確かに自分のものだった。
それでも、握る力を緩められない。
手を開けば、路地で起きたことも、二人のもとへ戻れたことも、夢のように消えてしまいそうだった。
廊下で床板が鳴った。
フィアの指が固くなる。
足音が近づいてくる。
迷いのない歩幅。
一つ。
二つ。
扉は完全には閉めていなかった。
手のひら一つ分ほど開いた隙間から、廊下の灯りが細く差し込んでいる。
閉めることはできなかった。
鍵をかけることも。
けれど、大きく開けておくのも怖かった。
足音が扉へ近づく。
フィアは息を止めた。
黒い髪。
灰色の目。
音もなく迫ってきた男の姿が、記憶の中で重なる。
来い。
低い声が耳の奥に蘇り、髪飾りの金具が掌へ食い込んだ。
だが、足音は止まらなかった。
扉の前を通り過ぎ、そのまま廊下の奥へ遠ざかっていく。
知らない客だったらしい。
フィアは息を吐こうとしたが、うまくできなかった。
肺に残った空気だけが、かすかに喉を震わせる。
足音が消えたあとも、廊下には誰かがいた。
扉のすぐ前ではない。
少し離れた壁際。
微かな衣擦れ。
剣の鞘が床へ触れる硬い音。
抑えられた呼吸。
聞き慣れたものだった。
シリウスだ。
そう思った途端、胸の奥がわずかに緩んだ。
けれど、声をかけることはできなかった。
アルナトと戦い、壁へ打ちつけられ、そのあとも自分を探して歩き続けた。
宿へ戻ってからも、ほとんど休んでいない。
自分が眠れないからといって、シリウスまで眠らせないのは違う。
そう思うのに、扉の外から彼の存在が消えることを考えると、喉が冷たくなった。
呼べば、また縛ってしまう。
フィアを守るために、シリウスは国も、騎士としての立場も、自分の先の人生も捨てた。
これ以上、何を求めてよいのか分からない。
寝返りを打とうとして、布の擦れる音に自分で驚いた。
身体が強張り、髪飾りを握った手を胸元へ引き寄せる。
扉の外では、何も動かなかった。
開いているのだから、入ろうと思えば入れるはずだった。
けれどシリウスは、扉へ手をかけなかった。
覗き込むこともしない。
ただ、そこにいる。
フィアは何度か唇を開いた。
声にはならなかった。
やがて、ほんの小さく息を吸う。
「……シリウス」
自分にしか聞こえなかったのではないかと思うほど、弱い声だった。
それでも、返事はすぐに届いた。
「はい」
低く、静かな声。
フィアの心臓が大きく鳴った。
少し間を置き、もう一度尋ねる。
「いる?」
問いにする必要などなかった。
そこにいると分かっている。
それでも、声で確かめたかった。
「はい。ここにおります」
扉は動かない。
足音も近づかない。
声だけが、開いた隙間を通って届いた。
フィアは髪飾りを握ったまま、目を伏せる。
「……ううん。何でもないの。ただ……」
続ける言葉が見つからない。
そばにいてほしい。
いなくならないでほしい。
そのどちらも、口にしてはいけない気がした。
しばらく沈黙したあと、フィアは小さく言う。
「呼んだだけ」
廊下から、短い呼吸の音が聞こえた。
「はい」
シリウスは何も尋ねなかった。
何が怖いのか。
どこが痛むのか。
部屋へ入るべきか。
ただ、もう一度答える。
「ここにおります」
同じ言葉だった。
けれど、二度目は少しだけ柔らかく聞こえた。
フィアの指から、ほんのわずかに力が抜ける。
掌へ食い込んでいた金具の痛みが、遅れて戻ってきた。
廊下の奥で、紙を動かす音がした。
広げた紙を押さえる音。
何かを書きつける、かすかな擦れ。
ルカが地図を見ているのだろう。
宿へ戻ってから、彼は何度も地図を広げていた。
この街に長くはいられない。
アルナトが再び現れるかもしれない。
教会や国の者に見つかるかもしれない。
路地の騒ぎが、誰かの耳へ届いている可能性もある。
けれど、次にどこへ行くのかは、まだ聞いていなかった。
「明日、出る?」
ルカの声が低く届く。
シリウスも声を落とした。
「ここに残る方が危険だ」
「それはそうだけど」
紙の上を指が滑る。
「フィアを今すぐ動かせるかは、別の話でしょ」
短い沈黙。
「……朝になってから、フィア様に話す」
その言葉に、フィアはわずかに目を開いた。
決める、とは言わなかった。
連れていく、とも。
話す。
そのあとで、自分の言葉を待つつもりなのだと分かった。
ルカが小さく息を吐く。
「うん。それがいい」
再び紙が擦れた。
「道はいくつかある。街道を外れるなら山側。人目を避けるなら川沿い。でも、どっちもフィアには負担が大きい」
「国境へ向かう道は」
紙の音が止まった。
「……遠いよ」
いつもの軽さを残そうとする声だった。
「でも、考えてはいる。この国の中を逃げ続けるより、追っ手の手が届きにくくなる可能性はあるからね」
「可能性か」
「絶対なんて言えないでしょ」
少しだけ笑ったように聞こえたが、その気配はすぐ消えた。
「それに、明日決めることじゃない。まずは、この街を出るかどうかだよ」
廊下はまた静かになった。
フィアは扉の隙間へ目を向ける。
寝台から見えるのは、廊下の一部だけだった。
扉から少し離れた壁際に、シリウスが座っている。
長い銀色の髪は肩から背へ流れ、淡い灯りを受けて冷たい光を返していた。
宿へ戻るまでに乱れたはずだが、今は邪魔にならないよう後ろへ払われている。
旅装の上からでも、鍛えられた長身の輪郭は隠れない。
けれど普段なら真っ直ぐな背を、今は脇腹の痛みを庇うように、わずかに壁へ預けていた。
伏せられた青い瞳は、扉を見ていない。
フィアが残した隙間へ視線を向けることさえ避けるように、剣を置いた床の先を見つめていた。
その向こうでは、ルカが小卓に地図を広げている。
ランプの光が、俯いた金色の髪を柔らかく照らしていた。
シリウスよりわずかに小柄で、年若く見える顔立ちには、いつもなら人懐こい笑みがある。
けれど今は、琥珀色の瞳が地図へ落とされたままだった。
細い指が、街道から山道へ、川沿いから国境へと線を辿っている。
ルカが身を屈めた拍子に、襟元で小さな光が揺れた。
琥珀を留めたピン。
フィアがルカのために選んだものだった。
逃げる間も、アルナトと戦ったときも、外さずにいたのだろう。
ランプの火を閉じ込めたような琥珀が、今もルカの襟元に留まっている。
選んだとき、その色がルカの瞳に似ていると思った。
けれど今夜の琥珀色の瞳は、襟元の石よりも暗かった。
商人らしく迷いなく動いていた手が、国境へ続く線の上で止まる。
口元には笑みがなかった。
明るい髪と瞳を持つルカは、本来なら薄暗い廊下でも目を引くはずだった。
それでも今夜は、地図に落ちる影の中へ、自分から身を沈めているように見えた。
フィアの指先に触れる青いガラス玉と、扉の向こうでルカの襟元に灯る琥珀。
二つの小さな飾りが、開いた扉を挟み、違う色の光を返していた。
「……ルカ」
紙を動かす手が止まる。
襟元の琥珀が、わずかに揺れた。
少し間があってから、明るさを抑えた声が返る。
「いるよ」
ルカは続ける。
「ずっと地図と睨み合ってる。今のところ、僕の負けかな」
いつものような軽い言い方だった。
けれど、無理に笑わせようとはしなかった。
ただ、ここにいると伝えるためだけの言葉だった。
「……そう」
フィアはそれだけ返した。
シリウスも、ルカも、それ以上は何も言わなかった。
誰も、扉の隙間を広げようとしない。
やがて階下の音も少なくなった。
客の声が消え、水を流す音も止む。
窓の外では風が鳴り、遠くで夜番の鐘が一度だけ響いた。
フィアは髪飾りを掌の中で転がした。
青いガラス玉が、細い灯りを受けて淡く光る。
これを拾ってくれた。
糸の結び目にも気づいてくれた。
自分が残したものは、消えていなかった。
届いていた。
そう思うと、握りしめていなければ失うという感覚が、ほんの少しだけ薄れた。
フィアは髪飾りを枕元へ置こうとした。
けれど、手を完全に離すことはできなかった。
掌に包んだまま、枕の横へそっと手を下ろす。
そこにある。
扉の外にも、二人がいる。
扉は開いたままだった。
それでも、誰も入ってはこない。
しばらくして、廊下から紙を畳む音が聞こえた。
シリウスの気配も、ルカの気配も、まだそこにある。
フィアはそれを確かめるように一度だけ息を吐き、髪飾りを握っていた手を、ほんの少し緩めた。




