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many merry bad ENDs  作者: 源泉


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67話 戻った証

荷出し口の流れは、少しずつ元に戻り始めていた。


止まりかけていた荷馬車が動き出す。

番人が短く何かを言い、荷を運ぶ男たちは一度こちらを見たあと、すぐに自分たちの仕事へ戻っていった。


何事もなかったように。

このくらいの騒ぎはよくあることだ、とでもいうように。


けれど、フィアはその場に立ったまま、うまく息ができなかった。


足元の石畳は濡れている。

水路の匂いがまだ近い。

アルナトが消えた方角から、目を離せない。


戻ったのだろうか。

あのすべてを支配するような灰色の瞳の前から、二人のもとへ戻れたのだろうか。


ルカの手が、フィアの腕を支えていた。

強く掴むのではなく、倒れないように添えられているだけだった。



「フィア」



呼ばれて、フィアはゆっくり瞬きをした。

ルカがこちらを見ている。

その顔には、いつもの軽い笑みがなかった。



「歩ける?」



フィアは答えようとして、喉がうまく動かないことに気づいた。

それでも、小さく頷く。



「……歩ける」



シリウスが近づいてきた。


すぐには触れなかった。

さっきと同じように、触れていいのか迷うように、ほんのわずかに手を止める。



「フィア様、一度宿まで戻ります。無理なら、言ってください」



フィアはシリウスを見た。


立っているけれど、肩の動きが少し硬い。

どこかを庇うように見える。


ルカも同じだった。

支えてくれている腕に力はあるのに、息が少し浅い。


フィアは、二人を見比べた。



「……二人とも、怪我してる」



シリウスは一瞬だけ黙った。



「問題ありません」


「問題あるよ」



ルカが横から言った。

けれど、その声も少し掠れていた。



「フィア、今は君の方を心配する場面だけどね」



フィアは首を振った。



「でも、二人は……」


「このくらい平気」



ルカはそう言って、軽く笑おうとした。

けれど、笑みは最後まで形にならなかった。


フィアの胸が、遅れて重くなる。


自分が連れていかれていた間、二人は探していた。

アルナトと対峙したあの時の怪我が治りきらないまま。

それでも、フィアを探していた。


そのことが、今になってようやく輪郭を持った。



「私を、探してたから」



言葉にすると、喉の奥が詰まった。

ルカがすぐに言う。



「君のせいじゃないよ」



フィアは顔を上げる。


ルカは水路の方を一度見て、それからフィアへ視線を戻した。



「悪いのは連れていった奴。あと、無茶した僕ら」


「無茶をしたのはお前だけだ」



シリウスが低く言った。

ルカは肩をすくめる。



「君も十分無茶してたでしょ」


「私の怪我を治すために魔法を使って、自分を後回しにしていた」



シリウスが言った。

ルカは瞬きをする。



「だって、戦いになったら、僕が元気でもしょうがないでしょ」



軽い言い方だった。


けれど、フィアには分かった。

ルカは本当にそう思っている。


自分が倒れるより、シリウスが動けない方が困る。

そう考えている。


宿へ戻る道を、三人はゆっくり歩いた。


シリウスはフィアのすぐ近くにいた。

けれど、抱き上げようとはしなかった。


フィアの足は震えている。

何度か石畳の段差につまずきかけた。

そのたびにシリウスの手がわずかに動く。


けれど、フィアが自分で立て直すと、その手は戻った。


ルカも何も言わなかった。

いつもなら、歩き方が危ないとか、もう少し右だとか、何か軽く言いそうなのに、今はただ横を歩いている。


フィアは一歩ずつ足を出した。


早くは歩けない。

けれど、歩いていた。

誰かに引かれているのではなく、自分の足で。


宿へ戻ると、部屋の中の空気が妙に遠く感じた。


見覚えのある壁。

使ったことのある椅子。

窓。

寝台。

水差し。


戻ってきたはずなのに、すべてが少しだけ違って見える。


シリウスは扉の近くに立ったまま、部屋の中を確認した。

窓の鍵、壁際、寝台の下、廊下の気配。


その目がいつもより鋭いことに、フィアは気づいた。


守ろうとしてくれている。

それは分かる。

けれど、扉も窓も確かめられていく様子を見ていると、胸の奥が少しだけ固くなった。


ルカが椅子を引いた。



「フィア、座って。倒れられると、またシリウスが怖い顔する」


「うん、でも二人も座って」



フィアは二人を見ていた。


傷ついている。

二人とも。


自分のために。



「……ありがとう」



声は小さかった。

二人が同時にフィアを見る。


フィアは椅子の背に手をかけたまま、言った。



「シリウス、ルカ……」



シリウスの表情が揺れる。

ルカも少しだけ目を見開いた。

フィアはうまく言葉を続けられなかった。


何を言えばいいのか分からない。

ありがとうなのか。

ごめん、なのか。

もう無理しないで、なのか。

自分のせいで、なのか。


どれも違う気がした。

だけど、何か言いたい。

唇から出るのは二人の名前ばかり。



「……シリウス、ルカ……」


「そうだよ、フィア。僕とシリウスだ」



ルカはそう言って笑った。

今度は少しだけ、いつもの顔に近かった。


ルカの顔色は悪かった。


あの日、アルナトに投げ飛ばされた時の怪我も、まだ治りきっていないのだろう。

それなのに、自分の傷を後回しにしたまま街を歩き回り、ここまで来た。


少し前に痛めた場所まで、響いているのかもしれなかった。


フィアは椅子に座った。


座ると、自分の体が思ったより重いことに気づいた。

足に力が入らない。

背筋を伸ばしているだけで疲れる。

数日間、まともに眠れていなかったことも、食べられていなかったことも、今になって体の中から戻ってくる。


シリウスはしばらくフィアを見ていた。

それから、何かを思い出したように懐へ手を入れる。


取り出したものを見た瞬間、フィアの息が止まった。


髪飾りだった。



「フィア様、これを」



シリウスの掌に乗っている。


土は払われていた。

壊れてはいない。

形も、飾りも、落とす前と同じはずだった。


フィアは震える指で、それを受け取った。

軽かった。


こんなに軽いものだったのかと、今さら思う。



「……シリウスが、拾ってくれたの?」



シリウスは頷いた。



「はい」



フィアは髪飾りを見下ろした。


あの時の石畳。

引かれる腕。

落ちた音は聞こえなかった。

けれど、確かにこれはそこに残った。


自分だけが連れていかれて、これだけが二人の手に残った。



「……戻ってきた」



声に出すつもりはなかった。

けれど、言葉がこぼれた。


シリウスは、わずかに表情を歪めたまま、さっきと同じように頷いた。


それだけだった。


けれど、その短い返事だけで、フィアの胸の奥が少しだけ熱くなった。


戻ってきた。


全部ではない。

何もかもではない。


でも、これだけは戻ってきた。


シリウスは少し迷うように手を動かし、もう一つ、小さなものを取り出した。


細い糸だった。


フィアは、それを見た瞬間に息を呑んだ。


窓枠に結んだ糸。

毛布の端からほつれさせた、頼りない糸。

髪飾りの紐を結ぶ時と同じ形にしようとして、何度も失敗した不格好な結び目。


「これを、見つけました」


シリウスが言った。

フィアは糸を見つめたまま、動けなかった。


「……見つけたの?」


「はい」


「私だ、ってわかった?」


「はい」


シリウスは同じ返事をした。

けれど、さっきよりも深く響いた。


届いた。


あの部屋に残したものが。

誰にも見つけられないまま終わると思っていたものが。

アルナトに、もう間に合わないものとして残されたはずのものが。


届いていた。


フィアは髪飾りを持つ手に、力を込めた。



「見つけてもらえるか、分からなかった」



声が震えた。



「でも、何か残さなきゃって思った」



シリウスは糸を見つめていた。

その目が、わずかに揺れている。


フィアは何もしなかったわけではない。

ただ待っていただけではない。

怖くて、動けなくて、それでも何かを残そうとしていた。


シリウスは糸をそっと机の上へ置いた。

分かってもらえた。


ただの糸ではなく。

ただの結び目ではなく。

自分が、そこにいた証だと。


ルカは黙ってその様子を見ていた。


いつものように茶化さない。

軽い言葉も挟まない。


彼は机の上の細い糸を見て、それからフィアを見た。



「……フィアも、頑張ってくれてたんだね」



その声は、いつもより低かった。

フィアは小さく頷いた。



「うまく、できなかったけど」


「ううん」



ルカは首を振る。



「届いたなら、うまくできてたんだよ」



フィアは何も言えなかった。

ルカはそれ以上続けなかった。


けれど、その目の奥で、何かが少し変わったように見えた。


フィアは、ただ守られるだけの聖女ではない。

怯えて、震えて、それでも自分で何かを残そうとした。


ルカはそのことを見ていた。

いつものように軽く受け流せないものが、そこにはあった。


夜になる前に、シリウスはフィアを休ませようとした。



「フィア様、少しお休みになってください」



フィアは髪飾りを握ったまま、寝台を見た。


横になれば、眠れるのだろうか。

目を閉じれば、また足音が聞こえるのではないか。

扉が開いて、知らない部屋へ移されるのではないか。


そう思うと、体が固まった。


けれど、シリウスもルカも傷ついている。

自分が休まなければ、二人も休めない。


フィアは小さく頷いた。



「……分かった」



シリウスは扉へ向かった。

その動きに、フィアの肩がわずかに揺れる。


シリウスは気づいた。

すぐに扉を閉めず、手を止める。



「外にいます」



フィアはシリウスを見た。



「鍵はかけません」



その言葉で、息が少しだけ戻った。



「……うん」



シリウスは静かに頷き、扉を少しだけ開けたまま外へ出た。

ルカも部屋を出る前に、フィアを見た。



「何かあったら呼んで。僕でも、シリウスでも」



フィアは小さく頷いた。

ルカはそれを見てから、部屋を出た。

扉は、細く開いていた。


フィアは寝台に横になった。


手の中には髪飾りがある。

机の上には、細い糸が置かれている。


戻ったもの。

届いたもの。


その二つがあるのに、心はまだ落ち着かなかった。


廊下の向こうで、低い声がした。


シリウスとルカだ。


フィアは目を閉じた。

けれど、声は耳に残る。


部屋の外で、ルカは地図を広げていた。


薄暗い廊下の端、小さな灯りの下で、紙の上に道が伸びている。

この街から出る道。

北へ向かう大きな街道。

東の検問。

西へ抜ける支道。

そして、国境に近づく道。


ルカの指が、その一つをなぞった。



「この街に長くいるのは危ない」



シリウスは腕を組んだまま、地図を見下ろしていた。



「……あの男が戻ると?」


「戻るかもしれないし、戻らないかもしれない。

それよりも、僕らのことが知られ始めてる。

銀髪の騎士が黒髪の男を探してたって噂も広がってる」



シリウスは黙る。



「それに、フィアの髪は目立つ。ここに残れば、見た奴が誰かに話す。


先にフィアへ接触していた男たちもいる。あいつらがまた現れるかもしれないし、別の誰かに話を流しているかもしれない」



「それなら、どこへ行く」



ルカの指が、地図の上を滑った。



「国境に近い宿場を経由すれば、追手もこっちの行き先を絞りにくい」


「国境」



シリウスの声が少し低くなる。

ルカは顔を上げなかった。


「今は、この国の中にいる方が危ないと思うよ」


嘘ではなかった。

少なくとも、全部が嘘ではなかった。

シリウスは地図を見ていた。


「お前、よく知っているな」


ルカは少しだけ笑った。


「商人だからね」


軽い声だった。


けれど、さっきより少しだけ硬い。

シリウスはそれ以上追及しなかった。


今はまだ、フィアを休ませる方が先だった。

部屋の中で、フィアは目を開けた。


声の内容は、ほとんど分からない。

低く、途切れて、廊下の空気に混じっている。


けれど、足音が聞こえた。

誰かが廊下を歩く音。


宿の人かもしれない。

客かもしれない。

シリウスか、ルカかもしれない。


アルナトではない。


そう思った。

思ったのに、体は強張った。


息が止まる。

指が髪飾りを握りしめる。


扉は少し開いている。

鍵はかかっていない。


それでも、足音が近づくたび、胸の奥が冷えていく。


フィアは髪飾りを抱えるように握った。


戻った証は、手の中にある。

届いた証も、すぐそばにある。


けれど、フィアはまだ、戻りきれていなかった。

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