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many merry bad ENDs  作者: 源泉


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66話 呼ばれた名


水路沿いの荷出し口には、湿った木材の匂いが溜まっていた。


右手には、黒く濁った水路が細く続いている。

左手には古い倉庫の壁が並び、その前に木箱や麻袋が積まれていた。

道は広くない。

荷馬車が一台通れば、人は端へ寄らなければならないほどの幅だった。


奥には、荷馬車用の裏門がある。

正面の門ほど目立たない、荷運びの者たちが使う出入口だった。


荷馬車の車輪が石を噛む音。

濡れた縄の匂い。

積まれた木箱。

裏門の番人が誰かに声をかける、低く気の抜けた声。


人通りは少ない。


けれど、完全な無人ではなかった。


誰かが見ている。

けれど、誰も深く見ようとはしない。


そういう場所だった。


シリウスとルカは、倉庫の影に身を寄せていた。


そこからは、裏門へ向かう道が見える。

水路側へ逃げ場はない。

反対側には倉庫と木箱があり、人が隠れられる影がある。


道の奥、荷馬車用の裏門へ向かう出口側に、黒い髪の男がいた。


暗い服。

高い背。

人目を避けているようで、避けていない歩き方。

だからこそ、変に目立つこともない。


アルナトは裏門の方を向いていた。

フィアはその半歩後ろ、街側に立たされている。

手を掴まれているわけではない。

けれど、アルナトが少し向きを変えるだけで、裏門へも、倉庫の影へも、逃げ道を塞がれる位置だった。


フードを深く被っていても、フィアだと分かった。


隙間から、白に近い淡い金の髪がほんの少しだけ見えている。

けれど、たとえ髪が見えなくても、シリウスには分かった。


シリウスの呼吸が止まる。


フィア様。


喉まで出かかった声を、押し殺した。


剣の柄へ、手が伸びる。


だが、抜かなかった。


胸の奥では、今すぐ飛び出したい衝動が暴れていた。

あの男を止めるために、斬りかかりたい。

フィアを奪い返したい。

目の前にいるのに、今ここで動かずにいることが、体の内側を焼くようだった。


けれど、抜かなかった。


あの時、剣を抜いた。

守るためだった。


それなのに、その剣が、フィアを奪われる口実になった。


同じことはしない。


シリウスの肩の横で、ルカが低く言った。



「まだ」



その声も、わずかに掠れていた。


ルカも傷を抱えている。

数日間、街を歩き回り、聞き込みを続け、ようやくここまで辿り着いた。

余裕などあるはずがない。


それでも、ルカの目はアルナトだけを見ていなかった。


荷馬車。

木箱。

裏門の番人。

水路沿いの狭い足場。

荷出し口を出入りする人の流れ。


この場で何が使えるかを見ている。


シリウスは息を吸った。


怒りを殺す。

焦りを殺す。


今度は、まだ。


その時、黒髪の男――アルナトの灰色の目が動いた。


気づかれた。


いや、もっと前から気づいていたのかもしれない。

アルナトは驚かなかった。


ただ、こちらを見た。


まず、倉庫の影から出ようとしているシリウスを見る。

次に、その少し後ろで裏門と荷馬車の位置を見ているルカを見る。


剣ではなく、立ち位置を見る目だった。


シリウスが正面を塞ぐこと。

ルカが横へ回ろうとしていること。

完全ではないにせよ、アルナトはその両方を警戒している。


そのことが、シリウスにも分かった。


アルナトの口元が、ほんの少しだけ歪む。



「少しは学んだか」



嘲るような声だった。

挑発だ。


シリウスの指に力が入る。

それでも、剣は抜かない。


シリウスは倉庫の影から出た。


荷馬車の車輪が軋む。

裏門の番人がちらりとこちらを見る。

荷を運んでいた男が足を止めかけ、すぐに興味をなくしたように目を逸らす。


完全に人目がないわけではない。

けれど、誰もまだ騒ぐほどではない。


シリウスは水路側ではなく、裏門へ続く道の中央に立った。


アルナトが街の外へ出るなら、そこを通るしかない。

その進行方向を、シリウスは塞いだ。


斬りかからない。


ただ、通さない。



「止まれ」



声は低かった。

怒鳴らなかった。


アルナトはシリウスを見る。



「剣は抜かないのか」



シリウスは答えなかった。


答えれば、乗せられる。

だから黙っていた。


その沈黙を見て、アルナトの目がわずかに細くなる。


ルカが動いたのは、その瞬間だった。


正面には出ない。


シリウスが裏門側を塞いでいる間に、ルカは倉庫の壁沿いを滑るように移動した。

荷馬車の影へ回り込み、積まれた木箱の横を抜ける。


そこからなら、フィアに声が届く。

そして、フィアが街側の人の流れへ戻るための道も作れる。


足元に置かれていた車輪止めを軽く蹴ると、乾いた木の音が水路沿いに響いた。


大きな音ではない。


けれど、番人が振り返るには十分だった。



「何だ?」



誰かがそう言う。


積まれていた木箱の一つがわずかに傾き、荷を運ぶ男たちの視線がそちらへ向いた。

荷出し口の流れが、ほんの少し乱れる。


アルナトの視線が一瞬だけ動いた。

ルカはその隙に、さらに横へ入る。


フィアに声が届く位置へ。


アルナトが一歩動こうとした瞬間、シリウスも踏み込んだ。


フィアはアルナトのすぐ後ろにいた。

アルナトが裏門側を押さえている限り、彼女は外へは出られない。

けれど街側には、まだ人の流れがある。

そこへ戻る道を、ルカが作ろうとしていた。


シリウスが止めるべきなのは、アルナトがフィアを連れてこのまま奥へ進むことだった。


剣は抜かない。


鞘ごと、アルナトの前に差し込むようにして、進路を止める。


アルナトの腕が動いた。


速い。


シリウスは受ける。

受けきれない衝撃が腕に走り、肩まで痺れる。

それでも踏みとどまった。


勝つためではない。

倒すためでもない。


ここに留めるためだった。


アルナトの灰色の目が、シリウスを見た。


以前とは違う。

そう思ったのかもしれない。


だが、口には出さなかった。


シリウスがもう一歩踏み込む。


アルナトはそれを捌いた。

簡単に崩されはしない。

こちらが怒りのまま剣を振るえば、その瞬間にまた奪われる。

分かっていた。


だから、シリウスは振らない。


止める。

塞ぐ。

遅らせる。


ただそれだけに徹する。


その間に、ルカの声が水路の音に混じって届いた。



「フィア!」



フィアの肩が震えた。

フードの奥で、彼女がこちらを見た。


アルナトがそれに気づいた。


次の瞬間、シリウスの鞘を弾くように押し返し、半歩だけ距離を取る。

灰色の目が、フィアへ向いた。



「フィア」



初めて、その声が名を呼んだ。

フィアの体が強張った。


その名を呼ばれたことが、一瞬、意味を持たなかった。

誰に呼ばれたのかを理解するより先に、体が反応した。


アルナトが続ける。



「来い」



短い言葉だった。


命令というほど荒くもない。

怒りもない。

けれど、その声は数日間、フィアのそばにあった。


立て。

歩けるな。

食え。

移る。


その声に従えば、次の場所へ連れていかれる。

止まれば見られる。

迷えば道を塞がれる。

食べなければ、食べられるものが置かれる。


フィアの体は、それを覚えかけていた。


来い。


そう言われた瞬間、足が動きそうになった。


そのことが、怖かった。


アルナトが怖いだけではない。


自分の体が、その声に従いそうになることが怖かった。



「フィア、こっちを見て!」



ルカの声がした。


フィアは息を呑む。


アルナトを見る。

ルカを見る。

シリウスを見る。


ルカは手を伸ばさなかった。

無理に掴もうともしなかった。


ただ、声を届ける。



「僕じゃなくてもいい」



ルカの声は、少し震えていた。



「シリウスでもいい」



フィアの視線が揺れる。



「誰かの声に従うんじゃなくて、自分で選んで」



フィアは動けなかった。


水路の音が聞こえる。

木箱の軋む音がする。

番人の声が遠くなる。

アルナトの気配がすぐ近くにある。


来い。


その声が、まだ体に残っている。


けれど、ルカは来いと言わなかった。


選べと言った。


その時、シリウスがフィアを見た。


命令ではなかった。

懇願でもなかった。


ただ、名前だけが届いた。



「フィア様」



その声を聞いた瞬間、フィアの目が揺れた。


シリウスの声。

ルカの声。

アルナトの声。


全部が聞こえている。


けれど、どれかに従うのではない。


フィアは震えながら、足元を見た。


石畳が濡れている。

水路から上がる湿った匂いが、足元にまとわりついている。

フードの内側が息苦しい。


一歩。


そう思った。


走れない。

振りほどけない。

逃げ切れない。


それでも、一歩だけなら。


フィアは足を動かした。


アルナトが向かっていた裏門の方ではなかった。


街の人の流れがある方へ。

ルカの声がした方へ。


逃げた、というほどの距離ではなかった。

振りほどいた、というほど強くもなかった。


けれど、その一歩は、誰かに引かれて出たものではなかった。


フィアが、自分で出した一歩だった。


その拍子に、フードが肩へ落ちた。


白色金の髪が、湿った光を受けてほどけた。


水路の暗い空気の中で、その色だけが静かに浮き上がる。

隠されていたものが、急に息をするように広がった。


綺麗だ、とアルナトは思った。


思ってしまった。


その一瞬が、遅れになった。


シリウスは、その遅れだけを見た。


踏み込む。


剣を抜くためではない。

倒すためでもない。


アルナトの手がフィアへ伸びる前に、止めるためだった。


シリウスの剣の柄が、アルナトの腕を打った。


鈍い音がした。


アルナトの手が、わずかに逸れる。


そのわずかな隙間を、ルカが拾った。


ルカは木箱の影から飛び出し、フィアのそばへ走る。



「フィア、こっち!」



今度も、命令ではなかった。

けれどフィアは、もう一歩動いた。


ルカの手を取る。

そして、街側の人の流れへ入る。


荷を運ぶ男たちが、何事かと振り返る。

番人がこちらへ視線を向ける。

木箱の影と荷馬車の隙間に、ほんの短い道ができる。


ルカとフィアは、そこへ滑り込んだ。


フードの落ちた髪が揺れる。


目立つ。

けれど、今度はただ街に飲まれるためではなかった。


ルカがその流れの中でフィアを支えた。


強く抱え込むのではなく、倒れないように腕を添えるだけだった。


フィアの足はまだ震えている。

けれど、立っている。


自分で歩いた先に、ルカの手があった。


シリウスはアルナトの前に立ったまま、視線を外さなかった。


アルナトは打たれた腕を一度だけ見た。


痛みよりも、遅れを確かめるような目だった。


それから、フィアを見る。


フードの落ちた白色金の髪。

ルカに支えられながらも、自分の足で立っている姿。

シリウスの背。

こちらを見始めた番人。

足を止めた荷運びの男たち。

乱れた荷出し口の流れ。


アルナトは一歩も動かなかった。


追おうと思えば、まだ追える。


フィアは速くない。

ルカも傷を抱えている。

シリウスも万全ではない。


奪い返すことだけを考えれば、できないわけではなかった。


けれど、深く追う必要はなかった。


もともと、予定外に手に入れかけただけだ。


連れていくなら守らなければならない。

守るには手間がかかる。

今ここで騒ぎを起こすほどの価値はない。


そして、必要ならまた奪える。


アルナトは、そう判断したのだろう。


灰色の目が、最後にフィアを見た。



「逃げるのが下手なままだな」



声は荒くなかった。

けれど、以前と同じ意味ではなかった。


フィアは何も言えなかった。


アルナトはわずかに口元を歪める。



「返してやる」



その言い方は、まるで最初から自分の手の内にあったものを、一時的に戻すだけだと言っているようだった。


シリウスの指が、剣の柄を握りしめる。


追いたい。


このまま去らせてはいけない。

そう思う。


けれど、動かなかった。


今、追えばフィアから離れる。

また同じことになる。


だから、シリウスは剣を抜かなかった。


アルナトは裏門の影へ下がった。

番人が何かを言いかけたが、アルナトはそれを聞いていないように歩いた。

荷馬車の陰を抜け、倉庫沿いの暗がりへ入ると、あの高い背も、黒い髪も、人の流れに紛れていく。



最後まで、走らなかった。

逃げたようには見えなかった。


ただ、ここにいる理由がなくなった者のように去っていった。


フィアはそれを見ていた。


足が震えている。

呼吸がうまくできない。


ルカの手が、そっと腕を支えている。



「フィア」



今度の声はルカだった。

フィアはゆっくりと瞬きをする。


戻ったのだろうか。

戻れたのだろうか。


分からなかった。


アルナトの声が、まだ耳に残っている。



フィア。

来い。



初めて名前を呼ばれた感覚が、胸の奥に残っている。


シリウスが近づいた。


彼はすぐには触れなかった。


触れていいのか分からないように、ほんのわずかに手を止める。



「……フィア様」



呼ぶ声が、低く震えていた。

フィアはゆっくりと顔を上げる。


シリウスは膝をつき、目線を合わせた。

それから、傷つけないように確かめるように、彼女の肩へ手を伸ばす。


指先が震えていた。


剣を握る時には揺れない手だった。

敵の前では迷わない手だった。


それが今は、フィアの肩に触れるだけで震えている。



「怪我は」



声が掠れた。



「どこか、痛むところはありませんか」



フィアはすぐに答えられなかった。


痛いところ。

怖かったところ。

掴まれたところ。

何を答えればいいのか分からなかった。


けれど、シリウスの手が自分を掴むためではなく、確かめるためにそこにあるのだと分かると、胸の奥に遅れて息が戻ってきた。



「……だい、じょうぶ」



そう言った声は、ひどく小さかった。


大丈夫ではなかった。

けれど、ここにいる。


シリウスの顔が歪んだ。



「……はい」



それだけだった。


それ以上言えば、何かが崩れてしまいそうだった。


ルカは少し離れたところで、水路沿いの荷出し口を見ていた。アルナトが消えた方角を見ている。追うべきではないと分かっていても、完全に目を離すことはできないのだろう。


けれど、誰も追わなかった。


今は、フィアがここにいる。

それを手放さないことの方が先だった。


水路の匂いが、まだ濃い。


荷馬車の音が戻っていく。

番人の声も、何事もなかったように遠ざかる。

荷出し口はまた、いつもの流れに戻ろうとしていた。


けれど、フィアの中では何も戻っていなかった。


アルナトは去った。

フィアは戻った。


それでも、終わったわけではなかった。


灰色の目。

初めて名前を呼んだ声。

半分にも足りない、と言われた音。


そして、名前にもなりきれない欠片。


るな。


その音だけが、まだ胸の奥に残っていた。

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