62話-1(分岐バッドエンド)
※この先は分岐となります。
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黒髪の男が出ていき、扉は閉まった。
けれど、鍵の音はしなかった。
それでもフィアは外へ出られず、部屋の隅に身を寄せるようにして座っていた。
机の上には男の短剣があり、床には手をつけられないままの食べ物が入った袋がある。
扉も窓もあるのに、その先のどこへ向かえばいいのか分からなかった。
外からは、知らない街の声が聞こえている。
足音が行き交い、遠くで誰かが笑っている。
そのすべては確かに近くにあるのに、この部屋には届かない。
フィアは膝を抱えたまま、机の上の短剣を見た。
飾りのない、使い込まれた短剣だった。
鞘も柄も古く、黒ずんでいる。
武器というより、印のように見えた。
男は、誰かが来たらそれを見せろと言っていた。
見せれば守られるのかもしれない。
けれど何が守られるのか、フィアには分からなかった。
その短剣を持った瞬間、自分の立場が決まってしまう気がした。
誰かに預けられているのか、誰かのものになったのか、自分ではまだ分からないものを自分から認めてしまう気がした。
短剣が怖いわけではなかった。
怖かったのは、それを持ったあと何が変わるのか、自分に分からないことだった。
フィアは手を伸ばしかけて、途中で止めた。
そのとき、部屋の外で足音がした。
体が強張る。
最初は、黒い髪の男が戻ってきたのだと思った。
けれど、近づいてくる足音は違っていた。
軽く、隠そうともしていない。
あの男の足音のように、いつの間にか近づいてくるものではない。
階段が小さく軋んだ。
一段。
また一段。
フィアは短剣を見た。
誰かが来たら見せろ、と言われていた。
そう分かっているのに、手は動かなかった。
扉が軽く叩かれ、フィアが返事をする前に開いた。
入ってきたのは、見知らぬ男だった。
フィアは息を止める。
その男は、黒い髪の男とはまるで違っていた。
背は高すぎず、体つきも威圧的ではない。
服装は簡素で、旅人にも商人にも見える。
目元には柔らかい笑みがあり、部屋に入ると少し驚いたように眉を上げた。
「あれ、先客?」
声も穏やかだった。
扉を閉める動作もゆっくりで、乱暴なところは少しもない。
フィアは警戒しなければいけないと思いながら、ほんの少しだけ息がしやすくなるのを感じた。
黒い髪の男のような怖さがない。
普通の人に見えた。
「怖がらなくていいよ」
男の声が少し柔らかくなる。
「ここ、そういう場所だから」
そういう場所。
意味は分からなかった。
けれど、この男には分かっているのだと思った。
この部屋のことも、机の上の短剣のことも、自分がここにいる理由のようなものも。
今なら見せればいい。
フィアはそう思った。
けれど、机の上の短剣へ手を伸ばそうとすると、胸の奥が重くなる。
この短剣を出した瞬間、自分で自分の立場を決めてしまう気がした。
守られているのかもしれない。
けれど、その代わりに何になっているのかは、まだ分からない。
分からないものを、自分から認めるのが怖かった。
男は少しだけ部屋の中を見回した。
寝台。
壁際の木箱。
そして机の上に置かれた短剣へ視線が落ち、一瞬だけ笑みが薄くなった。
本当に、一瞬だけだった。
けれど、フィアには分かった。
確かに見ていた。
しかも、その短剣が何なのか、それだけで分かったような顔をしていた。
それなのに男は、何も言わなかった。
驚きもせず、誰のものかも聞かず、すぐにフィアへ視線を戻す。
まるで最初から、この部屋にあるものを全部知っていたみたいだった。
「……静かだね」
男は穏やかに笑った。
「一人?」
フィアは声が出なかった。
答えなかったのに、男は気にした様子もない。
少しだけ近づいて、困ったように首を傾げる。
「ねえ」
優しい声だった。
「誰の?」
フィアは答えられなかった。
短剣のことなのか、自分のことなのか、それともこの部屋に置かれているものすべてのことなのか、分からなかった。
男は首を傾げる。
「それ」
男の視線が、机の上へ流れた。
「持ち主、いる?」
フィアの唇が震えた。
自分を連れてきた、黒い髪の男の。
そう答えればいいのだと思った。
そうすれば、この人は離れるのかもしれない。
人のものには手を出さない決まりなのだと、黒髪の男も言っていた。
けれど、その言葉は喉の奥で止まった。
口にした瞬間、自分までそこに含まれてしまう気がした。
男は待っているように見えた。
けれど本当は、もう答えを待っていないようにも見えた。
「じゃあ、君は?」
穏やかな声が続く。
「君は、誰の?」
フィアは息を呑んだ。
違う、と言いたかった。
誰のものでもない、と言いたかった。
けれど、その言葉も出てこなかった。
誰のものでもないと言った瞬間、今度は本当に、自分を守るものが何もなくなってしまう気がした。
短剣を見せることもできない。
黒い髪の男のものだとも言えない。
誰のものでもないとも言えない。
だからフィアは、ただ黙っていた。
男はその沈黙を拾うように、小さく笑った。
「へえ」
最初と変わらない、優しい声だった。
「誰のものでもないんだ」
そのとき、フィアは遅れて理解した。
この人は助けてくれる人ではない。
こちらの言葉を待っていたわけでもない。
答えられない沈黙を、自分に都合よく受け取る人だった。
男が一歩近づいたとき、フィアはようやく短剣に手を伸ばそうとした。
けれど、遅かった。
男は短剣を取らなかった。
触れもしなかった。
机の上に置いたまま、フィアの手首を軽く押さえる。
強くはない。
痛くもない。
それでも、動けなかった。
「誰のものでもないなら」
優しい声が言った。
「持っていっても、怒られないよね」
フィアは首を振ろうとした。
声を出そうとした。
けれど、何も間に合わなかった。
机の上には、短剣だけが残った。
男のものだと分かるはずのもの。
見せろと言われていたもの。
見せなかったもの。
扉は開いていた。
鍵は、最後までかからなかった。
部屋の外から、別の男たちの声が聞こえた。
「何だ、それ」
フィアの手首を押さえた男が、いつもの穏やかな声で答える。
「誰のものでもないって」
それから、少しだけ笑った。
「なら、拾ってもいいだろ」
机の上の短剣だけが、最後までそこに残っていた。
bad end.
誰のものでもないなら




