63話 置かれたもの、探す者
黒髪の男が出ていき、扉は閉まった。
けれど、鍵の音はしなかった。
それでもフィアは外へ出られず、部屋の隅に身を寄せるようにして座っていた。
机の上には男の短剣があり、床には手をつけられないままの食べ物が入った袋がある。
扉も窓もあるのに、その先のどこへ向かえばいいのか分からなかった。
外からは、知らない街の声が聞こえている。
足音が行き交い、遠くで誰かが笑っている。
そのすべては確かに近くにあるのに、この部屋には届かない。
フィアは膝を抱えたまま、机の上の短剣を見た。
飾りのない、使い込まれた短剣だった。
鞘も柄も古く、黒ずんでいる。
武器というより、印のように見えた。
男は、誰かが来たらそれを見せろと言っていた。
見せれば守られるのかもしれない。
けれど何が守られるのか、フィアには分からなかった。
しばらくそうして見つめたあと、フィアはそっと手を伸ばした。
冷たいと思った。
けれど、触れてみると不思議とそうでもなかった。
両手で持ち上げて、胸の近くへ引き寄せる。
守りたかったわけではない。
信じたかったわけでもない。
ただこの部屋の中で、自分だけが置いていかれていない気がするものがそれしかなかった。
あの夜、山の中で確かに自分を助けた男。
灰色の瞳。
黒い髪。
フィアは俯いたまま、小さく唇を動かした。
「……るな」
先ほど口にしてしまった音だった。
名前ではないのかもしれない。
欠片にすぎないのかもしれない。
それでも、その言葉を口にすると、さっきより少しだけ部屋の静けさが遠くなった気がした。
そのときだった。
階段が、小さく軋んだ。
フィアの肩が震える。
また足音だった。
今度は隠す様子もなく、ゆっくりと近づいてくる。
扉が開く。
現れた男は、フィアを見る。
そして次に、その腕の中にある短剣へ視線を落とした。
ほんの一瞬だった。
「ああ」
男は短剣を見て、少しだけ眉を動かした。
「……あいつのか」
さっきまでの興味が、急に消えたようだった。
男はフィアに近づかなかった。
部屋の隅に置かれていた袋を一つ持ち上げ、棚の上の何かを確認し、それだけで扉へ向かう。
「悪いね、使わせてもらうだけだから」
そう言って、もうこちらを見ることもなかった。
扉が閉まる。
足音が遠ざかっていく。
フィアは、胸の前の短剣を少しだけ強く抱えた
その頃、フィアの姿が消えた路地には、まだ人の声が遠く残っていた。
通りの向こうでは、誰かが荷を運んでいる。
呼び込みの声も、車輪の音も、何事もなかったように続いている。
けれど、シリウスの耳にはほとんど入っていなかった。
膝が一度、石畳についた。
傷が深い。
それでも立ち上がろうとする。
「シリウス、動くな」
ルカの声がした。
いつもの軽さはなかった。
「今の君が走っても、すぐ倒れる」
「倒れている暇はない」
シリウスは低く言った。
視線は、黒髪の男が消えた方角から外れない。
フィアを一人にした。
剣を抜いた。
守るためだった。
それなのに、その剣が、彼女を奪われる口実になった。
目の前で連れていかれた。
その事実が、何度も胸の内側を抉る。
「フィア様を追う」
「だから動くなって言ってる」
ルカが片膝をつき、シリウスの傷を見た。
ルカ自身も無傷ではなかった。
息は乱れていて、額には汗が浮いている。
それでも、シリウスの傷の方が深いと判断したのだろう。
「治すんじゃない。動けるようにするだけ」
「お前も怪我をしている」
「知ってる。でも今、君が倒れたら終わりだ」
ルカの手が、シリウスの傷口の上にかざされる。
淡い光が灯った。
痛みが消えるわけではない。
血が完全に止まるわけでもない。
ただ、動けるだけの最低限を、無理やり体に戻していく。
シリウスは歯を食いしばった。
「……私が剣を抜かなければ」
「それは後でいい」
「後で済む話じゃない」
「今ここで自分を責めても、フィアは戻らない」
ルカの声がわずかに硬くなる。
シリウスは黙った。
その通りだった。
分かっている。
分かっていても、止まらない。
フィアを一人にした。
間に合わなかった。
守れなかった。
シリウスは拳を握る。
「どこへ行った」
「それを考えてる」
ルカは治癒の光を弱めながら、路地の先を見た。
琥珀色の瞳に、いつもの余裕はなかった。
あの黒髪の男。
灰色の目。
シリウスよりも高い背。
そして、ルカの出自を見抜いたような言葉。
そのことが、ルカの中にまだ刺さっているのが分かった。
普段なら、ここで軽口の一つでも挟むはずだった。
だが、ルカは何かを言いかけて、やめた。
「奪うだけなら、もう街を出てる」
ようやく口にした言葉は、低かった。
シリウスが顔を上げる。
「なら門だ」
「違う。……いや、分からない。でも、たぶん違う」
ルカは眉を寄せた。
「フィアを連れていったのはあいつにとって予定外だった」
「なぜそう言える」
「言い切る訳じゃない」
ルカは即答した。
その正直さが、かえって状況の悪さを示していた。
「でも、あいつはフィアを探してこの街に来たようには見えなかった。
少なくとも、最初から連れて逃げる準備をしていた感じじゃない」
「では何だ」
「別の用があった」
ルカは唇を噛んだ。
「依頼か、取引か、誰かとの接触か。そういうものを抱えているなら、予定外にフィアを連れていったからって全部捨てるとは限らない」
シリウスはすぐに動こうとする。
ルカが腕を掴んだ。
「待て」
「待てない」
「また同じことになる」
その言葉に、シリウスの動きが止まった。
ルカも、自分が何を言ったのか分かっているようだった。
一瞬だけ気まずそうに目を伏せる。
けれど、撤回はしなかった。
「君が怒るのは分かる。でも、あいつはたぶん、それを読んでた。君が剣を抜くことも、前に出ることも」
シリウスの喉が詰まる。
「……ああ」
認めるしかなかった。
「だから、次はそれじゃ駄目だ」
ルカは傷を押さえながら立ち上がった。
「フィアを連れて、すぐ街を出るなら門か裏道。でも、まだ用があるなら、一度どこかへ置く」
「置く?」
シリウスの声が低くなる。
ルカは言い方を誤ったと分かったのだろう。
けれど、言い直さなかった。
「宿じゃない。人目がある。表通りでもない。完全な廃屋も危ない」
「どこだ」
「分かってたら、もう走ってる」
ルカの声に、初めて焦りが滲んだ。
「でも、そういう場所を持ってる奴らはいる。短時間だけ使える部屋。
荷物を置いて、誰が出入りしても深く聞かれない場所」
シリウスは息を吸った。
今すぐ駆け出して、路地を一つ残らず探し回りたかった。
人の首根っこを掴んででも、フィアの居場所を聞き出したかった。
だが、それをすればまた遅れる。
また、フィアを遠ざける。
シリウスは拳を開いた。
「探し方を教えてくれ」
ルカが少しだけ目を見開いた。
シリウスは続ける。
「お前が道を決めろ。私は動く」
「……ずいぶん信じてくれるね」
「今はそれしかない」
ルカは小さく息を吐いた。
笑おうとしたのかもしれない。
けれど、いつもの軽い笑みにはならなかった。
「じゃあ、まずはこの近くで、表の宿じゃない場所を当たる。
裏通り、倉庫、荷運びの中継所。あと、あいつの同業者なんかが使いそうな部屋」
「同業者?」
「多分ね。断言はしない」
ルカは痛む脇腹を押さえた。
「当てずっぽうだよ。でも今は、当てずっぽうでも拾うしかない」
シリウスは頷いた。
傷はまだ痛む。
視界の端が白く滲む。
それでも、立てる。
動ける。
「行くぞ」
「走るなよ」
「分かっている」
「本当に?」
シリウスは答えなかった。
ルカも、それ以上は言わなかった。
二人は路地を出る。
シリウスの胸の奥では、まだ自責が燃えている。
フィアを奪われた瞬間が、何度も繰り返されている。
だが、今はそれを剣に乗せない。
怒りを抱えたまま、足を止める。
焦りを殺して、探す。
今度こそ、取り戻すために。




