62話 るな
街の中を歩いているあいだ、誰もフィアを気にしなかった。
人の声があった。
荷車の軋む音があった。
店先からは呼び込みの声が飛び、道端では誰かが笑っていた。
そのすべてが近くにあるのに、誰もこちらを見ない。
フィアが連れ去られているようには、きっと見えないのだろう。
そう見えないように、歩かされているのだと気づいた。
黒い髪の男は、フィアの腕を掴んではいなかった。
肩に触れてもいない。
ただ、隣を歩いているだけだった。
けれど、逃げられる距離ではなかった。
一歩遅れれば、男の気配が近づく。
立ち止まれば、振り返られる前に足がすくむ。
人混みの中で声を上げれば、誰かが助けてくれるのかもしれない。
けれど、その誰かが教会側の人間ではないとは、もう思えなかった。
フィアは唇を引き結び、俯きすぎないように歩いた。
男は、あの山の中で会ったときとは違っていた。
あのとき目に入った刺青も、今は暗い布の下に隠れている。
派手すぎず、地味すぎもしない服。
質は悪くないのに、目立つ飾りは何もない。
色も形も、人の目に引っかからない。
その服をまとった男は、周囲より頭一つ分高いはずなのに、通りの中に溶け込んでいた。
それだけではない。
彼の歩き方は、周囲の流れを読んでいるようだった。
人の波が割れる場所を選び、視線の集まりに入る前に道をずらす。
歩幅も、速さも、そこにいる人間として不自然ではない。
その横を歩かされているフィアの歩き方さえ、いつの間にか人混みに紛れ込んでいた。
誰も怪しまない。
きっと、少し事情のある二人連れにしか見えない。
フィアは、それが怖かった。
助けを求められないことより、助けを求める状況に見えないことの方が、ずっと怖かった。
やがて二人は、大通りから外れた。
人の声が少しずつ遠くなる。
石畳は狭くなり、建物の影が濃くなる。
古い建物の前で足を止めると、男は何も言わずに中へ入った。
フィアは一瞬だけ躊躇した。
けれど、後ろを振り返っても知らない道しかない。
ここで走っても、すぐに追いつかれる。
仕方なく、その背を追った。
階段は狭く、古かった。
踏むたびに、木が小さく軋む。
二階の奥の扉を開けると、そこには小さな部屋があった。
宿ではない。
フィアは、すぐにそう思った。
人を迎える場所ではない。
誰かを休ませるための部屋でもない。
部屋にあるものは少なかった。
寝台が一つと、粗い毛布。
机と椅子、水差し、それから古いランプ。
どれも使われてはいるのに、そこに暮らしている誰かの気配はなかった。
椅子の背には古い外套が掛かっていて、棚の隅には、誰のものか分からない手袋が置かれていた。
床板にはいくつも傷があり、壁際には空の木箱や布袋が積まれていた。
革と油、埃、乾いた木材。
それに、古い煙草か薬草のような残り香が混じっている。
使われているのに、住まれてはいない部屋だった。
フィアは、ルカの隠れ家を思い出した。
ルカと出会い最初に向かった街にも、あの山の中の村にも、ルカにはそういう場所があった。
そこも仮の場所だった。
けれど、毛布の置き方や火の残り方に、人を休ませるための気配があった。
ここは違う。
ここは、休む場所ではない。
人も、荷物も、同じように置いておく場所に見えた。
フィアは扉を見た。
窓を見た。
窓はある。
けれど、そこから見えるのは知らない通りだけだった。
下には人が通っている。声もする。
けれど、どこへ向かえばいいのか分からない。
シリウスがどこにいるのかも。
ルカがどこにいるのかも。
この街の出口がどちらなのかも。
扉は開くかもしれない。
窓もある。
逃げ道はあるように見えた。
けれど、その先に行き先がなかった。
「水はそこだ」
男が部屋の隅を顎で示した。
「食べ物はこの袋の中にある。火は使うな」
フィアは頷くこともできず、ただ男を見た。
部屋の薄暗さの中で、フィアは初めて男を正面から見た気がした。
黒い髪は肩に触れるほどの長さで、無造作に落ちている。
整えられていないのに、不思議と乱れているようには見えない。
灰色の瞳は光を受けても温度を持たず、銀とも青とも違う色をしていた。
暗い水底のようで、何を映しているのか分からない。
顔立ちは整っている。
けれど、人を安心させる整い方ではなかった。
頬や顎の線は薄く、血の気も少ない。
病人のようではないのに、生きている人間の柔らかさが遠い。
背が高いだけではなかった。
手足が長く、何もしていないその腕や指が、なぜか目に残る。
扉から離れて立っているはずなのに、部屋の中の逃げ道を塞がれているような気がした。
山の中で見えた入れ墨は、今は布の下に隠れている。
首元も、肩も、腕も、暗い服に覆われている。
けれど、隠れているからこそ、そこにあると分かってしまう。
あの黒い模様が、布の下でまだ彼の肌に刻まれている。
そう思うだけで、見てはいけないものを思い出してしまったような気がした。
男は、何もしていない。
声を荒げてもいない。
手を伸ばしてもいない。
フィアを見下ろしているだけだった。
それなのに、見ているうちに、胸の奥が冷えていく。
刃物を持っているから怖いのではない。
力が強そうだから怖いのでもない。
ただ、そこに立っているだけで、何かが違う。
人の形をしているのに、人の内側にあるはずの何かが欠けているようだった。
男の目が、ふとフィアへ向いた。
視線に気づかれた。
そう思った瞬間、フィアは息を詰め、慌てて目を伏せた。
床に置かれた袋の口から、押し固めた穀物の塊と、干し肉、皮のついた果物が見えた。
食べ物だということは分かる。
けれど、それをそのまま齧るものなのか、水で戻すものなのか、フィアには分からなかった。
教会で出される食事は、いつも皿の上に整えられていた。
切られ、温められ、祈りの後に口へ運ぶだけでよかった。
シリウスやルカと旅をしていたときでさえ、分からないものは誰かが教えてくれた。
袋の中のそれは、食べ物というより、まだ何かの材料のように見えた。
フィアが黙っていると、男は続けた。
「ここは俺だけの場所じゃない」
その声は、説明というより確認に近かった。
「顔見知りが使うこともある」
フィアは思わず顔を上げる。
誰かが来る。
その可能性が、部屋の空気を変えた。
「互いの持ち物には手を出さない。それが決まりだ」
持ち物。
その言葉だけが、遅れて胸の奥に落ちた。
その中に、自分が含まれているのかどうか、フィアには分からなかった。
男は腰に手をやった。
そして、短剣を鞘ごと外した。
一本だけだった。
少なくとも、フィアに見える範囲では、男が身につけている刃はそれしかなかった。
男はそれを、机の上に置く。
重い音がした。
「誰か来たら、それを見せろ」
フィアは短剣を見下ろした。
「俺のものだと分かる」
短剣に飾りはなかった。
鞘も柄も古く、使い込まれて黒ずんでいる。
けれど粗末ではない。
何度も手に馴染ませ、長く残った道具のようだった。
「この部屋を使うような奴なら、それを見れば分かる」
男は淡々と言う。
「近づいてくるようなら、突きつければいい」
そこで少しだけ、フィアを見た。
「だが、抜くな。抜いたところで、お前には使えない」
フィアは何も言えなかった。
守られているのだろうか。
それとも、印を持たされただけなのだろうか。
俺のもの。
それが短剣のことだけを指しているのか、フィアには分からなかった。
腰から短剣がなくなっても、男は少しも弱くなったようには見えなかった。
代わりの刃を探す素振りもない。
それでも、彼が危険でなくなったようには思えない。
刃物を持っているから怖いのではない。
そう思ってしまうことが、怖かった。
男は机の端に置かれていた紙片を一度だけ見た。
そこに何が書かれているのか、フィアには見えなかった。
ただ、その口元がほんの少し歪んだ気がした。
笑ったのではない。
何かを確かめたような、そんな歪みだった。
男が口を開いた。
「用事を済ませてくる。日が落ちる前には戻る」
少し間を置いて、付け足す。
「たぶんな」
フィアの指先が、服の布を掴んだ。
男が扉へ向かう。
一人にされる。
そう分かった瞬間、胸の奥が冷たくなった。
外には出られない。
ここにいても安心できない。
けれど、この人がいなくなれば、自分の状況を知っている者が誰もいなくなる。
「待って」
思わず声が出た。
そこで初めて、フィアはここまで一度も声を出していなかったことに気づいた。
声は小さく、ひどく掠れていた。
男は止まらなかった。
扉へ向かう背中が、そのまま遠ざかる。
名前を知らない。
フィアはそのことに、遅れて気づいた。
呼び止めるための名前がない。
本当の名前も知らない。
呼んでいい名も知らない。
そのとき、夜中に聞いた声の断片が、ふいに戻ってきた。
黒い髪。
灰色の瞳。
シリウスとルカが、フィアが目を閉じていたときに低く話していた。
彼の名を伏せようとしていたのか、二人ははっきりとは口にしなかった。
けれど、その会話の隙間から、欠片だけがこぼれ落ちた。
るな。
そんな音だけだった。
それが名前なのか。
名前の一部なのか。
聞き間違いなのか。
フィアには分からない。
けれど、他に呼ぶ言葉がなかった。
「待って、るな」
足が、一瞬だけ止まった。
本当に、一瞬だけだった。
それでもフィアは知ってしまった。
完全な間違いではなかったのだと。
ゆっくりと、男が振り返る。
灰色の目が、フィアを見た。
「……何故そう呼んだ」
声は荒くなかった。
だから余計に、逃げ場がなかった。
「夜に……シリウスと、ルカが、あなたのことを話していて」
フィアは声を震わせながらも続ける。
「私に聞かせないようにしていたみたいで……でも、そう聞こえたから」
男の表情は変わらない。
「名前だと思ったのか」
フィアは答えられなかった。
名前だと思ったのか。
ただ、呼び止めたかっただけなのか。
それとも、その言葉を口にすれば止まってくれると、どこかで思ったのか。
自分でも分からなかった。
男はしばらく黙っていた。
それから、短く言った。
「半分にも足りない」
それだけだった。
正しいとも、違うとも言わなかった。
本当の名前も、教えなかった。
男は再び扉へ向かう。
「逃げるなら好きにしろ」
扉に手をかけたまま、言う。
「外で誰に捕まるかまでは知らない」
少しだけ間を置いて、机の上の短剣を見る。
「残るなら、それを見せろ」
そして、出ていった。
扉は閉まった。
鍵の音は、しなかった。
それでもフィアは動けなかった。
机の上には、男の短剣がある。
袋の中には、手をつけられないままの食べ物がある。
扉は、たぶん開く。
それでも、足は動かなかった。
部屋の中に残ったのは、自分の呼吸と、名前にもなりきれない“るな”という欠片だけだった。




