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many merry bad ENDs  作者: 源泉


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61話

その時、誰かがフィアの名を呼んだ。



「フィア様!」



シリウスの声だった。


その声を聞いた瞬間、フィアの体がようやく動いた。



「シリウス……」



声がかすれる。


路地の入口に、シリウスが現れた。

その後ろにルカもいる。


シリウスはフィアの姿を見た瞬間、顔色を変えた。

剣の柄へ手が動く。


だが、次に黒髪の男を見て、その目がさらに冷えた。


シリウスよりも高い背。

長い手足。

灰色の瞳。


ルカから聞いていた。

あの夜、フィアを助けたという黒髪の男。


アルナト。


シリウスは、その名をすぐに思い出した。


ルカも、すぐに足を止めた。

いつもの軽さはない。

琥珀色の瞳が、黒髪の男と、フィアと、路地の奥を順に見る。



「……何があった」



ルカの声は低かった。

シリウスが一歩踏み出す。



「フィア様から離れろ」



黒髪の男は、動かなかった。



「離れている」



確かに、触れてはいなかった。

近づきすぎてもいなかった。


けれど、その場を支配しているのは彼だった。



「守っている割に、よく見失う」



男の言葉に、シリウスの表情が変わった。


怒りではない。

もっと深いところを刺されたような顔だった。



「……黙れ」



低い声だった。

フィアは思わず首を振る。


「違……」


声がうまく出ない。


フィアが追われたのは、シリウスたちのせいではない。

自分が残ると決めた、と言いたかったのか。


自分を追っていたのは、この黒髪の男ではない。

けれど、助けてくれたのだとも言い切れない。


だから、何を否定すればいいのか分からなかった。


けれど、言葉になるより早く、シリウスの手が剣の柄を握り込んだ。

鯉口が、かすかに鳴る。



「シリウス!待って!」



ルカの声が飛ぶ。



「フィア。この人に追われたわけじゃないんだね」



フィアは小さく頷いた。



「……部屋に、知らない男の人たちが来て……逃げて……」



言葉は途切れ途切れだった。

それでも、ルカには伝わったらしい。


ルカの視線が、黒髪の男へ戻る。



「それで、この人が割って入った」



フィアは、かすかに頷いた。


シリウスは剣から手を離さなかった。

だが、踏み込むのは止めた。


黒髪の男はルカを見た。



「礼はいらない」


「そうだろうね」



ルカの目が細くなる。



「助けたつもりじゃないんだろうから」



男は否定しなかった。

ただ、フィアを一度見た。


フィアはその視線から逃げられなかった。


男は、今度はシリウスを見た。



「そいつは俺の獲物だ」



シリウスの瞳が冷える。



「何を言っている」


「奪いに行くまで、しっかり守れ」



フィアの息が止まる。

奪いに行く。


その言葉だけでも十分だった。

だが、アルナトはそこで終わらなかった。


彼はフィアへ視線を戻し、ゆっくりと一歩近づいた。


それだけで、フィアの肩が震えた。


シリウスの手が、剣の柄を握る。



「近づくな」


「命令する立場か」



アルナトは止まらなかった。

もう一歩。


その足がフィアとの距離を縮めた瞬間、シリウスの剣が抜かれた。


刃が鞘を離れる音が、狭い路地に鋭く響く。

銀の髪が揺れ、剣の軌跡が朝の光を裂いた。


黒髪の男は、ほとんど表情を変えなかった。


半歩、退く。


ただそれだけで、シリウスの剣は男の前を掠めて空を切った。


次の瞬間、黒髪の男の手に短剣があった。


いつ抜いたのか、フィアには見えなかった。

服の陰から、冷たい光だけが現れたように見えた。


短い刃が、シリウスの剣を正面から受けるのではなく、横へ逸らす。

金属が擦れる音がした。


シリウスはすぐに剣を返す。

重い一撃。

迷いのない踏み込み。


けれど、路地は狭かった。


壁。

木箱。

フィア。

ルカ。


シリウスの剣は、いつものように振れなかった。

踏み込めばフィアに近づく。

下がれば黒髪の男がフィアへ近づく。

横へ払えば、ルカの立つ場所を奪う。


その迷いを、アルナトは見逃さなかった。


短剣の刃が、シリウスの剣の腹を叩く。

大きく弾いたわけではない。

ほんの少し、軌道をずらしただけだった。


だが、その少しで十分だった。

シリウスの体勢が崩れる。


アルナトは、ほんのわずかに目を細めた。


腕は悪くない。

むしろ、まともに受ければ厄介な剣だった。


だが、今は見えていない。


女を見ている。

自分を見ている。

怒りを押さえようとしている。

その全部が剣に出ていた。


先ほど退いた痩せぎすの男の方が、判断だけは冷静だった。


勝てないと見れば退く。

欲を残しても、命までは賭けない。

あれはつまらない男だったが、判断はできた。


この騎士は違う。


守るものを前に置いた瞬間、退くことを忘れる。



「っ……!」



シリウスは膝で踏みとどまる。

すぐに剣を引き戻そうとする。


その間に、ルカがフィアのもとへ駆け寄った。



「フィア、こっちへ」



ルカの手が、フィアの腕を支える。

軽い声ではなかった。

いつもの冗談もない。


フィアは立とうとした。

けれど、足に力が入らない。



「ルカ……」


「大丈夫。僕を見るんだ。あっちは見なくていい」



ルカはそう言いながらも、視線だけは戦いから外していなかった。


ルカは歯を食いしばった。


今の一手が正しかったのか、間違っていたのか、判断できなかった。

アルナトはまだフィアに触れていなかった。

けれど、近づいていた。

その目は、見逃す者の目ではなかった。


シリウスが剣を抜かなければ、何も起きなかったのか。

それとも、剣を抜かなければ、そのままフィアに手が伸びていたのか。


分からない。


ただ、もう戦いは始まっていた。


短剣と長剣がぶつかる音がする。

シリウスの剣は重く、速い。

まともに受ければ、アルナトの短剣など簡単に折れそうだった。


けれど、アルナトは受けなかった。


刃を滑らせる。

踏み込みを外す。

シリウスの力が乗る前に、剣の向きを変える。


まるで、シリウスの剣を避けているのではなく、シリウスの体そのものを動かしているようだった。



「連れて逃げるのか」



アルナトがルカに向けて言った。


息は乱れていない。

声も荒れていない。


シリウスの剣を短剣で逸らしながら、まるでただ話しているだけのように続ける。



「そいつを連れて、この路地を抜けるつもりか。お前が」



ルカは答えなかった。



「隣国の者にしては、よくこの国に馴染んでいる」



ルカの指が、わずかに強張った。


アルナトの灰色の瞳が、ほんの一瞬だけルカを見る。



「発音に癖が残っているな」



ルカは笑おうとした。



「へえ」



軽い声にしようとした。

けれど、自分でも分かるほど、喉が震えていた。



「見抜かれたのなんて、初めてだよ」


「上手く隠していた」



アルナトは淡々と言った。



「だが、今は乱れている」



挑発だと分かっていた。

乗ってはいけない。


今すべきことは、フィアを立たせること。

この場から離すこと。

シリウスが時間を稼いでいる間に、少しでも遠ざけること。


そう分かっている。

けれど、動けなかった。


アルナトは、シリウスの剣を短剣ひとつで捌いている。

それも、ぎりぎりではない。


あの聖騎士の剣を前にして、まだこちらを見る余裕がある。


ルカの手に、わずかな汗が滲んだ。



「今すぐ」



アルナトが言った。


シリウスの剣を避ける。

短剣が、刃の根元を叩く。

シリウスの肩がわずかに開く。



「奪うつもりは」



さらに一歩。



「なかった」



言葉の終わりと同時に、黒髪の男の足が動いた。


蹴りだった。


刃ではない。

けれど、それは剣よりも速かった。


シリウスの脇腹に、正確に入る。

息を吐く暇もなく、シリウスの体が横へ飛んだ。



「シリウス!」



フィアの叫びが路地に響く。


シリウスは壁に背中を打ちつけた。

鈍い音がした。


剣が手から離れ、石畳の上を滑る。


それでもシリウスは倒れきらなかった。

壁に肩を預け、歯を食いしばりながら、なお立とうとする。


だが、その膝が一瞬だけ落ちた。

黒髪の男は、動揺しなかった。



「先に剣を抜いたのはそっちだ」



声は平坦だった。


責めているのではない。

怒っているのでもない。

ただ、結果を告げているだけだった。


ルカの手が、フィアの腕から離れた。

彼も剣を抜いた。


けれど、構えたまま踏み込まない。

踏み込めなかった。


シリウスを一撃で壁へ叩きつけた相手だ。

真正面から斬り合って勝てるとは思えない。


考えろ。


ルカは息を殺す。


フィアを逃がすにはどうする。

路地の奥か。

大通りか。

シリウスの剣を拾わせるか。

自分が足止めするか。


答えは出なかった。


黒髪の男の灰色の瞳が、ルカを見た。



「その女を一人で逃がしてどうする」



ルカの息が止まる。


読まれた。



「最初に追っていた男たちに捕まるだけだ」



その言葉が落ちた瞬間には、アルナトはもう目の前にいた。


速い。


ルカは剣を上げる。

間に合ったはずだった。


けれど、短剣は剣を叩かなかった。

黒髪の男の手が、ルカの手首の内側へ入り込む。


痛みが走る。

剣を握る指の力が、一瞬だけ抜けた。



「っ……!」



その瞬間、視界が揺れた。

投げられたのだと、遅れて分かった。


ルカの体が壁へ叩きつけられる。

シリウスが打ちつけられたのと同じ側の壁だった。


息が詰まる。

治ったばかりの脇腹に鈍い痛みが広がる。


剣は手の中に残っていた。

けれど、すぐに構え直せない。



「ルカ!」



フィアの声が震えた。


シリウスも、ルカも、まだ意識はある。

それでも、二人ともすぐには動けなかった。


その事実だけで、フィアの足元が崩れていくようだった。

黒髪の男がフィアを見る。



「守れと言った」



声は静かだった。

シリウスが壁に手をつく。



「まだ……」



言葉が苦しげに途切れる。

黒髪の男は、シリウスを一瞥した。



「出来ないのなら、お前たちのそばに置いておく理由がない」



フィアの体が凍りついた。

置いておく理由。


その言葉が、何を意味するのか分かってしまった。


黒髪の男が、こちらへ歩いてくる。


フィアは後ずさろうとした。

けれど、背中には木箱がある。


逃げ場はない。



「いや……」



声が漏れた。



「来ないで……」



男は止まらない。

初めて、彼の手がフィアへ伸びた。


乱暴ではなかった。

怒ってもいなかった。

けれど、逃げる余地を残さない手だった。


手首を掴まれる。


強すぎるわけではない。

けれど、振りほどけない。



「いや……っ」



フィアは腕を引こうとした。

動かない。


まるで自分の体だけが、この路地に縫い止められてしまったようだった。



「フィア様!」



シリウスが手を伸ばす。

ルカも壁から身を起こそうとする。



「フィア!」



けれど、二人とも届かない。


黒髪の男は、フィアの手首を掴んだまま、路地の入口へ向かう。



「まだ先でいいと思っていた」



黒髪の男は、静かに言った。



「だが、お前たちでは守れない」



フィアは振り返る。


シリウスがこちらへ手を伸ばしていた。

ルカが剣を支えに立ち上がろうとしていた。


けれど、距離がある。

たった数歩なのに、届かない。



「シリウス……!」



今度は、はっきり呼べた。

シリウスの顔が歪む。


その顔を見た瞬間、フィアは思った。


呼ばなければよかった。


その声が届いてしまったから。

届いたのに、助けられないことを、シリウスに分からせてしまったから。


黒髪の男は振り返らなかった。


大通りのざわめきが近づく。


人の声。

荷車の音。

屋台の呼び込み。

笑い声。


こんなに人がいるのに。

誰も、何が起きているのか分からない。


フィアの足元で、小さなものが光った。


青いガラス玉の髪飾りだった。

土で汚れて、石畳の上に落ちている。


シリウスに見せようと思っていたもの。

似合うかどうか、聞いてみたかったもの。

ルカが買ってくれたもの。


それが、そこに残っている。


追わなければならない。

けれど、シリウスの体はすぐには動かなかった。


だからシリウスの手は、せめてそこに残されたものへ伸びた。


シリウスが、それへ手を伸ばす。


届かない。


指先が、石畳を掻くだけだった。


誰も、それを渡せなかった。


フィアは人の流れへ引き込まれる。


黒髪の男の背が、視界を塞ぐ。

目立つはずの黒い髪も、長い手足も、人混みの中で少しずつ輪郭を失っていく。



「いや……」



フィアの声は、通りの喧騒に呑まれていく。



「シリウス、ルカ……!」



誰かが振り返ったかもしれない。

けれど、誰も止まらなかった。


人の流れが、二人を呑み込んでいく。


シリウスも。

ルカも。

あの路地も。


すべてが遠ざかる。


耳元で、黒髪の男の声が落ちた。



「逃げるのが下手なら、もう逃げるな」



フィアは答えられなかった。


ただ、自分の手首を掴む冷たい指だけを感じていた。

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