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many merry bad ENDs  作者: 源泉


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60話

灰色の瞳の男がその街にいたのは、フィアを追っていたからではなかった。


別の依頼があった。

それだけだ。


人の多い街は好きではない。

声が多く、匂いが多く、足音が多い。

誰かを探すには向いているが、誰かに見られることも増える。


それでも、仕事には都合がよかった。


旅人、商人、荷運び、傭兵、使い走り。

誰もがどこかへ向かい、誰もが誰かとすれ違う。

その中に一人増えたところで、誰も気にしない。


アルナトは人の流れの中に立っていた。

背は高い。

長い手足も、黒い髪も、本来なら目立つ。


だが、彼は目立たなかった。


歩幅を人の流れに合わせ、視線を留めすぎず、服も旅人に見えなくもない程度に抑えている。

派手すぎず、地味すぎず、覚えられにくいものを選ぶ。


人の中に沈むことには慣れていた。


その灰色の瞳が、通りの向こうに白色金の髪を捉えた。


偶然ではあった。

だが、その女がこの街にいること自体には気づいていた。


昨日、街の入口で歩き慣れないフードの女を見た時から、そうだろうとは思っていた。



だが、今この場所で、追われている姿を見ることになるとは思っていなかった。


山の中で見た時と同じだった。


逃げることに向いていない足取り。

怯えを隠しきれない目。

それでも、前へ行こうとする弱さ。


あの時、アルナトは追わなかった。


追えなかったわけではない。

探そうと思えば、すぐに見つけられた。


女も、女を連れていた二人も、逃げることに慣れていなかった。

痕跡は残る。歩幅も残る。

行き先の癖も残る。


見つけるだけなら簡単だった。


だが、どうするのかを決めていなかった。


殺すのか。

連れて行くのか。

見逃すのか。

もう少し壊れるまで放っておくのか。


どれも決めきれないまま、手を出す気にならなかった。


それなのに、時折思い出す声がある。


あの日、野盗の拠点で縛られていたフィアを解放した時。


ーーごめんなさい


そう言われた。


助けたつもりもない。

見逃したつもりもない。

ただ、あの時、殺さなかっただけだ。


それなのに、女はそう言った。


その声が、どうでもいい時に限って思い出される。

だからといって、今日ここで奪うつもりはなかった。



追われている姿を見たのも、偶然だった。

少なくとも、その時までは。


通りの向こうで、フィアが人の流れから外れた。

追われている。


すぐに分かった。


追う側の足取りは二つ。

ひとつは重く、苛立っている。

もうひとつは軽く、楽しんでいる。


アルナトはその二人を見た。


大柄な男。

痩せた男。

どちらも、どこにでもいるような顔をしていた。


人混みに放り込めば、すぐに忘れられる。

そういう顔だ。


だが、目だけは違った。

狙ったものが逃げるのを楽しむ目だった。


アルナトは一度、視線を外した。


女が追われている。

それだけなら、どうでもよかった。


こういう街では珍しくもない。

路地裏で誰かが泣いていても、誰も足を止めない。

人通りの少ない場所へ連れ込まれる者がいても、見て見ぬふりをする者の方が多い。


だが、追われているのがあの女なら、話は別だった。

銀髪の騎士も、金髪の青年もそばにいない。


何をしている。


守るつもりなら、目を離すな。

あれを他人の手に触れさせるな。


苛立ちに近いものが、胸の奥で冷たく動いた。


アルナトはゆっくりと歩き出した。

助けるためではない。


ただ、気に入らなかった。


まだ奪うと決めたわけではない。


だが、他人に奪われるのは不快だった。



フィアは、細い路地へ逃げ込んでいた。


大通りから外れた途端、音が少し遠のいた。

屋台の声も、荷馬車の音も、人々のざわめきも、壁と壁の間でくぐもって聞こえる。


人が少ない。


それだけで、少し息ができる気がした。

けれど、その安心はすぐに崩れた。


路地は思ったより狭かった。

積まれた木箱。

壁際に置かれた水桶。

干された布。

誰かの家の裏口。

濡れた石畳。


通れる場所は限られている。


フィアは走っているつもりだった。

けれど、足は思うほど前へ出ない。


昨日からの疲れが、今になって体の奥から引きずり出されてくる。

胸が痛い。

喉が焼けるように苦しい。

息を吸っても、足りない。


それでも止まれなかった。


後ろから、足音がする。


重い足音。

その少し後ろに、ほとんど音のしない足音。


来ている。


フィアは振り返らなかった。

振り返ったら、足が止まってしまう気がした。


細い路地を抜け、さらに奥へ入る。

そこには壊れかけた木箱が積まれていた。

干し布が風に揺れ、視界を遮っている。


フィアはその陰へ身を滑り込ませた。


息が荒い。胸が上下する。

これでは、すぐに見つかる。


手で口を押さえる。

声を出さないように。

息を少しでも小さくするように。

フードの中の髪飾りに触れる。


足音が近づいてくる。



「こっちに入ったな」



大柄な男の声だった。



「見れば分かる」



細い声が答える。



「足跡でも見てるのか?」


「足跡だけじゃない。布が揺れている。桶の水も跳ねている」



くつくつと笑う声がした。



「聖女様は、隠れるのが下手だ」



フィアの指先が冷える。


見つかる。

もう、見つかっている。


そう思った瞬間、干し布がめくられた。



「ほうら、いた」



痩せた男の声がした。


フィアは反射的に後ずさった。

だが、背中が木箱にぶつかる。


逃げ道がない。


大柄な男が近づいてくる。

痩せた男はその前に、すっと手を伸ばした。


骨ばった指が、フィアのフードにかかる。



「やめ……」



声は最後まで出なかった。


布が後ろへ引かれ、それに巻き込まれるように髪飾りが地面に落ちた。


小さな青い光が、石畳の上でかすかに跳ねる。


白色金の髪が、薄暗い路地の中でほどけた。

朝の光が壁の上からわずかに差し込み、その髪の一部だけを淡く照らす。


痩せた男が、喉の奥で笑った。



「やっぱり、綺麗な髪だ」



フィアは身を縮めた。


触れられたくなかった。

見られたくなかった。

名前も知らない男たちに、その声で、自分の髪を語られたくなかった。


その時だった。



「それ以上触るな」



声がした。


怒鳴ったわけではない。

大きな声でもなかった。


けれど、その一言で、路地の空気が止まった。


フィアは息を呑み、声のした方を見た。


路地の入口に、男が立っていた。


黒い髪。

長い手足。

温度を感じさせない灰色の瞳。


知っている。


名前は知らない。

何者かも知らない。


あの時と違う服装で、雰囲気も違って見える。

けれど、その目をフィアは覚えていた。


山の中で。

暗い場所で。

自分を見下ろしていた、温度のない目。


助けが来たのだとは、思えなかった。


むしろ、見つかってしまったと思った。

シリウスではない。ルカでもない。


そこにいるのは、自分を呼ぶ声ではなく、自分を測る目だった。

手を差し伸べるために来たのではない。

怯えているかどうかを案じているのでもない。


ただ、こちらを見ている。

逃げた獲物の位置を、確認するように。


大柄な男が眉をひそめた。



「何だ、お前」



黒髪の男は答えなかった。


フィアを見ていた。

けれど、その目に心配はない。

傷ついていないかを確かめる目でもない。


それから、男の視線が痩せた男の指へ落ちる。

フィアのフードを掴んでいる、その手へ。



「聞こえなかったのか」



その声に怒りはなかった。

怒りよりも、もっと冷たいものがあった。



「それは俺の獲物だ」



フィアの胸が、冷たく縮んだ。


助けてくれたのではない。

守ってくれたのでもない。


自分は今、別の誰かのものとして数えられた。



「獲物だと?」



大柄な男が低く笑う。



「おい、聞いたか。妙なことを言うやつが出てきたぞ」



痩せた男は笑わなかった。


帽子の陰の目が、黒髪の男を見ている。

顔ではなく、立ち方を。

手の位置を。

視線の動かし方を。


何かを測っているようだった。



「おい」



大柄な男が一歩前に出る。



「これは教会の――」



言葉は最後まで続かなかった。

黒髪の男が動いた。


フィアには、何が起きたのか分からなかった。


ただ、大柄な男の体がぐらりと傾いた。

腕を掴まれたように見えた次の瞬間には、壁に背中を打ちつけていた。


鈍い音が路地に響く。


大柄な男が息を詰まらせる。

その手から、フィアへ伸びていた力が消えた。


黒髪の男は、息ひとつ乱していなかった。


ただ、大柄な男を見下ろしている。



「退け」



それだけだった。

大柄な男が歯を剥く。



「てめえ……!」



だが、痩せた男がその腕を掴んだ。



「やめろ」


「あ?」


「退くぞ」



その声から、初めて余裕が消えていた。


大柄な男は信じられないものを見るように痩せた男を見た。



「何でだ」


「いいから退け」



痩せた男は黒髪の男から目を逸らさない。

その表情にはまだ笑みが残っていたが、目だけは笑っていなかった。



「今日のところはな」



痩せた男が、フィアの方へ一瞬だけ視線を向ける。



「聖女様も、運がいい」


「次にその名で呼んだら」



黒髪の男が言った。

痩せた男の動きが止まる。



「舌を抜く」



声は平坦だった。

脅しのために荒げられた声ではない。


ただ、そうすると決めている声だった。


痩せた男は一拍だけ黙り、それから薄く笑った。



「……覚えておく」



大柄な男はまだ何か言いたげだったが、痩せた男に腕を引かれ、後ろへ下がった。

二人は路地の奥へ消えていく。


足音が遠ざかる。

重い足音と、ほとんど音のしない足音。


それが完全に聞こえなくなっても、フィアは動けなかった。


助かった。

そう思いかけて、すぐに違うと分かった。


目の前には、まだ黒髪の男がいる。


フィアは後ずさろうとした。


けれど、背中が木箱に触れただけだった。

逃げる場所はない。


追ってきた男たちは消えた。

けれど、路地の入口には黒髪の男が立っている。


男は、フィアに手を伸ばさなかった。


助け起こすわけでもない。

宥めるわけでもない。


ただ、そこに立ち、見下ろしている。



「また追われていたのか」



フィアは答えられなかった。



「逃げるのが下手だな、お前は」



責める声ではなかった。

ただ、事実を言っているだけの声だった。


それが、余計に怖かった。

フィアは唇を震わせる。



「……どうして」



それだけを、ようやく言った。

男は少しだけ目を細める。



「偶然だ」


「……嘘」


「なら、そう思っていろ」



会話はそこで途切れた。

男はフィアを見ていた。

近づいてこない、捕まえようともしない。


今すぐ触れてくるわけではない。

それだけは分かった。


けれど、見逃されたわけではない。

手放されたわけでもない。


ただ、まだその時ではない。

その灰色の瞳が、そう告げていた。

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