59話-1(分岐バッドエンド)
※この先は分岐となります。
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フィアは、人通りの多い方へ足を向けた。
右手の大通りには、屋台が並び、荷馬車が行き交い、客の声が絶えず重なっていた。
人がいる。
たくさんいる。
ここなら、一人ではない。
そう思いたかった。
誰かが見てくれるかもしれない。
声を上げれば、足を止めてくれるかもしれない。
あの男たちも、これだけ人がいる場所では乱暴なことはできないかもしれない。
フィアはフードの端を握りしめ、流れの中へ入った。
けれど、大通りは思っていたよりもずっと歩きにくかった。
前から来る荷運びの男を避ける。
横から子どもが駆け抜ける。
屋台の前に集まった客が急に立ち止まり、フィアの行く手を塞ぐ。
人が多い。
だから、紛れられるはずだった。
なのに、足は何度も止まりかけた。
誰かの肩にぶつかり、荷籠に裾を引っかけそうになり、屋台の台に手をつきかける。
謝ろうとしても声が出ない。
顔を上げれば、誰かと目が合ってしまいそうで怖い。
それでも、ここなら。
ここなら、助けてもらえるかもしれない。
そう思った時だった。
肩を、後ろから掴まれた。
「っ……!」
短い悲鳴が漏れる。
布越しに沈む指の重さ。
逃げ道を塞ぐような力。
フィアは反射的に振り向いた。
そこにいたのは、あの大柄な男だった。
宿の部屋に入り込んできた男。
低い声で「聖女様」と呼んだ男。
その少し後ろに、痩せぎすの男もいた。
帽子の陰から覗く細い目が、楽しそうに細められている。
「やめて」
声が震えた。
「来ないで……!」
フィアは男の手から逃れようと身を捩る。
けれど、大柄な男の手は離れない。
「誰か!」
今度は、声を張り上げた。
「誰か、助けて!」
人の流れが、ほんの少し揺らいだ。
近くにいた客が振り返る。
屋台の店主が手を止める。
通りかかった女が、心配そうにこちらを見た。
見ている。
誰かが、見ている。
フィアは必死に息を吸った。
「この人たち、知らない人なの。私、追われて――」
「すみませんね」
大柄な男が、フィアの言葉を遮った。
その声は、さっきまでとはまるで違っていた。
低く押さえつけるような声ではない。
人前で困ったように笑う、気のいい男の声だった。
「うちの連れが、少し取り乱してまして」
フィアの体が強張る。
違う。
違うのに。
男は肩を掴んだまま、通行人へ向けて頭を下げた。
「昨日から熱があってね。少し目を離したら飛び出してしまって」
「違う……!」
フィアは首を振る。
「違います、この人たちは――」
「すみません」
今度は痩せた男が、近くの屋台の店主へ丁寧に頭を下げた。
細い声は、驚くほど穏やかだった。
「叱られたと思って、怖くなったようで。こちらで連れて戻ります」
「違う!」
フィアは叫んだ。
叫んだはずだった。
けれど、その声は震えていた。
喉が詰まり、息が乱れ、言葉の形が崩れていく。
「私は、この人たちを知らな……っ」
「ほら、落ち着きなさい」
大柄な男が、困ったように笑う。
「また皆さんに迷惑をかけるつもりか」
その言い方は、あまりにも自然だった。
まるで本当に、手のかかる連れを宥めているようだった。
まるでフィアが、叱られて逃げ出しただけの女であるかのようだった。
周囲の視線が、迷い始める。
さっきまで心配そうだった女も、少しだけ足を止めたまま、男たちとフィアを見比べている。
屋台の店主は眉を寄せたが、深く踏み込むほどではないという顔をしていた。
「本当に、大丈夫なのかい?」
女が、おずおずと訊いた。
フィアはその声に顔を上げた。
助けて。
そう言えばいい。
今なら。
この人なら。
「たすけ――」
「ご心配なく」
痩せた男が、フィアより先に言った。
「人が多い場所に出ると、少し混乱することがあるんです。宿の方にも話は通しています」
宿。
その言葉に、フィアの胸が冷えた。
この人の良さそうな顔で、宿の主人から部屋番を聞き出したのかもしれない。
宿帳を盗み見たのではなく、誰にも疑われずに、あの部屋の前まで来られたのだとしたら。
「違う……」
フィアは絞り出すように言う。
「違うの……」
「何が違うんだい」
近くの誰かが呟いた。
責める声ではなかった。
ただ、不思議そうな声だった。
それなのに、フィアの喉は凍りついた。
何が違うのか。
どう説明すればいいのか。
教会から逃げていること。
司教の元へ連れ戻されそうになっていること。
聖女と呼ばれていること。
シリウスとルカが今ここにいないこと。
言えることが、何ひとつなかった。
説明しようとすればするほど、言えないことばかりが喉に詰まる。
「私は……」
声が掠れる。
「私は、ただ……」
「ほら」
大柄な男が、周囲へ苦笑して見せた。
「この通りでね。何を聞いても、うまく答えられないんです」
周囲の人々の顔が、少しずつ変わっていく。
心配から、困惑へ。
困惑から、関わらない方がいいという空気へ。
誰も、はっきりとフィアを責めてはいない。
けれど、誰も手を伸ばさなかった。
フィアは大柄な男の手を振りほどこうとした。
肩に痛みが走る。
逃げようと一歩踏み出すが、人の流れに押し戻される。
誰かの肩。
荷籠。
屋台の台。
並んだ客の背中。
人が多い。
だから、逃げられない。
人が多い。
だから、誰も自分だけを見てくれない。
「やめて……」
フィアの声は、小さくなっていた。
「お願い、離して……」
「大丈夫です」
痩せた男が、通行人へ向けてまた頭を下げる。
「こちらで連れていきますので」
その声は、どこまでも丁寧だった。
そして次の瞬間、フィアの耳元にだけ届くほど近くで、囁いた。
「声を上げてもいいが」
細い声が、笑う。
「聖女様とは言えないだろう」
フィアの息が止まった。
周囲には聞こえていない。
誰も反応しない。
今の声は、フィアだけに向けられていた。
人前の顔。
耳元の声。
その二つを使い分けることに、男たちは慣れている。
「……っ」
フィアはもう一度、助けを求めようとした。
けれど、口を開いても声にならなかった。
聖女だと言えない。
追われている理由を言えない。
この男たちが何者なのかも、証明できない。
何も言えない自分だけが、震えている。
大柄な男は、フィアの肩を押さえたまま、周囲へ愛想よく笑った。
「すみませんねえ、朝から騒がせて」
「お大事に」
誰かが、そう言った。
その声に、フィアは絶望した。
悪意はなかった。
きっと、本当にそう思っただけなのだろう。
お大事に。
その一言で、フィアは男たちの側へ押し戻された。
痩せた男が、フィアの腕を取る。
今度は人前だから、乱暴ではない。
けれど、逃げられない位置を正確に押さえていた。
「行くぞ」
大柄な男が低く言った。
けれど、次に周囲へ向けた顔は穏やかだった。
「皆さん、お騒がせしました」
フィアは周囲を見た。
誰かは見ている。
確かに見ている。
けれど、誰も助けてくれない。
男たちの説明を否定できるほど、誰もフィアを知らない。
フィアの震えを信じてくれるほど、誰もこの場に踏み込まない。
人の波はすぐに元へ戻っていく。
屋台の店主は釣り銭を渡し、荷馬車は石畳を鳴らし、通行人たちはまたそれぞれの行き先へ歩き出す。
ほんの少し止まっただけだった。
フィアのために止まった世界は、すぐに何事もなかったように動き出した。
「いや……」
声は届かない。
「いや、行きたくない……」
大柄な男が、フィアの耳元で低く笑った。
「残念だったな」
その声だけは、もう人前用ではなかった。
「誰も、お前の話を聞きたがらない」
痩せた男が、反対側から支えるように腕を取る。
「助けてくれる人が多い場所を選んだつもりだったか」
フィアは答えられなかった。
足が動かない。
けれど、男たちに挟まれると、体は勝手に前へ運ばれていく。
人の流れの中を、三人は進んだ。
周囲から見れば、きっとそれは何でもない光景だった。
体調を崩した連れを、二人の男が支えて歩いている。
少し取り乱した女を、身内が宥めて連れ戻している。
それだけに見えたのだろう。
誰も止めなかった。
誰も追わなかった。
誰も、フィアの名を呼ばなかった。
シリウスも。
ルカも。
この大通りにはいなかった。
人は、こんなにたくさんいるのに。
フィアは、人の中で一人だった。
bad end.
人の中の孤独




