59話
フィアは、人の流れに紛れようとしていた。
走ってはいけない。
立ち止まってもいけない。
振り返りすぎてもいけない。
そう思うほど、足の動きはぎこちなくなった。
目の前を荷車が通る。
脇を抜けようとした男の肩が、フードの端をかすめる。
屋台の店主が客に釣り銭を渡しながら大声で何かを言っている。
昨日は、そのひとつひとつが珍しく見えた。
怖くても、少しだけ見ていたいと思った。
けれど今は違う。
人の声が、全部、自分を探す声のように聞こえる。
誰かの視線が、一瞬でもこちらへ向けば、それだけで息が止まりそうになる。
フードを深く被れば被るほど、かえって隠れている人間に見えてしまうのではないかと思った。
フィアはフードの端を握りしめたまま、通りの端を歩く。
昨日、ルカは人の流れに逆らわなかった。
端に寄りすぎず、中央へ出すぎず、誰にも覚えられない位置を選んで歩いていた。
歩き方ひとつで、あんなにも違って見えるのだと知った。
けれど、知っていることと、できることは違う。
今のフィアには、どこを歩けばいいのか分からなかった。
人にぶつからないように避けると、端へ寄りすぎる。
端へ寄ると、店先に立つ者たちの視線を受ける。
中央へ戻ろうとすると、荷車や馬の流れに押される。
誰にも見られたくない。
けれど、人の中から外れたくもない。
その矛盾だけが、胸の中で息苦しく膨らんでいく。
「……っ」
誰かの肘が腕に触れ、フィアは思わず身を縮めた。
相手は振り返りもしない。
ただの通行人だった。
それなのに、扉の向こうにいた気配がすぐ背後へ移ったような気がして、喉が詰まる。
声を出してはいけない。
そう思った瞬間、自分が叫び出したいのだと気づいた。
助けて。
追われている。
シリウス。ルカ。
誰か、助けて。
その全部が、喉の奥で凍りついていた。
一方で、フィアの後を追う大柄な男が不機嫌そうに舌打ちをしていた。
「ちっ、走るのは苦手なんだがな」
男は人混みの方を睨み、首の後ろを鳴らすように回した。
「まあ、追いかけっこは嫌いじゃないが」
その隣で、痩せた男は通りの流れを見ていた。
焦った様子はない。
人の肩、フード、荷物、歩幅。
そのひとつひとつを拾うように、細い目が動いている。
「見失ったんじゃないだろうな」
大柄な男が低く言う。
「見失ってはいない」
痩せた男は淡々と答えた。
「どこだ」
「人の流れに逆らっている。ああいう歩き方は目立つ」
「髪は隠してるのか。聖女様も、隠れることは覚えたようだな」
「だが、存在までは隠せていない。隠したいものがある人間は、顔を上げない」
痩せた男は、通りの奥へ目を細める。
「それに、被り慣れていない。布で隠せばいいと思っているだけだ」
大柄な男は短く笑った。
「まだ一人での街歩きは下手か」
「守られて歩くことには、少し慣れ始めていたようだがな」
痩せた男の声は細く、静かだった。
「逃げるのと歩くのは別だ」
フィアは、その会話を聞いてはいない。
けれど、どこかで低い笑い声がしたような気がして、足が一瞬止まりかけた。
違う。
違うはず。
今のはただの店主の声かもしれない。
荷運びの男が笑っただけかもしれない。
追手の声ではないかもしれない。
そう思おうとしても、背中の冷たさは消えなかった。
フィアは顔を伏せ、歩き続ける。
屋台の前で、人の流れが少し詰まっていた。
香ばしい匂いがする。
焼いたパンの匂いだった。
昨日なら、目を向けていたかもしれない。
甘い匂いに足を止めて、ルカに「食べてみる?」と訊かれていたかもしれない。
けれど今は、その匂いさえ苦しかった。
前の客が立ち止まったせいで、フィアは避けきれず、軽く肩がぶつかった。
「すみま……」
謝ろうとした声は、最後まで出なかった。
ぶつかった女が一瞬こちらを見る。
その視線がフードの奥へ向いた気がして、フィアは慌てて目を逸らした。
不自然だ。
今の自分は、きっと不自然だ。
逃げていると分からないようにしなければならないのに、どうすればそう見えるのか分からない。
ルカなら、笑って通り過ぎる。
何でもない顔で謝って、人の流れへ戻る。
シリウスなら、そもそも誰にもぶつからない位置を選ぶ。
自分には、できない。
「……あの髪」
どこかで、誰かがそう言った気がした。
フィアの足が止まりかける。
すぐに通りのざわめきが重なり、その声は消えた。
本当に聞こえたのか、分からない。
ただの呼び込みだったのかもしれない。
まったく別の誰かの話だったのかもしれない。
それでも、フィアはフードの端をさらに深く引いた。
白色金の髪は隠している。
隠しているはずだ。
けれど、風が吹けばこぼれる。
人にぶつかればずれる。
青い髪飾りがフードの内側で小さく揺れるたび、金具が光を拾うのではないかと怖くなる。
髪飾りに触れると、指先が震えているのが分かった。
ルカに買ってもらったもの。
シリウスの色を思わせるもの。
二人を思い出すもの。
それがあるから、まだ歩けている。
フィアは唇を噛み、人の流れに戻った。
大柄な男は、少し離れた場所で人の流れを睨んでいた。
「あれか?」
「違う」
痩せた男が即座に言う。
「あの女は足が落ち着いている」
「じゃあどこだ」
「もう少し先だ。あの布屋の横を抜けた」
「よく分かるな」
「逃げている人間は、同じ場所を見ない。前を見るふりをして、横を見て、また後ろを気にする」
痩せた男はゆっくり歩き出した。
「助けを求めたいのに、声が出ない。そういう足取りだ」
大柄な男は口元を歪める。
「声を出せばいいものを」
「出せないんだろう」
「なぜ」
「自分が何者か、説明できないからだ」
その言葉に、大柄な男は愉快そうに笑った。
「なるほどな」
「大声を出せば、周りは見る。だが見られた後、どうする。自分は追われている聖女です、とでも言うのか」
「言えないな」
「言ったら終わりだと理解はしている」
「まったくの無知よりも追いかけるのが楽しいな」
二人は急がなかった。
急ぐ必要がないと分かっているようだった。
人混みの中でさえ、二人は急いでいなかった。
少なくとも、急ぐ必要はないと考えているようだった。
フィアはまた、人の間で立ち止まりかけていた。
少し先に、店先を掃いている女がいる。
優しそうに見えた。
声をかければ、話を聞いてくれるかもしれない。
助けてください。
その一言だけなら、言えるかもしれない。
フィアは足を向けかけた。
その時、女の背後で、細い影が動いたように見えた。
帽子の影。
骨ばった指。
こちらを見る細い目。
本当にいたのかは分からない。
人の肩が重なって、すぐに見えなくなった。
けれどフィアは、声を飲み込んだ。
違う人かもしれない。
恐怖が見せただけかもしれない。
でも、もし本当にいたら。
もし声をかけた瞬間、あの男が横から現れて、「うちの連れがお騒がせしました」と笑ったら。
誰が、フィアを信じてくれるのだろう。
「……っ」
フィアは女から目を逸らし、通りの奥へ進んだ。
その背後で、大柄な男が面白そうに息を吐く。
「今、助けを求めようとしたか?」
「声をかけようとした」
痩せた男が答える。
「なぜやめた」
「俺らが見ているように感じたんだろう」
「この距離で見えていたのか」
「見えていなくても同じだ」
痩せた男は薄く笑った。
「一度怖がらせれば、影だけでも足を止める」
「悪趣味だな」
「お前に言われたくない」
大柄な男は喉の奥で笑った。
「で、どこへ行く」
「あの先で道が分かれる」
痩せた男が前方へ視線を向ける。
「右は大通り。人が多い」
「助けを求めるなら、そっちか」
「そう見える」
「左は?」
「店の裏手へ続く路地だ。人通りは少ない」
「逃げるには悪い道だな」
「だから、追い詰められた人間は迷う」
大柄な男が笑う。
「どっちに行っても、追えるか」
「本人が選ぶなら、なおいい」
フィアは、その道の分かれ目に近づいていた。
右手には、大通りが続いていた。
屋台が並び、客がいて、荷馬車が進み、声が絶えない。
あそこへ行けば、一人にはならない。
誰かが助けてくれるかもしれない。
そう思いたかった。
左手には、細い路地があった。
店の裏手へ続いているのか、積まれた木箱や水桶が見える。
人通りは少ない。
大通りの喧騒も、そこへ入れば少し遠のくように見えた。
怖い。
そこで追いつかれたら、誰も見ていない。
けれど、人が少ないなら、少なくとも目立たずに逃げられるかもしれない。
男たちの視線から外れられるかもしれない。
どちらが正しいのか分からなかった。
背中に、誰かの視線が刺さっている気がした。
「……聖女様」
声が聞こえた気がした。
本当に聞こえたのか、ただのざわめきだったのかは分からない。
けれどフィアは、フードの端を握りしめた。
右には、人の波。
左には、細い路地。
どちらへ行けばいいのか、まだ決められなかった。




