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many merry bad ENDs  作者: 源泉


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58話 息を殺す部屋で

扉が、ほんの少しだけ内側へ動いた。


廊下の光が細い線になって、床の上へ伸びる。

その光が、ベッドの下まで届いた。


フィアは髪飾りの金具が床に触れないよう、身じろぎひとつせず息を殺していた。


扉が開く音は、思っていたよりも小さかった。

壊されたわけではない。

こじ開けられたわけでもない。

ただ、まるで最初から開いていた扉を押しただけのように、静かに開いた。


そのことが、かえって怖かった。



「……暗いな」



低い声がした。



「休んでいるなら、ちょうどいい」



細い声が答える。


二人分の足音が、部屋の中へ入ってくる。


重い足音。

それに続く、ほとんど音のしない足音。


フィアは両手で口を押さえた。

息が漏れないように。

髪飾りが床に触れないように。

心臓の音まで押さえ込めるなら、そうしたかった。


男たちは、すぐにはベッドの下を覗き込まなかった。


布袋が持ち上げられる音がする。

革紐が解かれる音。

何かが卓の上へ置かれる音。



「荷はある」



大柄な男の声がした。



「全部持って出たわけじゃないな」


「なら、戻る」



細い声が静かに答える。



「戻るか、あるいは――まだいるか」



フィアの喉が震えた。


まだいる。


その言葉が、自分の背中に直接触れたようだった。


ベッドの上には、灰青の布が置いたままだ。

端に小さな花の刺繍がある、自分で選んだ布。

他の荷物も残っている。


見れば、分かってしまう。

自分がここにいたこと。

遠くへは行っていないこと。

慌てて隠れたことまで。


このままでは、見つかる。


そう思った瞬間、体が先に動いた。


男たちは部屋の奥へ意識を向けている。

大柄な男は荷袋を探り、痩せた男は卓の上と窓辺を見ている。

扉は開いたまま。

廊下までは、ほんの数歩。


今なら。


フィアは奥歯を噛み、ベッドの下から身を滑り出した。


床板に手をつく。

膝が擦れる。

髪飾りの金具がかすかに鳴りそうになって、息が止まりかける。


青いガラス玉と銀の金具。

ルカに買ってもらったもの。

シリウスの瞳と髪を思わせる色。


今はそれが、二人を思い出させる小さなお守りのようで、同時に、音を立てて自分を見つけさせるもののようにも思えた。


けれど、もう止まれなかった。



「っ……!」



フィアは立ち上がると、扉へ向かって走った。


その一瞬、男たちの姿が視界に入った。


大柄な男。

厚い肩と、重い腕。

人混みに紛れれば、ただの荷運びにも見えるかもしれない男。


その隣に、痩せぎすの男。

骨ばった頬と、細い首。

特徴の薄い顔立ちで、道ですれ違えば忘れてしまいそうな男。


けれど、目だけが違った。


大柄な男の目も、痩せた男の目も、暗がりの中で異様にぎらついていた。

人を探している目ではない。

逃げるものを追い詰めることに慣れた目だった。


大柄な男が振り返る。

痩せた男も顔を上げる。


だが、二人とも驚いたようには見えなかった。



「ああ」



低い声が、どこか楽しそうに言う。



「いたな」



フィアは廊下へ飛び出した。


廊下は思っていたより暗かった。

階下から聞こえるはずのざわめきも、朝のこの時間には薄い。

出立の早い客はすでに宿を出ていて、残っている者たちも食堂や裏手でそれぞれの支度をしているのだろう。


誰かがすぐ近くにいる気配はなかった。



「シリウス……!」



大きな声を出しかけて、フィアは唇を噛んだ。


叫べば、誰かが振り返るかもしれない。

店主でも、客でも、誰でもいい。

助けてと叫べば、誰かが来てくれるかもしれない。


けれど。


あの男たちは宿帳を見ていた。

店主が部屋番を教えたのかもしれない。

ここにいる人間の誰が味方で、誰がそうでないのか、フィアには分からなかった。


もし男たちが、「その女は盗人だ」と言ったら。

「身内の揉め事だ」と言ったら。

「連れが勝手に逃げただけだ、こちらで連れていく」と笑ったら。



誰が、フィアを信じてくれるのだろう。


自分は何者だと説明すればいい。

聖女だと知られる訳にはいかない。


声が出なかった。


だからフィアは、走った。


階段まで行ければ。

下へ降りられれば。

もっと多くの人のいる場所へ出られれば。


足がもつれそうになる。

廊下の板が軋む。

髪飾りが揺れ、白色金の髪が頬に触れる。


背後から、低い笑い声がした。



「走ったぞ」


「いいね、少しくらい走らせろ」



細い声が、楽しそうに続ける。



「逃げ道はそう多くない」



追ってくる。


その気配だけで分かった。

急いでいる足音ではない。

追い詰めるための足音だった。

どこへ逃げるのか、最初から分かっているような足音。


フィアは階段へたどり着き、手すりに手をかけた。

指が震えて、木を掴み損ねそうになる。


一段目。

二段目。

足が浮くような感覚がして、体が前へ傾いた。


転べば終わりだ。


そう思って、必死に手すりを掴む。

手のひらに木のささくれが刺さったような痛みが走ったが、止まれなかった。


下へ。

下へ。

とにかく、下へ。


一階に降りると、そこには確かに人がいた。


受付の近くで、店の者らしい男が帳面をめくっている。

食堂の奥では、まだ残っていた客が木杯を傾けていた。

厨房の方からは、皿を重ねる音と、誰かの短い返事が聞こえる。


人はいる。


けれどフィアは、その誰にも駆け寄れなかった。


誰が信じられるのか分からない。

誰が、あの男たちと繋がっているのかも分からない。

ここで足を止めたら、背後から追いつかれる。


表へ出るか。


一瞬、正面の扉が目に入った。

大通りへ続く扉。

人が多い場所。

誰かに紛れられるかもしれない場所。


けれど、表は人が多すぎる。

見える目も多い。

声も多い。

誰が敵か分からない。


それに――。


裏口がある宿の方がいい。

使わないなら、それが一番だけど。


昨日のルカの声が、頭の中をよぎった。


階段の下を抜けた先。

裏庭へ続くらしい細い扉。

その先には馬を預ける場所が近い。


シリウスは、馬の様子と宿の周辺を確認すると言っていた。

すぐに戻るとも言っていた。


もしかしたら、裏手にいるかもしれない。

馬小屋の近くにいるかもしれない。


フィアは正面ではなく、奥の細い扉へ向かった。



「おい」



背後で、誰かの声がした。

店の者なのか、追手なのか、分からない。


フィアは振り返らなかった。


裏口の扉を押し開ける。


冷たい外気が流れ込んだ。


裏庭には、湿った土の匂いと干し草の匂いがあった。

壁際には桶が並び、荷物を運ぶ男たちが木箱を抱えて行き交っている。

馬小屋の方からは、馬の鼻息と、鎖の鳴る音がした。



「シリウス……」



今度こそ名前を呼びかける。


けれど声は小さすぎた。

風と荷運びの声に紛れて、自分の耳にさえ弱く届いただけだった。


どこ。

どこにいるの。


フィアは馬小屋の方を見た。

そこに銀の髪はない。

シリウスの姿もない。

馬の影と、干し草と、知らない男たちの背中だけがある。


立ち止まれない。


後ろを振り返れば、あの男たちがすぐそこにいる気がした。

扉の影から、大柄な男の手が伸びてくる気がした。

骨ばった指が、また手首を掴む気がした。


フィアは荷を運ぶ男たちの間を抜けた。


肩がぶつかりそうになる。

誰かが不機嫌そうに何かを言う。

水桶に足を取られかけ、慌てて避ける。


その時、近くの馬が大きく鼻を鳴らした。


背後で足音が一瞬乱れる。

誰かが低く舌打ちしたような気がした。


フィアはその隙に、洗濯物の干された狭い路地へ飛び込んだ。


濡れた布が風に揺れ、視界を塞ぐ。

白い布、薄茶の布、誰かの仕事着らしい粗い布。

それらの間を抜けるたび、冷たい水気が頬や手に触れた。


後ろの気配が薄くなる。


見失ったのかもしれない。

それとも、すぐそばで見ているのかもしれない。


分からなかった。


けれど、少なくとも今は、手が届いていない。


フィアは路地の角を曲がり、壁に手をついて息を吸った。

胸が痛い。

喉が焼けるように苦しい。

膝が震えている。


その時、通りの向こうを歩く女が、ふとこちらを見た。


視線が、フィアの髪に止まる。


フィアははっとした。


白色金の髪。


灰青の布は、部屋に置いてきてしまった。

自分で選んだ、髪を隠すための布。

小さな花の刺繍のある布。

あれは今、ベッドの上にある。


今のフィアは、髪を隠しきれていない。


逃げるために動いた。

けれど、そのせいで、自分がどれほど目立つのかを忘れていた。


フィアは慌てて、羽織っていたケープのフードを深く被った。

白色金の髪を押し込むように隠す。

青いガラス玉の髪飾りが、フードの内側で小さく揺れた。


ルカが買ってくれたもの。

シリウスを思わせる青と銀の色。


二人がここにいないのに、その小さな飾りだけが、フィアの髪に留まっている。

それが少しだけ心細くて、少しだけ心強かった。


フィアはフードを深く被ったまま、人の流れの方へ進んだ。


路地を抜けると、朝の街はもう動き始めていた。


店先で男が木箱を下ろしている。

女が桶の水を道端へ撒いている。

屋台の炉からは煙が上がり、焼きたてのパンの匂いが風に混じる。

荷馬車の車輪が石畳を鳴らし、誰かが大声で荷の数を数えている。


昨日は、見たいと思った街だった。


色とりどりの布。

甘い匂いの屋台。

知らないものばかりの、広い世界。


けれど今は違う。


人が多い。

声が多い。

視線が多い。


隠れるための場所であり、見失うための場所。

その言葉の意味が、今さら体の底に落ちてくる。


フィアは人の流れに沿って歩いた。

走れば目立つ。

立ち止まっても目立つ。

だから、歩く。


けれど、歩き方が分からなかった。


逃げていると分からないように。

怖がっていると悟られないように。

それでも、少しでも遠くへ。


背後が気になる。

大柄な男がいないか。

骨ばった指の男が、店先の影から見ていないか。

誰かがまた、自分を聖女様と呼ばないか。


何度も振り返りそうになって、フィアは堪えた。


振り返れば、逃げていると分かってしまう。

けれど、振り返らなければ、背後の気配が分からない。


息が浅くなる。


それでも、しばらく歩いても、あの二人の姿は見えなかった。

低い声も、細い声も聞こえない。

手首を掴む冷たい指もない。


逃げられたのだろうか。


そう思いかけて、フィアはすぐに打ち消した。


まだ分からない。

分かるはずがない。


シリウスを探さなければ。

ルカも探さなければ。

でも、どこへ行けばいいのか分からない。


フィアはフードの端を握りしめ、さらに人の中へ紛れようとした。


その時、風が細く通りを抜けた。


フードの奥で隠しきれなかった白色金の一房が、頬の横へこぼれる。

朝の光を拾って、ほんの一瞬だけ淡く光った。


フィアはすぐにそれを押し込んだ。


けれど、その一瞬を、見ている者がいた。


フィアは、後ろばかり気にしていた。

だから、前方の人波の中にいる男には気づかなかった。


背の高い男だった。


黒い髪。

長い手足。

温度を感じさせない灰色の瞳。


本来なら目立つはずの長身を、男は人の流れの中へ沈めていた。

歩幅も、視線も、服の色も、すべてが街の中で浮かないように整えられている。


目立ちすぎず、地味すぎない服。

旅人にも、商人の護衛にも、ただの通行人にも見える姿。


それは、ただ隠れているのではなかった。

目立たないことに慣れている者の立ち方だった。


男は、一度フィアから手を引いた。


あの時、無理に追わなかった。


身なりは旅人のものに整えられていた。

歩く位置も、隠し方も、誰かが教えた形をしていた。

だが、本人の足取りだけは違った。


逃げることに慣れていない。


人混みの中で視線の置き場を知らない。

隠れようとして、かえって目立つ。

恐怖を押し殺すことも、追われる者として道を選ぶことも、まだ覚えていない。


だから、あの時は追わなかった。


探そうと思えば、すぐに見つかる。

そう判断していた。


けれど今、この場所で見つけたのは、予定していたことではなかった。


男は別の用で、この通りにいた。

人の流れを眺め、必要なものだけを拾い上げるように見ていただけだった。


その視界の端で、フードの奥の白色金が一瞬だけ光を拾った。


灰色の瞳が、それを捉える。


男は、わずかに目を細めた。

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