57話-1(分岐バッドエンド)
※この先は分岐となります。
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扉が、ほんの少しだけ内側へ動いた。
廊下の光が細い線になって、床の上へ伸びる。
その光が、ベッドの下まで届いた。
フィアは髪飾りの金具が床に触れないよう、身じろぎひとつせず息を殺していた。
扉が開く音は、思っていたよりも小さかった。
壊されたわけではない。
こじ開けられたわけでもない。
ただ、まるで最初から開いていた扉を押しただけのように、静かに開いた。
そのことが、かえって怖かった。
「……暗いな」
低い声が言った。
「休んでいるなら、ちょうどいい」
細い声が答える。
その声音はひどく落ち着いていた。
誰かの部屋へ勝手に入ってきた者の声ではなかった。
あらかじめ、そうする権利があると思っているような声だった。
二人分の足音が、部屋の中へ入ってくる。
床板がわずかに軋んだ。
重い足音と、ほとんど音のしない足音。
それだけで、二人の立ち方が違うのが分かった。
フィアは両手で口を押さえた。
息が漏れないように。
震えが音にならないように。
見つからない。
見つからない。
そう思おうとする。
二人は、シリウスとルカが出ていったことは知っていても、自分がここにいるとは限らない。
もしかしたら、自分も一緒に出かけたと思っているかもしれない。
部屋にいないと分かれば、そのまま出ていくかもしれない。
そうであってほしかった。
階下では、まだ誰かが笑っていた。
椅子を引く音も、皿を重ねる音もする。
人はいる。
すぐ下にいる。
それなのに、この部屋の中で起きていることには、誰も気づかない。
「荷はあるな」
大柄な男の声が、部屋の中を動く。
布袋が持ち上げられる音。
革紐が引かれる音。
何かが卓の上へ置かれる音。
「全部持って出たわけじゃない」
「なら戻るな」
「戻るか、あるいは――」
細い声が、そこで少しだけ笑った。
「まだいるか」
フィアの指先が冷たくなる。
楽しんでいる。
そう思った。
二人は焦っていなかった。
怒ってもいなかった。
ただ、部屋の中をゆっくり探っている。
まるで隠れた子どもを探す遊びでもしているように。
大柄な男は戸棚を開け、荷袋を持ち上げ、目につく場所を乱暴に確かめていく。
痩せた男は、ほとんど物に触れなかった。
ただ、部屋の中を見ていた。
椅子の位置。
カーテンの閉じ方。
ベッドの上に置かれた布。
誰かがそこにいた痕跡だけを、拾っているようだった。
戸棚の扉が開いた。
ぎい、と小さく軋む。
「ここにはいない」
大柄な男がつまらなさそうに言う。
「そんなところに入れるほど小さくはないだろう」
「分からないぞ。聖女様は随分と細い」
その呼び方に、フィアの身体がまた強張った。
聖女様。
扉越しに聞いた時と同じだった。
丁寧なはずなのに、そこに敬意はない。
人を呼ぶ声ではない。
探し物を呼ぶ声だった。
「窓から逃げたか?」
大柄な男が言った。
布が勢いよく引かれる音がした。
閉めたはずのカーテンが開けられ、部屋の明るさがわずかに変わる。
フィアは目を閉じた。
窓。
さっき、自分はそこから外を見た。
けれど、そこから逃げることなど考えもしなかった。
二人に言われた通り、カーテンを閉めた。
近寄らないようにした。
それだけだった。
「まさか」
細い声が笑う。
「か弱い聖女様が、窓から逃げるなんてできるわけがない」
「それもそうか」
大柄な男の笑い声が低く響いた。
「それに、金髪の男と銀髪のお付きの騎士様が外へ出たのは確認したからな」
フィアの呼吸が止まる。
「聖女様は今、一人だ」
その言葉が、部屋の中に落ちた。
見られていた。
昨日から。
それとも、もっと前から。
シリウスとルカが部屋を出るところも。
自分が一人で残ったことも。
鍵を閉めたことも。
全部、見られていた。
フィアは声を出しそうになって、必死に唇を噛んだ。
痛みで、かろうじて声を飲み込む。
足音が、近づいてくる。
一歩。
また一歩。
ベッドの前で止まった。
フィアの目の前には、床板と埃と、男の靴先だけが見えた。
古びた革靴。
泥のついた底。
重い足音の男のものだった。
ベッドの上で、布が擦れる音がした。
「これは?」
大柄な男が何かを掴む。
灰青の布。
フィアには見えなかった。
けれど、それが何か分かってしまった。
昨日、自分で選んだ布。
端に小さな花の刺繍がある布。
髪に当てて、鏡の中の自分を見た布。
それを、男の手が掴んでいる。
男の指が、布の端をつまむ。
小さな花の刺繍が、粗い指の間で歪んだ。
「かわいい趣味だな」
「聖女様にも、こういうものが要るのか」
くつくつと笑う声が落ちてくる。
フィアは目を閉じた。
昨日、胸の奥に灯った小さな熱が、踏みにじられていくようだった。
「髪を隠す布か」
細い声が、楽しげに言った。
「目立つからなあ。聖女様の髪は」
「綺麗な色だったな」
「だから隠したかったんだろう」
フィアは、声を出さないように唇を噛んだ。
嫌だった。
自分で選んだものを、その声で語られることが。
大切にしたかったものが、あっという間に逃げ道の痕跡に変わっていくことが。
ぎし、とベッドが軋んだ。
男たちが、ベッドに腰を下ろしたのだ。
真上だった。
フィアの身体が硬直する。
重みで木枠が沈み、埃がわずかに落ちてくる。
床とベッドの隙間が、さらに狭くなったように感じた。
息ができない。
胸が苦しい。
喉が震える。
自分の鼓動が、男たちに聞こえてしまうのではないかと思うほど大きい。
「どこへ行ったかなあ」
大柄な男が、わざとらしく言った。
「外か」
細い声が続ける。
「廊下か」
「それとも、まだ部屋の中か」
二人は笑っていた。
「見つけたら、すぐ出るか」
大柄な男が訊いた。
「表は人が多い」
細い声は、部屋の中を見回しながら答える。
「裏口を使う。荷運びに紛れればいい」
「聖女様を荷物扱いか」
「扱いは丁寧にしろと言われている。傷をつけるな、ともな」
「随分と大事にされてるな」
「大事な荷物なんだろう」
「だけど、男二人と同じ部屋だぞ。司教様に渡す前から、もう傷がついてるかもしれないな」
「それは困るな」
細い声が、わざとらしく笑った。
「無事かどうか、確かめておく必要はある」
フィアは息を止めた。
自分のことを話している。
人ではなく、運び出すものとして。
どの道を使い、どの時間に動かし、どうすれば目立たないかを、二人はもう考えている。
まだ見つかっていないはずなのに。
もう、捕まった後のことを決められている。
楽しんでいる。
確かめている。
怯えていることを、分かっている。
フィアは動けなかった。
逃げればよかった。
扉が開く前に。
鍵穴の音を聞いた時に。
窓でも、廊下でも、どこでもよかった。
けれどもう遅い。
ベッドの上で、男たちがゆっくり立ち上がった。
木枠が大きく軋み、沈んでいた影が少し戻る。
フィアはその音にさえ怯えて、息を殺す。
靴先が、ベッドの脇に並んだ。
「まだ見ていないところがあったなあ」
低い声が言った。
細い声が、すぐ近くで笑う。
「そうだな」
次の瞬間、男の膝が床につく音がした。
フィアは目を見開いた。
暗がりの向こうから、帽子の影が覗き込んでくる。
骨ばった輪郭。
歪んだ口元。
細い指が、ベッドの下の影に触れる。
そして、楽しそうな声が落ちてきた。
「みぃつけたぁ」
bad end.
かくれんぼ




