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many merry bad ENDs  作者: 源泉


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57話 鍵穴の音

その日の夜、三人は宿の食堂で夕食を取った。


食堂は、騒がしすぎず、静かすぎもしなかった。

長卓には旅人たちがほどよく散らばり、誰かが低い声で明日の道順を話し、別の卓では荷運びらしい男たちが木杯をぶつけ合って笑っている。


皿の触れ合う音や椅子を引く音、湯気の向こうで店主が短く返事をする声が混じっている。

雑然としているのに、不思議と荒れてはいなかった。


運ばれてきたのは、豆と刻んだ肉の煮込みに、焼いた根菜、少し硬いパン。

飲み物は、水に香りづけ程度の柑橘を搾ったものだった。


豪華ではない。

けれど、湯気は温かかった。

匙を入れると豆が柔らかく崩れ、肉の脂と香草の匂いがふわりと立つ。

昼間の屋台の食事とは違う、宿の夜の食事だった。



「ね、悪くないでしょ」



ルカが得意そうに笑う。



「雑な宿って、別に悪い意味だけじゃないんだよ」



シリウスは食堂の出入口へ一度視線を向けてから、皿へ目を戻した。



「悪くないことと、安全であることは別だ」


「はいはい。だから君が守っているんでしょ」



ルカは慣れた様子でパンをちぎり、煮込みに浸す。



「でも、静かすぎる宿よりはずっといいよ。人が適度にいる。店主も客も、他人に興味を持ちすぎない。こういう場所の方が、旅人には楽なんだ」


「そういうものか」


「シリウスにも、そのうち分かるよ」



そのやり取りを聞きながら、フィアは匙を手に取った。

温かい煮込みを少し口に運ぶ。

塩気は強めだったが、体の内側から少しずつ温まっていくようだった。



「……おいしい」



小さく呟くと、ルカがすぐにこちらを見る。



「でしょ」


「うん」


「ほら、シリウス。僕の宿選び、悪くなかった」


「料理だけで判断するな」


「でもフィアはおいしいって」



シリウスは一瞬だけフィアを見た。

それから、少しだけ声を和らげる。



「フィア様のお口に合うなら、よかったです」



フィアは頷いた。


その時、ルカが木杯を持ち上げた拍子に、襟元で小さなものが光った。


琥珀色のピンだった。


昼間、フィアが選んだものだ。

小さな琥珀色の石が金具に留められた、目立ちすぎない飾り。

灯りを受けると、ほんの少しだけ深い金色に光る。


フィアは思わず目を留めた。



「ルカ、それ」



ルカはすぐに気づいて、少しだけ襟元を指で触れた。



「ああ。せっかく選んでもらったからね」



笑って見せる声は軽かった。

けれど、その顔は少し嬉しそうだった。



「似合う?」



フィアはこくりと頷く。



「うん。ルカの目と同じ色」



ルカが一瞬だけ言葉を止めた。


ほんの一瞬だった。

けれどフィアには、その短い沈黙が少し不思議に見えた。



「……それは、かなり褒められてる気がするな」



そう言って、ルカはいつものように笑う。


シリウスは黙っていた。

ただ、ルカの襟元の飾りを一度だけ見て、それから何も言わずに水を飲んだ。

不快そうというほどではない。

けれど、明らかに面白くはなさそうだった。


ルカはそれに気づいているのかいないのか、今度はフィアへ視線を戻す。



「そういえば、君の髪飾りは?」



フィアは少しだけ肩を揺らした。



「部屋に置いてきた」


「つけてこなかったんだ」


「うん。勿体なくて」



言ってから、少し恥ずかしくなる。


髪を隠すためでも、旅に必要なものでもない。

ただ綺麗で、似合うと言われて、持っていたくなったもの。

けれどそう思うこと自体が、なんだか自分には似合わない気がした。


ルカは笑った。



「君らしいね」


「そう?」


「うん。すごく」



その声が柔らかかったので、フィアはそれ以上何も言えなくなった。


夕食の間、何かが起こることはなかった。

食堂のざわめきは最後まで穏やかなままで、シリウスが何度か周囲を確認した以外、三人はただ普通の旅人のように食事を終えた。


二階の部屋に戻ると、階下のざわめきは床を通してくぐもって聞こえた。

部屋の中は昼間よりもずっと静かで、窓の外には細い路地が暗く沈んでいる。


フィアはベッドに腰を下ろし、荷物の中から昼間買った灰青の布を取り出した。

端に小さな花の刺繍がある布。

自分で選んだもの。


その隣に、ルカに買ってもらった青いガラス玉の髪飾りを置く。

小さな飾りは、灯りの下で静かに光っていた。


シリウスは扉の近くに座り、剣をすぐ手の届く位置に置いている。

ルカは長椅子に腰を下ろし、荷物を枕代わりにしていた。



「今夜は交代で見張ります」



シリウスが言う。



「フィア様は休んでください」


「二人も、休んで」


「私たちは大丈夫です」


「シリウスの“大丈夫”はあまり信用できないんだよね」



ルカが横から口を挟む。



「君もちゃんと寝なよ。交代するって言ったの、僕も含まれてるから」



シリウスはルカを見る。



「お前が起きていられるのか確認できたらな」


「それ、僕に対する信用が低すぎない?」



フィアは二人のやり取りを聞きながら、布を指で撫でた。

柔らかい感触がする。

小さな刺繍に指先が触れるたび、昼間の布屋の光景が浮かんだ。


自分で選んだ。

その事実が、まだ胸の奥で小さく熱を持っている。


けれど同時に、怖くもあった。

自分のものが増えていくこと。

選びたいものが増えていくこと。

そのたびに、それを失うのが怖くなる。


フィアは髪飾りをそっと手に取った。

青いガラス玉は小さく冷たい。

ルカが髪に留めてくれた時のことを思い出す。


人の流れから隠れるように立って、少しだけフードをずらして、外から見えない角度で留めてくれた。

驚いたけれど、嫌ではなかった。


シリウスには、まだ見せていない。



明日、見せよう。

そう思った。



その夜は、何も起きなかった。


階下の声は少しずつ減り、廊下を歩く足音も遠くなった。

シリウスとルカが交代する気配を、フィアは眠りの浅いところでぼんやり聞いた。


枕元に置いた布と髪飾りを薄目で眺めていると、眠いはずなのに、胸の奥がまだ少しだけ弾んでいた。


扉の近くで衣擦れの音がし、長椅子が小さく軋む。

窓の外では、風が路地を抜けていった。


それらの気配を聞きながら、フィアはいつの間にか眠っていた。



翌朝、宿の食堂は昨夜よりずっと静かだった。


出立の早い旅人たちはすでにいなくなり、残っている客も眠そうな顔でパンと薄いスープを口にしている。


フィアはパンを小さくちぎりながら、昨夜より少し体の重さを感じていた。


昨日はたくさん歩いた。

街を見て、買い物をして、食事をして、ルカと少しだけ走って、宿へ来た。

楽しむはずではなかったのに、どれも楽しかった。

けれど、体はまだそのすべてについていけていない。


ルカは木杯を置きながら言った。



「僕は少し買い足しに行ってくるよ。昨日、細かいものを全部は見られなかったし、ついでに情報も拾ってくる」


「情報?」



フィアが訊く。



「この先の道のこと。あと、教会の噂がどのくらい流れてるか」



その言葉に、フィアの手が少し止まる。

ルカはすぐに軽く笑った。



「変な意味じゃないよ。知らない方が危ないってだけ」



シリウスも頷く。



「私は馬の様子と、宿の周辺を確認してきます」


「二人とも、出るの?」



フィアがそう言うと、シリウスの目がすぐにこちらを向いた。



「フィア様は、どうされますか」



それは、どちらについてくるのか、という意味に聞こえた。


フィアは少し考えた。

本当は、どちらかについていくと言うべきなのかもしれない。

一人でいるのは怖い。

けれど、外に出ればまた人の中を歩くことになる。

昨日の疲れが、まだ体の奥に残っている。


フィアはゆっくり息を吸った。



「私、今日は少し休んでいたい」



シリウスの表情がわずかに強張る。



「お一人で、ですか」


「うん」



フィアは頷く。



「昨日、たくさん歩いたから。無理してまた熱を出したくない」



それは言い訳ではなかった。

本当にそう思った。

これ以上、二人に余計な心配をかけたくなかった。



「鍵を閉めて、誰が来ても開けない。だから大丈夫」



シリウスはすぐには答えなかった。



「いえ、私も残ります」


「シリウス」



フィアは静かに名前を呼んだ。



「私、休んでるって、自分で決めたの。だから外の用事はお願い。邪魔したくない」


「邪魔していません」


「邪魔をしているって、自分で思いたくない」



その一言に、シリウスは口を閉ざした。


フィアが自分で決めたこと。

誰かが、ではなく自分が、と考えたこと。

それを、彼がどれほど重く受け止めるかを、フィアはもう少しずつ知っている。


シリウスは短く息を吐いた。



「……分かりました」



それでも、声には不安が残っている。



「ただし、誰が来ても開けないでください」


「うん」


「私たちが戻っても、すぐには開けないでください。必ず声を確認してください」


「分かった」


「少しでもおかしいと思ったら、返事もしないでください」


「うん」


「私はすぐに戻ります」



その言葉は、いつもより強く聞こえた。

自分に言い聞かせるようでもあった。


ルカが横から言う。



「僕もなるべく早く戻るよ。戻ったらちゃんと名乗る」



シリウスがルカを見る。



「その前に私が戻っているから問題ない」



ルカは小さく肩をすくめた。



「フィア、昨日はたくさん歩いたからね。鍵を閉めて、休んでいて」


「うん」


「あと、暇だからって窓から下を覗き込みすぎないこと」


「そんなこと、しない」


「できれば窓にもあまり近寄らないでください。カーテンも開けないほうが安全です」



ルカが苦笑した。



「昨日の僕のせいで、注意事項が増えてるね」



昨日、シリウスの目から逃れるようにルカに手を引かれて走ったことを、フィアは思い出した。



「増えた原因はお前だ」



シリウスが低く言う。



「反省してるよ」


「しているようには見えない」


「少しはしてる」



それでもルカは笑っていた。

フィアも、少しだけ笑った。



二人を部屋の前で見送ったあと、フィアは内側から鍵を閉めた。


かちり、と音がする。

その音を聞いて、少しだけ安心する。


鍵は閉めた。

誰が来ても開けない。

シリウスにも、ルカにも、そう約束した。


だから大丈夫。

フィアはそう思おうとした。


部屋は、急に広く感じられた。


ほんの少し前まで三人でいた場所なのに、一人になると、同じ部屋とは思えない。


寝台も、長椅子も、簡素な卓も、昨日見たものと変わらない。

それなのに、物音が少ないだけで、部屋の広さまで違って感じられた。


階下からはかすかに人の声が聞こえていた。

食堂で誰かが椅子を引く音。

皿を重ねる音。

遠くで店主が返事をする声。


廊下では、時々足音がする。

宿の客か、店の者か。

通り過ぎていくだけの足音だ。


フィアは息を整え、窓から一歩離れた位置から外を見る。

細い路地が見える。

朝の光が壁の上の方だけを照らし、下の石畳はまだ少し暗い。

人影が一度通り過ぎたが、すぐに見えなくなった。


フィアはそっとカーテンを閉めた。

二人に言われたことを思い出したからだ。


薄いカーテンは完全には光を遮らなかったが、部屋の明るさは少しだけ落ち着いた。


慎重過ぎる気もしたが、自分のために言ってくれた言葉を守りたかった。


気を紛らわせるように、フィアは寝台の枕元に手を伸ばす。


灰青の布。

端に小さな花の刺繍がある布。

昨日、自分で選んだもの。


フィアはそれを広げ、鏡の前に立った。

宿の鏡は小さく、少し曇っていた。

そこに映る自分は、まだ旅装束に馴染みきらず、どこか不安そうに見える。


布を髪に当ててみる。


白色金の髪が、灰青の布の下へ少し隠れる。

花の刺繍が、こめかみのあたりに小さく見えた。


「……変じゃ、ないかな」


誰に聞くでもなく、呟く。


似合っているかは分からない。

かわいいと思って選んだことが、今さら少し恥ずかしくなる。

自分にそんなものを選ぶ資格があるのか、と考えかけて、フィアは小さく首を振った。


資格ではない。

昨日、自分で選んだ。


それだけは本当だった。


次に、青いガラス玉の髪飾りを手に取る。

ルカに買ってもらったもの。

小さな金具を開き、鏡を見ながら髪に留めてみる。


慣れていないせいで、少し時間がかかった。

それでもなんとか留めると、白色金の髪の中で青い光が小さく揺れた。


フィアは鏡の中の自分を見る。


見慣れない。

けれど、嫌ではなかった。



「シリウスに、見せるの忘れてた」



帰ってきたら見てもらおう。

そう思った。


シリウスはきっと、最初に「邪魔になりませんか」と言う。

それから少し考えて、「よくお似合いです」と言ってくれるかもしれない。

言ってくれないかもしれない。

でも、見てもらいたかった。


ルカにも、ちゃんとつけたところを見せたい。

昨日は突然で、よく分からないままだったから。


そう考えていると、少しだけ胸が温かくなる。


自分で選んだ布。

贈られた髪飾り。

見てもらいたいと思う相手。


そういうものが増えていくことが、嬉しい。

嬉しいのに、少し怖い。


フィアは布をベッドの上へそっと置いた。

髪飾りは、つけたままにした。



その時、廊下で足音がした。



最初は、ただの通り過ぎる他の宿泊客だと思った。


この宿には他にも人が泊まっている。

誰かが階段を上がり、自分の部屋へ戻ることくらい、何もおかしくない。


けれど、その足音は少し重かった。


一歩。

また一歩。


床板がわずかに軋む。

足音は部屋の前を通り過ぎるかと思ったが、扉の前で止まった。


フィアの手が、髪飾りに触れたまま止まる。

心臓の音が大きくなる。


扉の向こうで、布が擦れるような音がした。

壁に誰かの指が触れるような、かすかな音も。


フィアは息を止める。

声がした。



「……いないのか」



低いくぐもった声だった。


フィアは知らない声だと思った。

少なくとも、覚えている声ではない。


それなのに、背筋が冷える。


続いて、もう一つの声が落ちた。

細く、静かな声だった。



「静かだな」



声は潜められている。

けれど部屋の中が静かすぎて、扉越しでも聞こえてしまう。


フィアは動けなかった。


シリウスでもない。

ルカでもない。


そもそも二人はまだ出かけたばかりだ。

戻ってくるには早すぎる。



「部屋はここで間違いないんだろうな」



低い声が苛立つように言う。



「宿帳で確認した。店主が書き込んだ部屋番はここだった」



宿帳。

その言葉に、フィアの胸がぎゅっと縮む。


昨日、宿帳。

シリウスが入口の方を見ていた。

何かに気づいたような顔をしていた。


あの時、何かがあったのだろうか。



「外に出たのか?」


「そうかもしれない」



細い声は落ち着いていた。



「だが、荷があれば戻る」


「中を見れば分かるな」


「そういうことだ」



そこで、低い声が少し笑った。



「聖女様が、自分の荷を置いて逃げるとも思えないしな」



フィアの体が凍りついた。


聖女様。


その呼び方が、扉越しに冷たく部屋へ入り込んでくる。


丁寧な言葉のはずなのに、そこに敬意はなかった。

人を呼ぶ声ではない。

探していたものを見つけた時のような声だった。


フィアは息を吸うことも忘れた。


知らない声。

覚えていない声。


けれど、その言葉だけで分かってしまった。


この人たちは、自分を探している。



「おい、早くしろ」



低い声には苛立ちが混じっていた。

その直後、扉の向こうで金属が触れる音がした。


かちゃ。


フィアは息を止めた。


何の音か、最初は分からなかった。

けれど、すぐに気づいてしまう。



鍵穴だ。


誰かが、鍵をいじっている。



「まだか」


「急かすな。音が立つ」



細い声が、少しも慌てずに返す。


かち。


また、小さな音がした。


金属が細く擦れる。

鍵穴の奥で、何かが触れる。


フィアは鍵を見ていない。

けれど、音だけで分かってしまう。


鍵を開けようとしている。


閉めたのに。

自分で閉めたのに。

シリウスと約束したのに。



「宿屋の鍵なんて、どこも似たようなもんだ」



細い声が囁く。



「簡単に開く」



フィアの喉が震えた。

声が漏れそうになって、慌てて両手で口を押さえる。


ここにいたら、見つかる。


そう思った瞬間、ようやく身体が動いた。


灰青の布がベッドの上に広がっている。

それを手に取るべきか、一瞬迷う。


けれど、もう間に合わない。


フィアは布を置いたまま、奥のベッドの下へ身を滑り込ませた。


床板は冷たかった。

ベッドの下には埃の匂いがあり、木の脚の影が暗く落ちている。

体を小さく丸めるが、息苦しいほど狭い。


心臓の音が大きすぎる。

この音が外へ聞こえてしまうのではないかと思うほどだった。


髪飾りの金具が床に触れそうになる。

フィアは首を動かせないまま、必死に身を固くした。


ベッドの上には、灰青の布がある。

自分で選んだ布。

小さな花の刺繍のある布。


それを置いたまま、隠れてしまった。


かちり、と小さな音がした。


フィアの胸が止まりそうになる。



鍵が、開いた。



扉が、ほんの少しだけ内側へ動く。

廊下の光が細い線になって、床の上へ伸びた。


その光が、ベッドの下まで届く。


フィアは髪飾りの金具が床に触れないよう、身じろぎひとつせず息を殺した。

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